カテゴリー: 天正の陣と諸将関係

妙福寺・片岡光綱の墓

高知県高岡郡越知町片岡にある後城山前川院妙福寺。
真言宗。乗台寺末寺。本尊は千手観音、不動明王

開基年は不明で天正四年以前と云う。
片岡氏の祈念寺となったが、明治四年の廃仏毀釈で廃寺。
昭和四十四年、寺が復興された。

33.573538, 133.285211にあり。
道は狭いが境内は広く、来るまでも上がることが出来る。

片岡光綱の墓
片岡氏十四代。すぐ背後の片岡城主。
高岡郡・吾川郡の北部における大豪族。
元亀二年長宗我部氏に降ったのち、天正十三年に天正の陣に於いて金子城へ援軍に赴き戦死。
金子城麓の慈眼寺にも供養塔がある。

獅子ヶ鼻城

愛媛県西条市小松町大頭にある獅子ヶ鼻城。
33.877360, 133.072265の山にある。猪鼻城とも。
天福寺東の道を南に進んでいくと33.872969, 133.071682で折り返して北へ向かう道になる。城の側まで行けるので後は適当に登る。
曲輪は二段、南北に堀切が連なる。

城主は今井氏・宇野氏。
当初は今井三郎左衛門が在城した。

宇野氏は周布郡の国人。
河野分限禄では御足軽大将十五人の一人に宇野隼人正織弘が数えられている。

獅子ヶ鼻城は文明十一年に細川義春が伊予へ侵攻した際、宇野通平が在城していた。
細川義春軍に獅子ヶ鼻城を攻撃され、通平は細川方香西某へ夜襲を仕掛けたが失敗し、大熊城へ退いた話が残る。(温故禄・河野家譜・小松邑誌・二名集)

元亀三年、三好・織田連合軍襲来時には河野氏配下として、三好方に付いた石川氏の高尾城攻めに加わった。
天正十三年、宇野織弘の代の小早川隆景による天正の陣では郷土軍には加わらず、小早川方に属した。縁戚の来島氏からの誘いとも云う。しかし七月十六日に桑村衆の襲撃を受けて戦死。
別項に書いたが北麓の天福寺は宇野氏菩提寺で在り、道を挟んで東側の墓地に宇野隼人正織弘の墓がある。

道から見えている堀切部分

堀切二つ目

堀切三つ目

主郭

主郭北下段。

松木三河守安村の碑

愛媛県新居浜市角野新田町にある松木三河守安村の碑。
城主神社側の33.926711, 133.311350にある。

松木氏は近くの生子山城主であり、松木安村の代は天正の陣で小早川隆景と戦って野々市原で戦死した。
昭和三十九年、安村戦死の四百年祭があり、此処へ石碑が建てられた。

となりの城主神社

三谷城、十三人塚

愛媛県西条市周布にある三谷城。
33.913841, 133.079787にある。
城の遺構はほぼ無いが、各所に石碑や説明看板が出ている。

古くは温故禄で大宝年間に越智益男(玉澄の子)の館だったとも云う。
弘安年間、三谷美作介政久が阿波から移り三谷城へ居住した。
源平合戦の元暦二年の頃、河野通信が平家方だった阿川の高市氏を攻撃した際、高市氏の応援として来ていた田口成良も敗れて阿波へ撤退。この時此処に居た三谷秀則も共に阿波へ逃げた。
その後、河野通久が承久の乱で阿波富田を有しのち伊予石井と交換した際に、三谷政久が河野氏を頼って伊予へ復帰した。

室町時代には越智備前守が居たという。
大永年間からは渡辺氏が居城。
享禄四年、黒川元春が三谷城を攻めて落城させ、渡辺氏を滅ぼす。代わって城主になったのは渡辺氏家臣だった荒井藤四郎で、黒川八人衆となる。
天正十三年の天正の陣では小早川氏に降り生き延びた。
文禄四年には荒井藤四郎は一揆を企てたようで、周布の庄屋となっていた一色重之によって攻撃され戦死した。以降は一色重之が居た。

