カテゴリー: 赤松氏

杉坂峠関所

兵庫県佐用郡佐用町皆田にある杉坂峠関所

佐用町指定史跡。
35.014954, 134.265785の辺りに登り口。
このあたりは広く車も置いて登ることができる。

杉坂峠は美作国府への峠道。
元弘三年、赤松円心が宮方として挙兵した際に此処へ関を設けて砦を築いた。

また、この前の後醍醐天皇配流の際、児島高徳が奪還のため此処まで来たという。
奪還のタイミングを逃した高徳は院庄館に忍び入り桜に句を刻む話に繋がる。

道は綺麗に整備

上にある平坦地。
此処に石碑や看板がある。

杉坂史跡の碑。

英賀城

兵庫県姫路市飾磨区矢倉町にある英賀城

住宅街真ん中の公園・神社になっている。
車は不可の為、電車または駅のコインパーキングから徒歩。
大規模な平城で近代に入っても遺構が残っていたそうだが、昭和期の工事で大部分が消失した。
それでも英賀神社に土塁が残っているほか、英賀城跡公園や岡之口・野中口等に石碑がある。

永享年間、赤松祐尚がに築城したのが始まり。
祐尚没後、三木氏英賀城へ入り代々使用された。
三木氏は河野氏の出身。
河野通堯(通直)の五男通近が讃岐三木へ移り、のち播磨の恋之浜城へ移った。
のち近重・通重と続き、英賀城へ移ったのは三木通武の代という。
そのあとを通安・通規・通秀と続き、最も知られるのが次の三木通秋。
このころの英賀城は蓮如上人の高弟法専坊空善を迎えて英賀御坊も城内に設けられて栄えた。
天正五年より羽柴秀吉の播磨攻めが始まると三木通秋は敵対し、天正八年に英賀城は落城した。

三木氏は離散したが生き残っており、通秋は天正十年に許されて英賀へ復帰。
弟の通基・定通もそれぞれ生き延びている。
特に定通は窪山城(林田陣屋の場所)へ移り、建部長政が林田藩として入ると立ち退いたが大庄屋として続いている。

公園内部に櫓台っぽい箇所。
関係はあるかは判らず。

野中口之碑。
公園西側。

英賀城土塁。
神社背後。
上に石碑も建っている。

英賀神社
創建は古く、元慶五年には従五位下。
嘉吉三年には英賀天満神社と称し、
明治四年、八幡・春日合祀し英賀神社と改めた。

岡之口の碑
土塁東の十字路。

赤松広秀の墓(八鹿)

兵庫県養父市八鹿町八鹿にある赤松広秀の墓

35.411008, 134.777977にある。東の道沿いに看板も建っている。
堂の中に「乗林院殿可翁松雲大居士」の墓碑。
狭い宅地の中にある。車の場合は置く場所が周囲一帯に存在しないため注意。
八鹿駅から近いため豊岡から電車を使うのが無難。

赤松広秀は龍野赤松氏。赤松政秀の子。
天正五年に羽柴秀吉に降り龍野城を失うが、天正十三年に但馬竹田城で大名になった。
慶長五年、関ケ原の戦いで西軍に属し田辺城を攻撃したが、敗戦により東軍へ寝返り。
のち鳥取城攻撃で城下へ火を放った事を咎められて切腹。

此処の墓碑については現地に由緒看板が詳しい。
元文元三年、洪水による用水路取水口修繕工事において、大きな石が出てきた為、永源寺の大雄了覚和尚が引き上げた。
この辺りは、赤松広秀の大名時代の治世により農民への恩恵があり、年賀参りの村人に残していたところ、この石で大森の広秀の塚に、墓石と地蔵建立することになったと云う。
(家臣らが大森京街道三叉路に遺髪・旗竿を埋めたものと云う。片腕を埋めたとも。)
元文四年二月に工事をはじめ、元文五年七月ごろに完成との事。

