カテゴリー: 伊予西園寺氏と南予武士

一宮神社(魚成)

愛媛県西予市城川町魚成にある一宮神社

33.371306, 132.702278に入口。
駐車場もあって参拝が容易な場所。

祭神は大己貴と猿田彦。
健治三年、土佐一宮の尊像が天をかけて東宇和郡釜ノ川岡田森に籠った、
これを隆ヶ森城の魚成氏が産土神として、一宮大明神として祀ったのが始まりという。

魚成氏はのち西園寺十五将の武家。
しかし氏祖である平通盛から室町末期の魚成通親まで、情報のない空白期間があって曖昧。
真偽は別として、鎌倉時代における魚成氏の事績に関する貴重な社伝。

神社は江戸時代に入った元和二年に火災で宝物・棟札含めて消失。
翌元和三年に再興。

その後は都度改築が行われて維持されている。
文化六年社殿改築。
明治二十二年、中殿・拝殿・向拝甲改築。
同四十一年、境内外末社合祀。
昭和二十九年に改築。

なお、背後には槌ヶ森城がある。
魚成氏の隆ヶ森城支城。魚成一千年史曰く、背後の山に連なり間に堀もあるという。
元々此処目当てで来たが、山全体に獣除け柵があって城跡へは登れないようになっている。

注連石
啓蒙養正 積慶重暉 の銘があり
昭和二年十月二日、日露戦争で有名な秋山好古の書。

社殿
背後の本殿へも側面に石段があって眺める事が出来る。

面白い形をした手水鉢

神社背後の道。
山へ道が続いていたので、槌ヶ森城へあがれるのではと思ったが、
遠くに山全体を張り巡る柵が見えて断念。

願成寺(丹原)

愛媛県西条市丹原町北田野にある願成寺

鳳凰山。
臨済宗東福寺派。本尊は釈迦如来。

丹原文化会館横にある、伊予西園寺氏の西園寺公俊所縁の寺院。
別項に書いたが、複数ある公俊の墓の一つも近くにある。
33.882952, 133.045615

元々は延慶元年に開かれた寺院。開基は源行上人であり、当初は天門山護国寺、天台宗寺門派だった。
文中元年・応安五年、西園寺公俊が禅宗信奉のため、禅宗へ改めさせ祈願道場にした。

寛永四年、寺派僅かの寺宝を残して焼失、
慶安三年、松山藩主松平定行が再興し、天満宮別当に。
寛延三年、松平定喬が伽藍修復。
慶応元年、火災で焼失。
明治二十六年、現在の伽藍が再建

山門横
堀の様な池になっている。

本堂
扁額に鳳凰山。

井関城

愛媛県宇和島市三間町兼近にある井関城
33.280645, 132.646495にある城跡。

西園寺十五将中野殿河野通賢に属する城。
城主は井関亦右衛門尉盛景。
また、宇和旧記の伝説に井関中務・井関盛房がいる。
井関中務が城の北に井戸を掘っていると高野聖という僧七人が乗掛けで通った。一礼も無く通る姿を奇怪とし、七人を殺害したところ井関家に祟りをなしたという。
これに井関盛房が法宝山観蔵住僧の得宗に頼み法事を執り行い石碑を建立したという。

また三間町誌に、吉田古記で井関中務越智盛景と云う。中務は盛景の事か。さらに越智とあり河野一族の井門氏出身という。ほか高市氏・橘氏とも。
江戸時代以降は宇和島藩に仕えたといい、井関氏は散見される。近代の実業家井関邦三郎は子孫なのだろうか。

城跡は四段の曲輪からなり、主郭には土塁有。
城跡へは麓の墓地から道が付いている。この辺りにはかつて寺が存在したという。墓地はその名残か。

墓地から登っていった主郭下。
堀切があるとしたらこの辺だが。

主郭土塁

主郭

二段目

二段目主郭側は溝の様に凹んでいる。

三段目・四段目は藪。

陣ヶ森城

愛媛県西予市宇和町久保にある陣ヶ森城。
鳥坂峠から連なる山にある西園寺氏支配域の北端の城。

喜多郡・宇和郡が見渡せる絶好の展望地。
北は敵対する喜多郡の宇都宮氏の本拠大洲が一望。
南は西園寺配下の東多田殿宇都宮氏領および西園寺氏本拠の宇和が見える。
此処を保有すれば敵味方広範囲の状況が把握できる、また取られてしまえば絶対に不味い場所。

城は主に三か所の砦群から構成さている。
33.451531, 132.517507の陣ヶ森城。
33.450817, 132.520385の陣ヶ森東の砦
33.450181, 132.524049の鳥坂峠砦。

東の砦には東西二重堀切。
鳥坂峠砦には石垣など。かつて番所があったらしく、当時の遺構かは判らず。
お遍路ルートにもなっている為、峠までの徒歩アクセスは容易。
峠から尾根伝いに城を巡っていける。