その他、城主には越智左衛門尉の名がある。
なお、渡辺氏の墓所は近くにある。

荒井藤四郎館碑
33.914450, 133.081246。

十三人塚
33.914907, 133.080936。
一色重之に攻められて戦死した荒井藤四郎郎党十三人の首塚。
石がまとめてあるものと、隣には墓石が並ぶ。

水路。

報恩寺、河野通生・近藤長門守の墓

愛媛県西条市丹原町高知にある大義山報恩寺。
文明十一年、河野通生が田畑山林を寄進し菩提寺として建立した。
開山は無際聖周禅師、本尊は阿弥陀如来で鎌倉時代の作。

本堂は延宝元年・宝暦二年・天保七年・昭和六十二年に再建。

河野通生の墓
通久の次男。宗家を継いだ兄の河野教通を支え、生涯無敗と云われた名将。
文正元年の安芸武田襲来時には子の勝生を遣わして撃退。
応仁の乱では大物浦で細川軍を撃破。
文明十一年、細川義春が伊予へ大挙して攻めてきた際は世田山城等で細川勢を撃退した。
なお、河野通直(牛福)は通生の血筋であると云う。
報恩寺殿貞厳忠大禅定門。五輪塔。

近藤長門守の墓
33.920916, 133.041704にある。寺北側の道から行ける。
雲祥院殿虎山玄龍大居士。
横山城主であり、石川虎竹の後見。天正十三年に天正の陣で戦死した。

此処の墓碑には近藤長門守重久とある。しかし近藤長門守を祀る近藤神社では近藤長門守尚盛。

鷺ノ森城

愛媛県西条市壬生川にある鷺ノ森城
鷺森神社になっている場所。
城主は桑原氏(壬生川氏)。河野十八将。

この場所は河野通盛が文和元年に埋め立てを行った場所。伊勢神宮を勧請し、社の楠森白鷺の大群が住み着いた為に鷺森と呼ばれるようになった。

応永元年、河野通之の代に桑原通興を此処へ移して鷺ノ森城を築かせた。桑原氏は以降壬生川氏を称した。なお桑原氏は出雲坊宗賢の子孫であり当初は桑原城を本拠としていた河野一族。

〇元亀三年の三好・織田との戦いで鷺ノ森城は河野方の本陣として使用された。
三好氏は細川氏を滅ぼして勢いに乗っており、同じく勢力を拡大していた織田氏と結んで伊予攻めの援軍を得た。三好軍は川之江から西へ進み、織田軍の山岡対馬守や平手某は海路から河野氏の本拠を直接叩きに和気郡へ進んだ。
この動きを察知した川之江城の妻鳥采女正が湯築城へ通報。当主の河野通直および貢献の通吉は合議の末、道後平野に河野通直や補佐に由並通資ら千八百、東予方面へは通吉二戦が向かう事になった。
九月十一日、通吉は湯築城を発して同日中に鷺ノ森城ヘ入場。城主である壬生川通国に迎えられた。
九月十二日、壬生川通国・黒川通博が三好方に付いた高尾城の石川越前守を攻撃。舟形神社付近で戦闘が始まり、石川軍は敗走して城に籠った。宇野家綱や土肥通建の軍が外郭を破って河野方の総攻撃となり、高尾城は落城。城主石川越前守は自害した。
また、同日川之江でも戦闘があった。妻鳥采女の川之江城へは河上但馬守や前川善兵衛らが援軍に入る。薦田大和守らが先導する三好軍が搦め手から進み、三好長治の軍が海から上陸を計ったが、鉄砲による攻撃で上陸はできなかった。
九月十三日、鷺ノ森の本陣では石川氏の高峠城を落とすべく土居通利・戒能通森・垣生通周の軍で攻めさせたが決着がつかず夕方に鷺ノ森城へ撤退。
この時川之江の三好長治は高峠城危急を聞き、兵に川之江城を包囲させて夜に自身は高峠城支援に向かった。
九月十四日、三好の動きを知った鷺ノ森城の通吉は本陣を土居通建・栗上通閑へ守らせ、高峠城へは黒川・壬生川・垣生を向かわせ、通吉は自ら八百を率いて加茂川へ出陣。本陣には土居・戒能。先陣には第一陣に平岡、第二陣に南、第三陣に旗本。後詰に松末・垣生。
この時三好軍の先鋒である十河久米之助が手強く、第一陣が敗れ第二陣も劣勢となり、本陣から土居・戒能や通吉も加わったが敗北。通吉は高峠城攻めの軍と共に鷺ノ森城へ撤退した。
十四日の夜、三好・石川軍は勝利に喜び酒宴を開いていた。この報せを受けた通吉は平岡・土居と共に五百を率いて敵陣営を急襲。敵は狼狽して逃げ出し、通吉軍は首八十級を挙げる勝利を得た。さらに川之江でも越智郡の今岡・村上・東条の軍が三好軍の船へ夜襲をかけた。東条藤兵衛が三好吏部を討ち取るなど善戦し大勝となった。
この戦いで孤立した石川氏は河野氏に降参し服属した。三好長治はわずか五名でなんとか阿波へ逃げ帰った。
なお、河野本拠を叩きに海路を進んだ織田軍も葛籠屑城を落として初戦は善戦したが敗北。九月十八日には鷺ノ森城へ敵撤退の報せが届いた。

