カテゴリー: 岐阜県

美濃・善憧寺、竹中氏墓所ほか

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明応三年、正碩和尚の開基。竹中氏の菩提寺。
本堂は重常の代、寛文三年のもの。享保・明治年間に修理の由。
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竹中氏墓所。
有名な竹中重門以降、岩手を本拠として交代寄合となる。
幕末によく聞く竹名重固はここの当主。
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竹中重治の墓。竹中半兵衛でよく知られる。
重門が三木から移したもの。
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竹中重元の墓。重治の先代。斎藤氏に属す。
重治・重元共に左端にあり。
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花村尚禮の墓。
竹中氏の家臣。文政十年生。領校・菁莪堂で学んだ後、
江戸で山本竹鳳、佐藤一斉らに学ぶ。
重固の代に、参謀役となるも、戊辰の敗戦の後に竹中氏は領地を没収。
明治期は俳諧で名をのこす。
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大野是什坊の墓
竹中氏家臣。大野瀬兵衛親芳。享保十二年生まれ。元文三年に近衆。
宝暦二年に公用側用人となり江戸詰めに、この時俳諧師となる。
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国井化月坊の墓。
竹名氏家臣。
寛政六年生。国井喜忠太義睦。
文化六年より江戸詰め。文政六年御留守居役。天保三年御用人役兼帯。
俳諧に長じ、美濃派十五世となる。
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長原武の墓。
文政六年生まれ。山鹿素水門下。
吉田松陰とは親しかったという。

美濃・岩手陣屋

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垂井町岩手にある岩手陣屋。
交代寄合竹中氏の陣屋。竹中重門が菩提山城山麓館からここへ移転してきた。文禄・慶長のころという。
慶長五年にすぐそばで関ケ原の戦いが起こり、見舞として米千石を与えられてようやく完成した。以降、類題の本拠となる。

石垣、櫓門が現存。櫓門は明治十四年には菁莪義校という学校の正門となった。明治政府から壊せと言われたが、学校の正門だからとして破壊しなかったため、現存に至る。
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側には堀も残る。

美濃・大神神社(上石津)

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上石津にある大神神社。交代寄合高木三家の陣屋側にある。
朱鳥六年、持統天皇伊勢行幸のおり、三輪高市麻呂が神託を受けて建てたという。
永久元年、神武と五十鈴姫お社殿が流されたものを合祀し流彦大明神と称し、七堂伽藍を建てて栄える。
安元二年、高倉天皇の時に仏像寄進。明治四年に大神神社と改めたという。

鳥居前に大木が並ぶ。調べてはいないので詳しいことはわからないが、高木家の陣屋そばであるため、関係もあったりするのだろうか。

美濃・東高木陣屋

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上石津の東高木陣屋。
西高木・北高木とともに交代寄合美濃衆。一千石。
西高木東の下段、伊勢街道沿いにある。
埋門の先。

街道沿いには石垣も残り、側に土蔵が現存する。文政年間の建築物で、大正十年、昭和五十四年に改修され、なまこ壁の造り。

美濃・西高木陣屋

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上石津にある西高木陣屋。
高木家は交代寄合。参勤交代を行う良くも悪くも大名扱いの武家。
下段にある北高木・東高木と共に美濃衆と呼ばれる。
交通の要衝のため当地を守り、また、代々木曽川管理として水行奉行を務めた。

三家の陣屋が固まって一つの城のようになっており、西高木は最高所に居る。
東側の埋門や石垣が遺構としてよく残り、大部分は民家や郷土資料館となってる。

敷地内に西高木家墓所もあるようだが、民家裏らしいのでさすがに入る気はない。DSCN7977_R
埋門跡。このあたりは遺構が良好。
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石垣。

 

美濃・今尾城

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美濃の今尾城。のち今尾陣屋。
文明年間に中島重長によって築かれ、重行の時に織田信長に落とされる。
永禄十年に高木氏が入り、その後森寺、戸倉と変わって天正十五年に市橋長勝が入る。しかしこれも他へ移る。
元和五年に竹腰正信が入って定着。竹腰氏は尾張藩附家老として代々ここに居し、慶応四年の武家整理で大名へ昇格する。

現状は今尾小学校となっており、確認はできない。学校手前に水路があるが、堀の名残だったりするのだろうか。
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気づけばきれいな案内板も増えている。
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近くにある西願寺の山門。今尾城の移築門。
数少ない今尾城の現存建築物。