カテゴリー: 島津氏

石蜘蛛城

兵庫県揖保郡太子町にある石蜘蛛城

34.829548, 134.574845に登り口。
神社前に駐車スペースもあり。
山域は水道施設となっており、遺構は判らなくなっているが、展望台として整備されている。

播磨島津氏の城。
播磨島津は越前島津氏の分流。
宗家初代・島津忠久の子である島津忠綱が越前島津初代となり、忠綱の子・島津忠行が播磨島津時の初代になっている。
弘仁二年、島津忠行は下揖保荘・布勢郷の地頭となって立岡山に石蜘蛛城を築いたと云う。

登山口
石蜘蛛城への看板あり。

道は舗装路だが滑りやすい。

山頂部分。
大きな水道施設

隅に地蔵がある。

眺めは良い。

飯野城

宮崎県えびの市原田にある飯野城
32.053610, 130.868658に入口。
駐車場もあり。
南の大手口を進んでいくと射場へ出る。この辺りに駐車場有。
そこから西に本丸、東に二の丸、北に三の丸と囲まれている。
整備されているのは本丸と射場のみであり、二の丸・三の丸は適当に這い上がる必要がある。

現地看板によると永暦元年に日下部重貞が入城したと云う。
大系では建久年間には真幸太郎兼幸(日下部氏)が在城したと云う。
日下部氏の子孫は北原氏となり、飯野城も北原氏の城だった。

永禄五年に北原氏が滅ぶと、
永禄七年に島津義弘の居城として使用された。三十歳から五十六歳まで使用したという。
天正十五年には義弘の子である島津久保が入ったが文禄の役で病死。
天正十八年には義弘も松尾城へ移る。

元和元年に一国一城令で廃城に。

大手門

射場・駐車場
三方曲輪に囲まれている。

搦手門跡

本丸
発掘調査はわずかな箇所しか実施されていないという。

本丸虎口

物見曲輪

桝形
若干へこんでいる。

二の丸麓から

二の丸堀切

二の丸南の曲輪

二の丸の曲輪
適当な処から這い上がる。

三の丸麓から。
日没のため上がらず。しかし上がれない事はない。

志和池城

宮崎県都城市上水流町にある志和池城

墓地があるため、31.802997, 131.096968まで車道が通り簡単に上がることができる。
城は看板曰く本丸・二の丸・西栫・新城・小城の五区画からなる城
大半が宅地化により消滅した様だが、今回未訪の新城は遺構が多いという。
また、北の新城と此処を挟んだ宅地化部分には遺構があった箇所に標柱が建っている。

築城時期は不祥ながら、永享四年頃には築城されていたという。
天文十二年、北原氏の城だったが、北郷忠相が落城させた。
慶長四年の庄内の乱では伊集院方の十二外城となったが、慶長五年に島津氏により落城。

以降島津方の城となって、元和元年の一国一城令で廃城に。

主郭
説明看板あり

城からの眺め

荒神と書かれていた高台

中の城

野々美谷城

宮崎県都城市野々美谷町にある野々美谷城。
31.788181, 131.077005に入口。
神社・畑化している。
31.788400, 131.076192にも城の看板がある。
看板からは堀見え、主郭以外は此処から回れそうだが、場所的に控えた。
主郭以外は諏訪城・西丸二区画・八幡城・石垣城・倉持城・内城・尾崎城・取添城からの十箇所からなる城。

正平七年、北郷資忠が入った頃の地区王という。
その後相良氏が野々美谷城を奪い相良前賴が入ったという。
応永元年、島津元久と北郷義久が野々美谷城を攻めて取り戻し、樺山音久を城主に入れた。

大永元年、樺山長久の代、長久は大隅小浜へ移ったため、北郷尚久が代わりに城主となった。

大永三年、伊東尹祐が北原久兼と共に野々美谷城を攻撃。
城主北郷尚久はこの戦いで戦死、伊東尹祐も戦いで頓死。
その後、北郷氏と伊東氏は講和し、野々美谷城も伊東氏へ譲ったが、
天文元年、北郷氏は北原氏・島津氏と共に城を攻め落とし、北原氏の城となった。
天文十一年、北郷忠相が野々美城を攻め、再び北郷氏の手に戻る。城には北郷久紹が入った。

のち豊臣の頃に北郷氏に代わって伊集院忠棟領となり、忠棟殺害による庄内の乱が起こる。この時、は有屋田大炊左衛門らが在城したが、島津忠恒により攻め落とされた。
その後は北郷氏が復帰し、北郷忠能が入る。

元和元年、一国一城令で廃城に。

看板奥の堀。

東側の堀?