〇天正二年三月二十九日、黒川氏と壬生川氏はかねてより争っていたが、壬生川摂津守通国が万福院で近隣諸将を招いての猿楽興業を開いた。しかし夕刻、黒川通博の嫡子である宗太郎通長の見送りに玄関を出た所で宗太郎に殺害された。宗太郎らは混乱に乗じて榎ノ木城へ逃げ込んだ。
壬生川氏一族の桑原泰国は五十を率いて榎ノ木城を攻めて宗太郎を自害させる。だが黒川通博も兵百を率いて駆けつけ争いとなる。
この争いを見かねた河野氏によって松末美濃守通為を向かわせて両者を和睦させた。殺された壬生川通国の跡は桑原泰国が継ぎ鷺ノ森城主となった。

〇天正三年、新居浜の金子元宅は桑原氏と不仲であり、家人を壬生川へ送り込み米や栗を買わせて引き返した。これを桑原泰国は怒り、稲井内蔵進に奪い返すよう命じる。稲井は二十を率いて金子氏家人を襲った。
この事件によって金子氏が報復に来ると云う噂が出た為、桑原泰国は毛利氏から援軍を頼み、高橋右京進が三十騎を率いて来訪。さらに来島通総が後詰として参陣した。
桑原泰国は鷺ノ森城へ兵二百をいれ、付近の周敷社の森へ八十を隠し待ち伏せした。
これに対して金子軍三百が襲来し鷺ノ森城を包囲。斥候を出した所城中は静かだったので、城北で人家の焼き討ちを始めると、城中から鉄砲で攻撃が始まった。金子軍は混乱した所に隠しておいた高橋・来島の伏兵が襲い掛かり桑原軍の大勝となった。
のち高橋右京進は壬生川の喜多台の地頭職が与えられ移り住んだ。この縁で高橋氏の氏神だった厳島神社を桑原城内に勧請し、厳島神社同様に管弦祭を行うようになった。
また、同年に宇摩・新居郡の諸将が長曽我部氏に通じているとの事で湯築城から十五騎・足軽五十が鷺ノ森城へ派遣された。

天正十三年、小早川隆景の伊予攻めの際、桑原泰国は鷺ノ森城で防戦したが戦死し落城した。
天正十六年、福島正則が伊予へ入った際に弟の福島助六が在城下。
その後、ほどなくして城は廃城となった。

主郭の鷺森神社

堀跡
城の名残

狛犬側に城の石碑

藩政時代の米倉跡

鷺森神社の楠
鷺森の名前の由来になった楠。昔は群生して森となっており白鷺が住み着いていた。
市指定天然記念物

任瑞和尚の墓

愛媛県西条市大町にある任瑞和尚の墓
33.912374, 133.184658にある。
徳常寺の住職。

天正十三年七月十七日、天正の陣において小早川隆景の軍勢が迫る中、禎祥寺の林瑞和尚ら共に迎撃。
任瑞は怪力の持ち主で寄せ手に墓石を投げて戦った。
しかし任瑞らは戦死し、寺も焼失。