文政七年、墓碑が雨梅雨にさらされた為、内屋舎が建てられた。
この屋社も年月と共に傷んだため、明治十一年に外屋舎が建てられた。
明治三十六年、瓦葺。

なお、広秀の墓は斑鳩寺・法樹寺にもある

墓碑と地蔵。

神吉城、神吉頼定の墓

兵庫県加古川市東神吉町神吉にある神吉城

常楽寺になっている場所に本丸があった。
宅地化して大部分が消滅しているが、北に二の丸、東から南にかけての曲輪が東の丸、
西にも曲輪があったとも。さらそれらを空堀で取り囲んだ。
信長記では天守閣もあったと云う。

城主は神吉氏。
築城は南北朝頃といい、初代は神吉元頼。
元頼は神出城の神出範次の子で、神吉荘へ移り神吉氏を称したという。
築城は南北朝時代頃。

八代・神吉頼定の代、天正六年に織田氏の播磨攻めで羽柴秀吉に抵抗。
六月二十六日、織田信忠・信考・林秀貞・佐久間信盛・荒木村重らに攻められ落城した。
のち城跡は寺になった。

法性山常楽寺
浄土宗西山禅林寺派。
本尊は阿弥陀如来。

常楽寺の石棺
凝灰岩製の古墳時代後期のもの。

神吉頼定の墓
境内北西側にある。白塀に囲まれ堂の手前に頼定の墓
民部大輔。天正六年に戦死。
側に戦死者の墓も。
石灯籠は神吉氏による物の様で、子孫による墓碑建立か。

志方城、櫛橋氏墓所

兵庫県加古川市志方町にある志方城

観音寺のある場所が本丸、北の学校に二の丸、西に西の丸。
それらを水堀で取り囲んだ城だった。
ほぼ宅地化しているが、寺化した本丸部分は高台になっている。
黒田考高の正室が城主櫛端氏の出身の為か、新しい説明看板が建っている。

城主は櫛橋氏。
櫛橋家則を祖として赤松氏に属していたという。
櫛橋氏は明応元年に志方城を築城。
天正六年に羽柴秀吉と戦い落城した。
櫛橋左京亮政伊の代あると云う。なお、政則の妹が黒田考高へ嫁いだ。
また、系図で流れが複数あるとの事で、落城時の代は伊則や祐貞とも。

天正十五年、宝岩宗珍和尚により本丸の場所に観音寺が建立された。

観音寺の境内

櫛橋氏墓所
歴代合葬墓。五輪塔。
寺北側の墓地にある。
伊朝・伊光・伊範・伊高・貞伊・則伊・伊家・伊定・政伊の名前。

比延山城

兵庫県西脇市鹿野町にある比延山城

西麓が城山公園となっており駐車場有。
グラウンドの南橋に登山口がある。
城跡は山の細長い尾根を削いだもので、登っていくと南の主郭へ出る。
北端は視界の開けた場所で大岩もある。

城主は本郷氏。
初代・本郷頼兼は赤松円心の子と云う。
明徳の乱後、丹波の国境付近に比延山城を築いたという。
現地看板曰く、嘉吉の乱で没落、または文禄・慶長年間の十代・好冬の代まで続いたとも。

登山口。

南端主郭
城の石碑あり。

途中の尾根の曲輪

北端の頂。

北橋の大岩。

山頂からは一帯が一望できる。

清水寺、赤松氏範の墓

兵庫県加東市平木にある御嶽山清水寺

本尊は千手観音、十一面観音
平木の山の上にある寺院。
観光地化しているのか、駐車場がとにかく広い。

景行天皇代、法道仙人が創建した寺院と云う。
推古天皇三十五年、勅願で中本堂を建立。
この時、十一面観音、毘沙門天、吉祥天女像を安置。
神亀二年には聖武天皇勅願で行基が大講堂建立。