主郭入口

主郭
広場になっている。

諏訪神社

安永城

宮崎県都城市庄内町にある安永城
31.774044, 131.015245に駐車場。
公園化しているので回ることは容易。
城跡は主に本丸・二の丸・取添・金石の四つからなる城跡。
公園化しているのは本丸域のでみ、他は畑や企業敷地化している。

北郷氏による築城という。持久代とも、応仁二年に敏久の代とも。
北郷数久の隠居地や、北郷時久の代に嫡男相久が在城するなど、北郷氏の重要拠点として使用された。
文禄四年、北郷氏が祁答院へ移され、伊集院忠棟領となったが、慶長四年に忠棟が殺された事を発端とした庄内の乱では伊集院方の十二外城のひとつとなり、伊集院五兵衛と軍師白井永仙が在城下という。

のち元和元年の一国一城令で廃城に。
しかし、北東側麓には地頭仮屋が置かれ麓として使用された。

駐車場

本丸奥
忠霊碑あり。

本丸虎口?

虎口を通り東へ降りる道
曲輪が点在。

安永地頭仮屋

本丸北西側の堀

北西側曲輪

北郷資忠の墓

宮崎県都城市庄内町にある北郷資忠の墓
31.777008, 131.020039にある。
豊幡神社境内にある。
南側に入口。または北東側に広い入口。

北郷資忠は北郷氏・都城島津氏の初代。
資忠は宗家四代・島津忠宗の六男。南北朝時代に北郷を賜り、北郷氏を称した。
墓は二基あり資忠夫婦の墓という。

此処はかつて山久院という寺院があり、北郷資忠の菩提寺だった。
当初は山田町古江薩摩迫にあったが現地に移転したという。

資忠の墓
石柵で囲まれた五輪二基。

側にはパーツが欠けた五輪塔が並ぶ。

豊幡神社
元々は野々美谷城にあったが、
明応九年に七代・北郷数久により安原権現末社として現地へ移転した。

倉岡城・倉岡神社

宮崎県宮崎市糸原にある倉岡城
慶長五年以降は池尻城とも呼ばれた。

規模は大きく、北の旗縣松城・中の大城・南の大森城からなる。
北側は倉岡神社から堀切へ繋がっている。
南側は城を分断するように道がついており、その側から上がることができる。

応永七年、島津久豊による築城。
のち久豊の没後は伊東氏の城となり伊東四十八城の一つ。
永禄年間には野村壱岐守が在城したが、
天正五年に伊東氏が日向を追われると、島津方の吉利山城守久金が入った。

慶長五年関ヶ原の頃、丹生備前守がこの城を守っており、徳川方に属した伊東氏が倉岡を攻めたが撃退。
十二月十四日には伊東軍が糸原村へ火を放ちに来たがこれも撃退。
慶長六年正月七日、伊東軍が穆佐の兵を破り、倉岡へ逃げる兵を追って大淀川を渡ろうとした際には、倉岡城から大砲で攻撃して撃退。

同年正月十七日、伊東軍の将である川崎某が倉岡城を攻撃。
この時、倉岡城へ一首歌が城内へ射込まれ、
「朝夕に 芋を拾いて倉岡の 下の川原に やがて煮うる」とあったため、
返歌として
「帯切れて 伊東が家は くずれ桶 汲めど溜まらぬ 川崎の水」
と返した話が知られる。
のちこの戦闘は五月ごろまで続いたという。

その後は元和元年の一国一城令で廃城となるも、
丹生氏が倉岡郷地頭としてそのまま続き、備前守から二十四代続いたという。

倉岡神社
島津氏初代・忠久が正治二年に創建したという。
天和三年、島津光久の代に倉岡郷鎮守として再建。
明治四年、周囲の神社を合祀。倉岡神社と改称したのはこの時とい云う。
明治三十九年に郷社
現本殿は明治八年、拝殿は昭和三十四年改築という。

旗縣松城南・大城北の堀切。
倉岡神社境内から続いている。

旗縣松城

大城
一応道はあるのだが竹で阻まれ苦労する。
中央に位置する最も大きな曲輪

大城西側の堀と土塁

城域を分断する箇所。
倉岡神社西の道を南に進んでいけば、看板と標柱の場所へ出られる。

出た先の広い曲輪

谷村計介像
東から回り込んだ先にある。
看板も出ているのでここは判りやすい
谷村計介は倉岡郷士出身。
明治以降は熊本鎮台に属し、士族反乱等に従軍。
明治十年、西南戦争で西郷軍に熊本城が包囲されると、救援の使者として選抜。
包囲を搔い潜りその役目を全うした。
のち田原坂の戦いで戦死という。

大森城入り口

大森城
川崎と丹生の歌の話の看板もある。

広瀬城

宮崎県宮崎市佐土原町下田島にある広瀬城

広瀬小学校の場所にあった為、流石に近寄る訳にはいかない。
唯一、隅にある広瀬神社のみが訪れることが出来る。

佐土原島津氏の城。
明治二年、島津忠寛の代に新たに広瀬城の築城を始め、翌明治三年に佐土原城から広瀬城へ移転した。
しかし明治四年に廃藩の為、広瀬城も廃城となる。

広瀬神社
祭神は事代主・大国主・素戔嗚・稲田姫・建御名方・誉田別・蛭子・火産霊・宇迦之御霊・島津忠将。
天文十九年に島津忠将が佐土原城内に創建した神社で、佐土原や広瀬の神社を合祀しつつ、昭和四十九年に現地へ移転された。

