愛媛県西条市壬生川にある鷺ノ森城
鷺森神社になっている場所。
城主は桑原氏(壬生川氏)。河野十八将。
この場所は河野通盛が文和元年に埋め立てを行った場所。伊勢神宮を勧請し、社の楠森白鷺の大群が住み着いた為に鷺森と呼ばれるようになった。
応永元年、河野通之の代に桑原通興を此処へ移して鷺ノ森城を築かせた。桑原氏は以降壬生川氏を称した。なお桑原氏は出雲坊宗賢の子孫であり当初は桑原城を本拠としていた河野一族。
〇元亀三年の三好・織田との戦いで鷺ノ森城は河野方の本陣として使用された。
三好氏は細川氏を滅ぼして勢いに乗っており、同じく勢力を拡大していた織田氏と結んで伊予攻めの援軍を得た。三好軍は川之江から西へ進み、織田軍の山岡対馬守や平手某は海路から河野氏の本拠を直接叩きに和気郡へ進んだ。
この動きを察知した川之江城の妻鳥采女正が湯築城へ通報。当主の河野通直および貢献の通吉は合議の末、道後平野に河野通直や補佐に由並通資ら千八百、東予方面へは通吉二戦が向かう事になった。
九月十一日、通吉は湯築城を発して同日中に鷺ノ森城ヘ入場。城主である壬生川通国に迎えられた。
九月十二日、壬生川通国・黒川通博が三好方に付いた高尾城の石川越前守を攻撃。舟形神社付近で戦闘が始まり、石川軍は敗走して城に籠った。宇野家綱や土肥通建の軍が外郭を破って河野方の総攻撃となり、高尾城は落城。城主石川越前守は自害した。
また、同日川之江でも戦闘があった。妻鳥采女の川之江城へは河上但馬守や前川善兵衛らが援軍に入る。薦田大和守らが先導する三好軍が搦め手から進み、三好長治の軍が海から上陸を計ったが、鉄砲による攻撃で上陸はできなかった。
九月十三日、鷺ノ森の本陣では石川氏の高峠城を落とすべく土居通利・戒能通森・垣生通周の軍で攻めさせたが決着がつかず夕方に鷺ノ森城へ撤退。
この時川之江の三好長治は高峠城危急を聞き、兵に川之江城を包囲させて夜に自身は高峠城支援に向かった。
九月十四日、三好の動きを知った鷺ノ森城の通吉は本陣を土居通建・栗上通閑へ守らせ、高峠城へは黒川・壬生川・垣生を向かわせ、通吉は自ら八百を率いて加茂川へ出陣。本陣には土居・戒能。先陣には第一陣に平岡、第二陣に南、第三陣に旗本。後詰に松末・垣生。
この時三好軍の先鋒である十河久米之助が手強く、第一陣が敗れ第二陣も劣勢となり、本陣から土居・戒能や通吉も加わったが敗北。通吉は高峠城攻めの軍と共に鷺ノ森城へ撤退した。
十四日の夜、三好・石川軍は勝利に喜び酒宴を開いていた。この報せを受けた通吉は平岡・土居と共に五百を率いて敵陣営を急襲。敵は狼狽して逃げ出し、通吉軍は首八十級を挙げる勝利を得た。さらに川之江でも越智郡の今岡・村上・東条の軍が三好軍の船へ夜襲をかけた。東条藤兵衛が三好吏部を討ち取るなど善戦し大勝となった。
この戦いで孤立した石川氏は河野氏に降参し服属した。三好長治はわずか五名でなんとか阿波へ逃げ帰った。
なお、河野本拠を叩きに海路を進んだ織田軍も葛籠屑城を落として初戦は善戦したが敗北。九月十八日には鷺ノ森城へ敵撤退の報せが届いた。
〇天正二年三月二十九日、黒川氏と壬生川氏はかねてより争っていたが、壬生川摂津守通国が万福院で近隣諸将を招いての猿楽興業を開いた。しかし夕刻、黒川通博の嫡子である宗太郎通長の見送りに玄関を出た所で宗太郎に殺害された。宗太郎らは混乱に乗じて榎ノ木城へ逃げ込んだ。
壬生川氏一族の桑原泰国は五十を率いて榎ノ木城を攻めて宗太郎を自害させる。だが黒川通博も兵百を率いて駆けつけ争いとなる。
この争いを見かねた河野氏によって松末美濃守通為を向かわせて両者を和睦させた。殺された壬生川通国の跡は桑原泰国が継ぎ鷺ノ森城主となった。
〇天正三年、新居浜の金子元宅は桑原氏と不仲であり、家人を壬生川へ送り込み米や栗を買わせて引き返した。これを桑原泰国は怒り、稲井内蔵進に奪い返すよう命じる。稲井は二十を率いて金子氏家人を襲った。
この事件によって金子氏が報復に来ると云う噂が出た為、桑原泰国は毛利氏から援軍を頼み、高橋右京進が三十騎を率いて来訪。さらに来島通総が後詰として参陣した。
桑原泰国は鷺ノ森城へ兵二百をいれ、付近の周敷社の森へ八十を隠し待ち伏せした。
これに対して金子軍三百が襲来し鷺ノ森城を包囲。斥候を出した所城中は静かだったので、城北で人家の焼き討ちを始めると、城中から鉄砲で攻撃が始まった。金子軍は混乱した所に隠しておいた高橋・来島の伏兵が襲い掛かり桑原軍の大勝となった。
のち高橋右京進は壬生川の喜多台の地頭職が与えられ移り住んだ。この縁で高橋氏の氏神だった厳島神社を桑原城内に勧請し、厳島神社同様に管弦祭を行うようになった。
また、同年に宇摩・新居郡の諸将が長曽我部氏に通じているとの事で湯築城から十五騎・足軽五十が鷺ノ森城へ派遣された。
天正十三年、小早川隆景の伊予攻めの際、桑原泰国は鷺ノ森城で防戦したが戦死し落城した。
天正十六年、福島正則が伊予へ入った際に弟の福島助六が在城下。
その後、ほどなくして城は廃城となった。
主郭の鷺森神社
堀跡
城の名残
狛犬側に城の石碑
藩政時代の米倉跡
鷺森神社の楠
鷺森の名前の由来になった楠。昔は群生して森となっており白鷺が住み着いていた。
市指定天然記念物