墓石である五輪塔は五輪さんと呼ばれている。

仏殿城

愛媛県四国中央市川之江町にある仏殿城。
川之江城の名でも知られる。

河野通政が細川氏の備えとして土肥義昌に築城させた。
康永元年、脇屋義介が死んだのを機に、細川頼春が讃岐阿波の軍勢七千を率いて伊予へ攻めこんだ。この時玄関口である仏殿城が標的にされ土肥義昌らは防戦に努めたが落城した。
以降、伊予の東端であるため細川が攻め込むたびに戦場になる。
さらに貞治三年、細川頼之が河野通朝を攻めるため伊予へ侵攻した際にも落城。
康暦元年、細川頼之が河野通堯を攻めた際にも落城。
天文八年にも細川持隆に攻められたと云う。

元亀三年頃には河野方の妻鳥采女が在城し、三好氏や薦田氏の攻撃に際して撃退。
天正二年、妻鳥は長曽我部氏に内通。河野氏は河上但馬守に妻鳥を攻めさせ落城させた。以降仏殿城へは河上但馬守が在城する。
天正十年、長曾我部方の攻撃を受けて落城。河上但馬守は防戦の末に自害。討ち取られたとも云う。
さらに天正十三年、小早川隆景の伊予侵攻によって落城する。

現在は模擬天守と模擬櫓門が建つ公園になっており、遺構はあまり残っていないと云う。
なお、最初の城主である土肥義昌の墓が南麓にある。
さらに終盤の城主河上但馬守の墓は仏法寺と大王製紙付近の二か所にある。

模擬櫓門

生子山城

愛媛県新居浜市種子川山にある生子山城
松木氏の城。庄司山代とも云う。
松木三河守安村が最も知られる。

築城は松木通村または景村という。
暦応元年、鳥生貞実が新居関での戦闘後に生子山城へ入り警固している。
正平二十四年、一条修理俊村が城主として在城しており、細川頼之との戦いで河野通堯に属して戦っている。
その後小松邑誌では俊村は康暦元年に戦死したと云う。温故禄では細川頼之によって落城。この年は河野通堯らが戦死した年。
以降、子孫は松木氏を称し代々在城。

天正十三年、天正の陣には松木安村が在城。安村は金子元宅らと共に高尾城へ移ったが野々市原で戦死。生子山城でも防戦するが八月六日に落城。温故禄や小松邑誌ではこの時松木安邦が自害したと云う。

なお、松木三河守安村は供養塔がいくつかあり、野々市原古戦場・妙本寺・城の北側にある城主神社の三か所にある。

城域は生子山山頂域と煙突山からなる。
33.920352, 133.308735この付近から煙突山へ上がることができ、そのまま山頂まで道が付いている。

煙突山
別子銅山の煙突が残る。城郭体系では此方が生子山城と説明されている。城館分布報告書では出丸程度のものとされている。

途中の神社
此処の奥に山頂への道がある。

神社奥の登山道。杖置かれており道はしっかりしている。

途中にある石垣

山頂域鉄塔の曲輪

二の段と云われている曲輪。

主郭

主郭の石仏

岡崎城(新居浜)

愛媛県新居浜市郷にある岡崎城。
藤田氏の城。

伊予温故禄で藤田氏の先祖について触れており、南朝遺臣である藤田某が新田氏の子孫を探して来訪し、そのまま土着して岡崎城を築いたと云う。
のち新居・宇摩郡の旗頭である伊予石川氏に属す。

天正年間には藤田山城守芳雄とその子・山城守忠俊が居た。
天正十三年、天正の陣における野々市原での合戦で芳雄は戦死。忠俊は三原に逃れて生き延びのち伊予へ戻って庄屋となった。
城は戦いで焼け落ちたという。
なお、別項で書いたが芳雄の墓が西麓の上徳寺跡(現薬師堂)、忠俊の墓は慈眼寺にある。

城へは鉾前神社から道が続いている。
南の岡崎公園から歩いて行ける。
五つの曲輪からなり、本丸~三の丸、厩、台所と名付けられている。

鉾前神社

鉾前神社奥の登山口

曲輪

石垣跡?

二の丸

主郭
一部が開けており展望が良い