宮崎城

宮崎県宮崎市池内町にある宮崎城
日向伊東氏本拠の一つ。都於郡・佐土原などと並ぶ伊東氏の重要拠点。
池内城とも。

延元元年、伊東氏の将である図師六郎入道慈円がこの城で南朝方に属して兵を挙げたが、土持兵衛宣栄によって攻め落とされた。
のち伊東氏の一族が居たが島津氏へ応じた為、伊東祐堯が攻め落として家臣の落合彦左衛門を城主に。
天文三年、家老長倉能登守が跡継ぎであるはずの義祐を差し置き、弟である祐吉を立てて宮崎城主とした。しかし天文五年に祐吉は没。
天文六年十二月に伊東義祐が佐土原城から宮崎城へ本拠を移した。
なお立場を無くした長倉能登守は天文十年に島津氏を頼って叛し、義祐と戦い戦死。

のち義祐は佐土原城へ戻り、永禄十一年に肥田木勘解由左衛門尉が宮崎城へ在城。
以降都於郡城を中心に伊東四十八城の一つとして機能した。

天正五年に島津との戦いや謀叛もあって、伊東義祐が豊後へ追われると島津方の城となる。
島津忠朝が預かり、日置越前守忠充が置かれた。
天正八年からは上井覚兼が十四年まで在城。

天正十五年、高橋元種が移封されて来ると、宮崎城へは権藤平左衛門種盛が城代に。
慶長五年、関ケ原の時には高橋元種は石田方に属していたが、徳川方に属していた伊東祐兵が清武城主稲津掃部助に宮崎城を攻めさせた。城代権藤種盛は防戦したが寡兵のため敗戦し自害した。
しかし、高橋元種は実は石田方から徳川方へ離反しており、宮崎城は高橋氏へ返還。伊東祐兵は宮崎城奪還の翌月に死去し、稲津掃部助は責任を押し付けられた為、清武城へ籠城したが自害。宮崎城は完全に伊東氏の手を離れた。

慶長十八年、高橋元種が改易され、代わって入った有馬直純へ宮崎城は引き継がれるが、元和元年の一国一城令で廃城。

登口はいくつかあるようだが、
31.968351, 131.410725の満願寺口が良く整備されていた。
城跡は主郭を中心に、北に野頸城(看板で目曳城)・服部城・射場城、南に百貫城・彦衛門城等を構えている。

登り口
冠木門が目印。看板も付いている。
駐車場は無いので注意。

南北への分岐。
本城か目曳城へ行ける。

本城北・目曳城間の堀切

目曳城南側

目曳城。
野頸城とも。本城より広い。
ほとんどが藪化しているが、通路と曲輪の一部が除草されていた。

服部城
目曳城の北。二段。北下堀切方向へ土塁有。

石碑と土塁

服部城土塁下堀切

服部城北東側、射場城側堀切
二重堀切。尾根は狭い。

射場城
ここは藪化している。

本城。
射場城から一度分岐へ戻り、本城へ。
端に鉄塔。曲輪の中心部分のみ除草されている。
標柱も建っているのだがほぼ朽ちている。

本城南付近の堀切

百貫城への虎口。
左右が掘り、土橋が通る。

百貫城側の堀通路

百貫城

綺麗なT字の虎口。

虎口南側から。

虎口石垣。

虎口から彦右衛門城の堀切

彦右衛門城土塁。
堀切側。

彦右衛門城
竹藪化している。

彦右衛門城北・百貫城西の広い曲輪。
T字の虎口はこの曲輪が真上。

龍潭寺

愛媛県西予市城川町魚成にある禹門山龍潭寺。
曹洞宗。本尊は釈迦如来。

城川町の巨大寺院。最盛期には末寺五十六も有していた。
元享三年、中尾坂城主の平采正吉貞により徳翁正呈禅師が開山。当初は龍天寺で古奈良谷にあった。
康正元年、薩摩の島津元久の子である仲翁守邦禅師によって中興開山。寺を現地に移転させ龍潭寺と改めた。丸に十の字や島津の名前があちこちにあるのはこの為なのだろう。
その後、魚成の領主であった西園寺十五将の魚成豊後守通親が七堂伽藍を整備している。

偃月橋
嘉永二年に再建された橋。
昭和四十四年に改築。

禁制
小早川隆景が伊予へ入った折と、浅野長政が太閤検地で龍潭寺にとまった際に出した禁制

仁王門。
宝永四年に再建された物。
仁王像は天保十一年に周防の日野岩城義光の作と云う。

山門
活秀方文の建立と云う。

中雀門

庫裏
文化六年の再建

禅堂
文政六年の再建

本堂
享和三年の再建。
背後には開山で島津元久の子である仲翁守邦開山堂がある。

水鉢