カテゴリー: 応変隊・神機隊

笠岡陣屋

岡山県笠岡市笠岡にある笠岡陣屋

現在笠岡小学校になっている場所。
堀が残るほか、小田県庁門(旧妹尾陣屋門)が現存している。

慶長五年、毛利氏の防長移転後に笠岡は天領となり、元和五年に福山藩水野氏領。
元禄十一年、水野勝岑の無嗣断絶で水野氏が改易、再び天領となる。
元禄十三年、此処へ代官所として陣屋が設けられた。
井戸平左衛門は此処の代官だったと云う。
寛政十年には郷校敬業館も創設された。

幕末になり戊辰戦争が始まると、笠岡陣屋では小規模ながら戦闘も起きている。
神機隊士・清原源作の関東征旧記に記されており、
慶応四年正月二十七日、鎮撫を目的に出発した神機隊は笠岡へ上陸。三方から陣屋を包囲して攻撃を始めた。陣屋側は防御の術無く敗散し、生け捕り二人戦死五人を出した。
神機隊側も隊士・福木峯助が戦死した。
その後、二十九日に出発し玉島羽黒権現へ移っていった。

明治四年、廃藩置県により小田県が設置され、此処が県庁となった。
明治八年、岡山県と統合される。

小田県庁碑

西荏原陣屋・興譲館

岡山県井原市西江原町にある西荏原陣屋・興譲館
一橋陣屋とも。

34.601212, 133.477917に「一橋府江原役所趾」の標柱あり。
陣屋遺構は無いが、郷校の興譲館門が残っている。

元禄十年、津山藩森氏が改易となったが森長継が西荏原二万石にて再興。
此処へ陣屋が築かれた。
宝永三年、森長直の代に播州赤穂藩へ移封。
森氏が去った後は、一橋氏が入り代官が置かれた。

慶応四年、戊辰戦争が勃発すると、広島の神機隊が鎮撫として出動。
隊士清原源作の関東征旧記には一橋陣屋を包囲した話がある。
正月二十七日、神機隊は陣屋の搦手へ回った所、二人出てきて謝罪。是により神機隊は人民兵器を受け取り河戸新町へ帰陣したと云う。

興譲館
代官友山勝次の代に設置された一橋家による郷校
一時幕府領だった頃には何らかの学問所が存在していたらしく、地元民らは新たな学問所設置の要望。
よって阪谷朗蘆を招き嘉永六年に設立された。
当初は江原郷校・教論所など称していたが、安政元年に来訪した古賀茶渓により興譲館と改められた

現在門と講堂が現存している。
講堂は奥にあるため見学できそうになかったが、門は道沿いにあり看板も建っている。

間崎滄浪・一条康政の墓

高知県四万十市江ノ村の長生寺にある間崎滄浪・一条康政の墓
32.966212, 132.862217にある寺。
寺の場所が判りにくいが、南側より参道がついている。
始め間崎滄浪目当てで来たが、見かけた宝篋印塔を後になって一条康政だと聞いた。

間崎滄浪の墓
土佐勤皇党。間崎哲馬の名でも知られる。
土佐藩政を中川宮の令旨を以て改めようとしたが、山内容堂によって平井収二郎・弘瀬健太と共に切腹となった。

間崎は自身が死ぬことはある程度予想していたらしい。
訪ねてきた木原秀三郎(のち神機隊創設)に様子が変だと問われ自身がいずれ処刑されるだろう事を話している。
なおこの時、木原は広島藩主を通じて山内容堂へ間崎助命を依頼する事を思いつき、間崎が有用な人物である事を説き執政の辻将曹を同意させる所まで来たものの、間に合わず間崎は切腹してしまった。

ほか間崎滄浪は土佐藩・広島藩の同盟話にも活動しており、木原秀三郎と共にやり取りがあった。間崎の話を聞いた乾退助(のち板垣)が興味を持ち、共に広島藩邸を訪ねた事があったが、担当者不在や病気などで会えず。
間崎は木原にこの旨訴え、広島藩に他藩人応接所が設置される事になった。これによって土佐・広島両藩の交流があり、両公より贈り物が行われた。

一条康政の墓
境内にある綺麗な形の宝篋印塔。
ただし相輪落ち、基壇の前に置かれている。
隅には一石五輪塔も。
房基の弟とも、そうでないとも云う人物。

西国寺

広島県尾道市西久保町にある摩尼山西国寺
真言宗。本尊は薬師如来。

天平年間に行基の開基という寺院。
治暦二年、火災で焼失したが、住職慶鑁が仁和寺性信法親王および白河院を頼って復興された。
永和年間に再度焼失したが守護山名氏により再興。
至徳三年には金堂が建立。
永享年間には山名宗全により伽藍が整備された。

慶応四年十月、神機隊を結成させた木原秀三郎により、京都有事の出動部隊として回天軍第二起神捷隊が結成された。地元の竹内要助ら二百三十名ほどの規模があった。この時屯所とされたのが西国寺。のち神機隊に統合される。

