恵良城

愛媛県松山市上難波にある恵良城。
風早の城跡群の代表格。恵亮城、立烏帽子山とも。

北条地区の目立つ山。
アクセスも容易で33.990404, 132.798092から登ることが出来る。車でも行けそうだが道が狭い箇所がある。一応登山口付近は広い。

築城ははっきりしないが、天暦二年に河野親経が築城とも云う。
治承五年に河野通清が高縄山城挙兵の折、額西寂が押し寄せた為に守を固めた城の一つで、史料上ではこれが初見。
建武二年には北条の残党である赤橋重時が立烏帽子城で挙兵。赤橋は宮方によって敗北したが、この立烏帽子城が恵良城か面木山と云われている。

興国二年、南北朝の争乱の中で宮方の土居通世が武家方の河野通盛と戦い道後で敗北。退いて恵良城へ入っている。

貞治三年、細川頼之が大軍を以て伊予へ攻め込み、世田山城で河野氏当主である河野通朝が自害した。この時通朝の子である通堯が恵良城におり、高縄山城等に移り湯月城を攻めるなど細川勢と戦ったが劣勢となり再び恵良城へ撤退。村上義弘や今岡通任らの協力を得て九州大宰府へ落ちて宮方に寝返る。

文正元年、安芸武田氏が伊予へ襲来し恵良城で戦いが起きている。河野勝生・忽那通光・東俊之などが戦う。忽那文書に文正元年十一月十二日と応仁元年八月二十二日の文書で忽那通光に功があった事がわかる。

戦国時代になると得居氏の城となる。
河野分限禄によると得居氏は河野氏侍大将十八将の一人。

河野氏滅亡後、来島氏の有する所となり、慶長五年に来島氏が関ケ原の戦いの折に西軍方に属していた為豊後森へ移封されるまで使用された。

その他、城主には望月六郎左衛門も伝わる。

登山口
看板や杖も置いてある。

石垣
城全体にところどころ残っており、崩れた石材も多数。


二の丸
最も広い曲輪で神社が建っている。

主郭方面へは鎖で登る。

主郭

主郭最上段

主郭部にある堂

腰曲輪と崩れた石垣

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