大正・昭和において火災や台風で伽藍を失っているが、
多くが再建されており文化財指定もされている。

赤松氏範の墓
赤松円心の四男。弾正少弼。
円心や他の兄が北朝方に付いたが、氏範は南朝方に属した。
永徳三年、此処清水寺で自害。
本光院正覺道成。
永徳三年九月

此処の墓は元々文政十三年に設置されたそうだが、
風化で崩壊寸前だったため、昭和六十二年に再建された。

墓の入口はうろおぼえだが、34.975383, 135.085023の付近。
駐車場前の道路沿いに目印石碑が建っている。

氏範の墓入口目印石碑

仁王門
かつては旧参道頂上にあったと云う。
昭和四十年の台風で倒壊。
昭和五十五年再建。
金剛力士像は大正十年に菅原大三郎の作。

塔への参道。

大塔跡
五智如来が本尊だった。
保元二年、平清盛の実母祇園女御による建立と云う。
明治四十年に焼失、
大正十二年に再建。
昭和四十年に台風で倒壊。

赤松氏範の切腹岩
駐車場付近に墓がある氏範の切腹した岩という。

薬師堂
元は平安時代の建立。
昭和五十九年再建。

大講堂
十一面観世音菩薩、毘沙門天王、地蔵菩薩を安置。
神亀二年に聖武天皇が行基に建立させたもので、
永延二年には花山法皇が歌を詠む。
大正二年の火災で焼失。
大正六年に再建。

本坊
大正六年に建立。

地蔵堂
元々は後白河法皇創建の常行堂があった
昭和五十七年に再建。

鐘楼
大正二年に焼失。大正九年に再建。

根本中堂
元は推古天皇三十五年建立。
大正二年に焼失し、大正六年に再建。

滾浄水
法道仙人が水神に祈ると湧きだした。
覗き込んで自分の顔を移すと寿命が三年延びると云う。

赤松義村の墓

兵庫県加古川市神野町にある赤松義村の墓

常光寺の境内外、道路沿いの
34.777397, 134.878506にある。

年代不明の五輪塔。
赤松義村の墓や南北朝期の五輪塔とも。
なお、義村の供養塔は浄安寺にもある。

赤松義村は赤松氏十代。
七条政資の子であり赤松範資系。赤松政則の養子。
足利義種・義澄の戦いでは義澄方に属し、義晴を引き取り養育。
次いで国元では浦上村宗と対立し。
永正十八年に村宗に敗れ当主の座を追われた上、室津城に幽閉されたのち殺害。

なお、義村の子・晴政が大物崩れで浦上村宗を戦死させ、浦上氏との対立はその後も続いて行く。

赤松政則の墓

兵庫県加西市福居町にある赤松政則の墓

長円寺にある。
境内入って左奥に石仏の遍路道があり、入ってすぐの分岐を右。
境内周り込む道を進むとある。

墓は五輪塔の火輪が集められた場所。
中央に木が立ち、手前には一石五輪塔もある。

赤松政則は赤松氏九代。
赤松時勝の子で、赤松義則の孫。
祖父赤松義雅(義則の子で満祐の弟)は嘉吉の乱の城山城を脱したが自害。
しかし子は生き残り、政則の代に南朝残党に奪われた神璽を奪還し、
加賀で赤松氏が再興される。
のち、応仁の乱期から旧領へ攻め込み山名政豊との戦いの末、播磨を奪還した。

なお、性海寺にも供養塔がある。

長圓寺板碑

臨済寺、赤松義則の墓

兵庫県姫路市夢前町新庄にある百丈山臨済寺

臨済宗。

康暦元年、赤松義則が別峯大珠円光国師を招き開山とした。
現本堂は姫路藩が結城松平氏一期目、延宝三年松平直矩により再建という。

寺には赤松義則や別峯国師、松平直矩娘の墓等あり。

境内。

赤松義則の墓
赤松氏七代。赤松則祐の子。
背丈が小さかったらしく、三尺入道と呼ばれた。
赤松氏の歴代の中で最も安定した代。
侍所所司にもなっている。
応永三十四年没。

別峯国師の墓
無縫塔。県指定重要有形文化財になっている。
別峯大珠円光国師。
臨済寺開山。応永九年没。

五輪塔二基
松平直矩の娘の墓と云う。
左:隆崇院殿眞・・青香童女
右:いまいち読めず。月照院殿・・・・