仁王門
県指定重要文化財。
仁王ともに安土桃山の作。

持善院
塔頭。慶鑁の開基。
文化文政年間に水害を受けたが、文政十二年に再興という。
昭和五十一年、裏山崩壊により被害を受けたが、平成六年再興。

金堂
重要文化財。

鐘楼

英霊殿
元は経蔵という。
昭和二十九年、戦没者の供養に使用された。

金堂への接続の階段。

大師堂
入口に唐門あり。

三重塔
工事中のため上がれず。

豊国神社

広島県廿日市市宮島町にある豊国神社
34.297290, 132.320170にあるとりわけ目立つ建物。
千畳閣の名前で知られている。

国指定重文
天正十五年、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に命じて建立させた。未完成のままだったが明治に入って豊国神社となった。
内部には拝観料を払えば入ることができ、かなりの広さがあり、上には多くの絵馬がある。

応変隊に関する額
鳳輦の行列に対して首を垂れる一団を描いた額がある。
明治元年十月十三日、明治天皇が東京入る際、応変隊は呉服橋に於いて行列を迎えた。
この時鳳輦が暫く留まり、穂波経度を介して面々にお褒めの勅語を賜る。
この図はおそらくその時の様子を描いたもの、平服するのは応変隊士ら。
額の下には隊士らの名前が列挙されている。

内部

その他算額絵馬

五重塔
千畳閣の前にある。
応永十四年のもの。国重文。

洞雲寺、藤原興藤の墓など

広島県廿日市市佐方にある応龍山洞雲寺
曹洞宗。
厳島神主家藤原氏・桂元澄・毛利元清の菩提寺。応変隊二番目の屯所。

長禄元年、厳島藤原氏十一代藤原教親が神宅により金岡用兼に創建させた。
または教親ではなく子の藤原宗親によるという説もある。
以降、厳島神主家藤原氏の菩提寺となっており、十四代・藤原興藤の墓が残る。かつては教親の墓もあったようだが、わからなくなっている。
十二代宗親の代以降も寺領寄進が行われている。
天文十年に桜尾城で興藤が自害、五日市城で最後の当主広就が自害し厳島神主家藤原氏が滅亡。
以降は大内氏支配となり、毛利氏の時代には桂元澄や毛利元清(穂井田。元就四男)の菩提寺となり墓もある。
ほか、天文二十三年に陶氏との戦いで毛利元就が此処へ在陣。厳島合戦で敗れた陶晴賢の墓も此処にある。
天正十五年には羽柴秀長宿となっている。

慶応二年、六月までには応変隊が潮音寺から屯所を洞雲寺へ移転させている。
洞雲寺時代は宮内村広島藩家老上田家御茶馬場を借りて調練。隊士は付近に分宿している。
七月、長州征伐のため、屯所を日通寺へ移転させた。のち十一月には不動院に移っている。

本堂

藤原興藤の墓
厳島神主家藤原氏十四代。友田上野介興藤の名でも知られる。
当主藤原興親が大内義興と共に上洛中に急死、藤原氏は跡を小方加賀守か興藤かで二分して争いとなる。
興藤が候補に選ばれたのは藤原一門であるため。祖父が十代・藤原親藤。親藤の娘の子である。
のち長年敵対していた安芸武田氏と結び大内氏と戦い、桜尾城へ入り当主となる。
大内氏に桜尾城を攻められた際には善戦し、家督を譲る事を条件に開城。
しかし天文十年に再度大内氏と戦い興藤は桜尾城で自害。
墓は宝篋印塔で前面に興藤の文字。

興藤墓の側には古墓が数基。
藤原一族の墓だったりするのだろうか

金岡用兼の墓
讃岐那珂郡出身。十一歳で出家。
周防龍門寺の為宗禅師へ師事し、その跡継ぎに推されたが辞退。
のち厳島へ向かった際、藤原教親の厳島神託により洞雲寺を創建。
墓は阿波丈六寺にもある。

陶晴賢の墓
首塚。大内氏重臣。陶興房の子。
大寧寺の変により主君大内義隆を殺害し、大友義鑑の子であり大内義興の孫である大友晴英を大内義長として次の当主に迎えた。
のち家中の実権を握ったが、毛利氏と戦いにおよび弘治元年の厳島合戦で自害。

桂元澄の墓
桂氏二代。広澄の子。
毛利氏の重臣として活動し、桜尾城主としてこの地を統治した。
永禄十二年没。
境内右手を上がった所。此処にあるのは夫婦墓。

毛利元清の墓
毛利元就の四男。長府毛利氏初代。
当初は穂井田氏を継いだため穂井田元清と称した。
ここに墓があるのは最後が桜尾城主だった為。
桂元澄墓の側にある。

極楽寺など

広島県廿日市市原にある極楽寺
高野山真言宗。本尊は十一面千手観音(平安中期作)

