宮崎県宮崎市池内町にある宮崎城
日向伊東氏本拠の一つ。都於郡・佐土原などと並ぶ伊東氏の重要拠点。
池内城とも。
延元元年、伊東氏の将である図師六郎入道慈円がこの城で南朝方に属して兵を挙げたが、土持兵衛宣栄によって攻め落とされた。
のち伊東氏の一族が居たが島津氏へ応じた為、伊東祐堯が攻め落として家臣の落合彦左衛門を城主に。
天文三年、家老長倉能登守が跡継ぎであるはずの義祐を差し置き、弟である祐吉を立てて宮崎城主とした。しかし天文五年に祐吉は没。
天文六年十二月に伊東義祐が佐土原城から宮崎城へ本拠を移した。
なお立場を無くした長倉能登守は天文十年に島津氏を頼って叛し、義祐と戦い戦死。
のち義祐は佐土原城へ戻り、永禄十一年に肥田木勘解由左衛門尉が宮崎城へ在城。
以降都於郡城を中心に伊東四十八城の一つとして機能した。
天正五年に島津との戦いや謀叛もあって、伊東義祐が豊後へ追われると島津方の城となる。
島津忠朝が預かり、日置越前守忠充が置かれた。
天正八年からは上井覚兼が十四年まで在城。
天正十五年、高橋元種が移封されて来ると、宮崎城へは権藤平左衛門種盛が城代に。
慶長五年、関ケ原の時には高橋元種は石田方に属していたが、徳川方に属していた伊東祐兵が清武城主稲津掃部助に宮崎城を攻めさせた。城代権藤種盛は防戦したが寡兵のため敗戦し自害した。
しかし、高橋元種は実は石田方から徳川方へ離反しており、宮崎城は高橋氏へ返還。伊東祐兵は宮崎城奪還の翌月に死去し、稲津掃部助は責任を押し付けられた為、清武城へ籠城したが自害。宮崎城は完全に伊東氏の手を離れた。
慶長十八年、高橋元種が改易され、代わって入った有馬直純へ宮崎城は引き継がれるが、元和元年の一国一城令で廃城。
登口はいくつかあるようだが、
31.968351, 131.410725の満願寺口が良く整備されていた。
城跡は主郭を中心に、北に野頸城(看板で目曳城)・服部城・射場城、南に百貫城・彦衛門城等を構えている。
登り口
冠木門が目印。看板も付いている。
駐車場は無いので注意。
南北への分岐。
本城か目曳城へ行ける。
本城北・目曳城間の堀切
目曳城南側
目曳城。
野頸城とも。本城より広い。
ほとんどが藪化しているが、通路と曲輪の一部が除草されていた。
服部城
目曳城の北。二段。北下堀切方向へ土塁有。
石碑と土塁
服部城土塁下堀切
服部城北東側、射場城側堀切
二重堀切。尾根は狭い。
射場城
ここは藪化している。
本城。
射場城から一度分岐へ戻り、本城へ。
端に鉄塔。曲輪の中心部分のみ除草されている。
標柱も建っているのだがほぼ朽ちている。
本城南付近の堀切
百貫城への虎口。
左右が掘り、土橋が通る。
百貫城側の堀通路
百貫城
綺麗なT字の虎口。
虎口南側から。
虎口石垣。
虎口から彦右衛門城の堀切
彦右衛門城土塁。
堀切側。
彦右衛門城
竹藪化している。
彦右衛門城北・百貫城西の広い曲輪。
T字の虎口はこの曲輪が真上。