鳥坂峠へ
33.444060, 132.521208入口。
途中に鳥坂番所・鳥坂城があるのでセットだと楽。

鳥坂城を無視して上がっていくと林道へ出る。
道が付いているのでそのまま進む。

鳥坂峠(鳥坂峠砦)
此処も砦の一つだったという。
峠一帯が土塁や高台で囲まれている。

南の石垣。

峠の石仏
大師像とも。

そのまま尾根を西へ向かって進む。

東砦東堀切1

東砦東堀切2

東虎口

陣ヶ森東の砦
城としては単郭。

西堀切1

西堀切2

陣ヶ森城
西端に土塁があると云うが判らず。

正信城

愛媛県西予市宇和町久保にある正信城
33.447900, 132.516511の山。

宇和郡・喜多郡境の鳥坂峠付近にある要害の一つ。
此処は東多田殿宇都宮氏領の北端であり、西園寺氏支配域の北端にあたる。
古城砦記・温故禄では千葉某が居たという。
東には鳥坂城。北の峠尾根伝いには陣ヶ森城と砦群が喜多郡へ睨んでいる。

城へは先ず鳥坂城を目指す。
鳥坂城を無視して道を進み続け、舗装林道へ出ると西へ向かう。
33.449379, 132.518396の城北側から降りていけば堀切へ出る。

城の規模は大きい。主郭・西曲輪がとりわけ広く、西・南・南東へも腰曲輪がある。
降りてきた北側には堀切と大きな土塁がある。

鳥坂峠への道。
33.444060, 132.521208

林道を挟む。
此処で上がらず左へ進む。

北側から降りていく。

北の堀切。
主郭と土塁も見える。

主郭の土塁。
高さがある。

主郭

主郭南東側の段。

西側の曲輪
ここも広い。

集石遺構。

南側の曲輪

西の曲輪。
いずれも広い。

渦ヶ森城

愛媛県西予市野村町釜川にある渦ヶ森城
33.386159, 132.694647の山。

魚成氏の龍ヶ森城のすぐ北にある山。位置的に枝城だろう。
龍ヶ森城へ向かう途中、33.384859, 132.696283の辺りの分岐で逆の左方向へ進んでいくと城の右手側面を通る。北側から上がることが出来るので、堀切経由で主郭へ至る。

曲輪は南へ向けて三段。北へは堀切一条。三段目は先端部分が若干高くなっている。
主郭には祠と大量の岩が西へ向けて並べらており、西側面には参道の石段跡が残っている。もしかすると麓からの別道があるのかもしれない。

龍ヶ森城近くのT字路を北へ。

北側。低くなっている箇所から上がる。

北の堀切

主郭北土塁

主郭
中央に祠。西へ大石列。
祠には明治八年の文字。

西側面の石段遺構

南二段目

南三段目

南先端部分
三段目より若干高い。

日吉神社(法花津)

愛媛県宇和島市吉田町法花津にある日吉神社。
33.317022, 132.518821にある。

法華津氏によって創建と云う。
同じ山域には法華津本城があり、この神社も城内の一部だったのではと思う。
法華津本城は畑の為上がれないが、神社奥に城へ続く道も付いているようだ。

参道。
33.316415, 132.518260の南西下側。

城ヶ鼻城

愛媛県宇和島市吉田町白浦にある城ヶ鼻城
33.311789, 132.526633にある山。

分布報告書では法華津氏の築城と云う。
登る事はできないのだが、道路で山が分断されており、側から見上げる事は出来る。
法華津本城が北西にあり支城か何かだったのか。

天満神社(松丸)

愛媛県北宇和郡松野町松丸にある天満神社
33.225608, 132.710596に参道。
北麓下に入口、車または可後森城から来た場合は南の道から。

かつては礁崎という場所にあったそうだが、長宗我部氏との戦火で焼失した。古記録は失われているというが、この兵火によるものか。
松野町誌では鎌倉・南北ごろから地方武家が現れており、城の氏神として祀られたのではとしている。
戦国末期には可後森城主渡辺教忠の重臣・新城六之進が崇敬。祭神に教忠が加えられており、その縁によるものか。

江戸時代には貞享三年奥の谷、安政五年に現在地へ遷座。
明治六年、郷社。

参道側にある堂。
丸に十の字なので龍潭寺関係?

文久二年の狛犬

願成寺(鯨大師)

愛媛県宇和島市蛤にある遍照山願成寺。
鯨大師とも云う。本尊は阿弥陀如来と云う。
九島にあり、33.233720, 132.528450に参道入口。
平成二十八年に九島大橋が開通し、島へ来訪はしやすくなっている。
寺由緒は調べ損ねたが、四国八十八か所観自在寺の奥の院であるそうだ。
映画海すずめのロケ地にもなったそうで看板も建っている。

また、清良記では天正十五年に西園寺公広が黒瀬城を下城後、九島の願成寺へ移ったという。
公広下城後から殺害までの貴重な史跡。

遍照山の額のある堂
本尊は弘法大師という。鰐口あり。

古い石仏と五輪塔

看板によるとこのアングルが良いらしい