天平三年に行基開山という。のち空海再興。
極楽寺山上にある山岳寺院であり広く信仰を集めた。中世には坪井将監が参道を塞いでいた岩を持ち帰った話も残る。
永禄五年には毛利元就により現本堂再興、屋根露盤には慶長四年の銘ありと云う。
その他寺には明応二年の鰐口や延宝六年の鐘がある。

また、参道途中には星ヶ城がある。
尾根上に十六曲輪を配置した城跡。
大永年間に立野主膳が守っていたが、落城後帰農したと云う。

慶応二年、四境戦争時には石津蔵六率いる応変隊の一隊が極楽寺山に陣取っていた。

現在、山上まで車道が付いている。ただし時期時間によって積雪もある為、柵で閉じられる場合があるので注意。
軽登山の山としてもしられ、登山道が複数ある。
訪れた当時は34.376827, 132.309106の原から登る登山道を使用。

登山口。

星ヶ城。
訪れた当初知らず。城の存在を登った跡に知った。

堀切か。

途中、大岩と石仏

仁王門

一願和尚の五輪塔。
高野山真言宗大僧正佐和隆恵師が埋葬され、一人一願をかなえるとして、一願和尚や一願堂と呼ばれる。

本堂

極楽寺山頂碑
661メートル

眺めはとても良い

蛇の池
平良には頭が八つ尾が三つの大蛇が村を荒らしていたと云う伝説がある。
この池の場所に大蛇が住んでいたと云い、春の雨の夜に出雲に向かい、秋に戻ってきていた。
素戔嗚の八岐大蛇退治ののち現れなくなったとも、地元の姫が相討ちになって討伐したとも云う。
廿日市にはこの大蛇を祀った八面神社があり、大蛇退治により飛び散った首が落ちた場所に首塚が建てられている。

潮音寺

広島県廿日市市須賀にある潮音寺
浄土宗。34.353306, 132.335582。
寺自体の由緒は調べ損ねた。かつてはすぐ前まで海が広がっていたそうだ。

潮音寺は応変隊の最初の屯所。
幕末の広島藩は農兵制度を用いており、元治元年時には郡村単位での農兵が組織されていた。
しかし、出動の条件が農務の余暇である事や各村の治安維持程度でしか動く事が出来ないと云う弱点を抱えていた。
これでは有事に十分な働きが出来ないと憂いた、郡府詰歩行目付の西川利三郎・松田昌七郎が新たに隊を組織することを建白。
慶応元年十月に両名へ臨時農兵隊編成方を命ぜられ、応変隊が結成された。
応変隊は農務の余暇が条件である従来の農兵隊と異なり、扶持米・給銀が与えられる職業的な軍隊となった。

また、隊の調練には木本荘平が登用された。この人物は元佐伯郡下村の農民または相撲取りともいい、故郷を出て長州へ煙硝を取りに行っていたが、のち荻野某より兵学を学び、長州の先鋒隊で小先生と呼ばれる立場になっていたそうだ。
しかし、奉公先の家へ養子に入った事等により妬まれ、命の危機を感じて帰郷したと云う。のち兵学が扱える為、広島藩に登用。応変隊の他、神機隊の調練も行い、戊辰戦争には応変隊の参謀として従軍もしている。

屯所には潮音寺が選ばれた。
結成するや各所へ入隊の有志三百余人ほどが来たと云い、潮音寺は手狭になってしまったのか、翌年慶応二年六月時点では洞雲寺が屯所として使用されている。

不動院、安国寺恵瓊の墓など

広島県広島市東区牛田新町にある新日山安国寺不動院。
真言宗。
武田氏菩提寺・安国寺・応変隊四番目の屯所など多くの歴史を有した寺院。

創建由緒は不詳と云うが、本尊薬師如来坐像から平安期の創建と云われている。
南北朝時代に足利尊氏・直義が全国に安国寺を定めると、安芸は此処が安国寺として機能した。

◎戦国時代から江戸時代の事
安芸武田氏時代には武田氏の菩提寺とされたが、大永年間の武田・大内の戦いで伽藍焼失。五十年程本尊を藁屋に置くなど衰退してまった。

のち毛利氏の時代に安国寺恵瓊によって再興。伽藍が再整備された。
恵瓊が関ケ原で敗れ処刑され、毛利氏が防長移転すると再度衰退した。
福島氏の時代になると、福島正則祈祷僧の宥珍が入り、禅宗を真言宗へ改め不動院と称した。

 

◎応変隊屯所の事

慶応二年十一月、日通寺へ置かれていた応変隊の屯所が不動院へ移転した。
屯所としては四番目となる。
不動院時代は市中巡羅や、村上家乗では付近で調練を行っていたようだ。

この時の調練に関して同じく村上家乗で規律に関する指摘がされている。
個々の士気は高めなのだが、トラブルは多く規則や徹底意識が緩かったように見える。不動院時代からその片鱗が見えていたようだ。
慶応二年十二月から翌年三月までの一時解散中には
・隊中限定の帯刀袴着用をそのまま続けて他隊からクレームが上がる
・何者かが応変隊の名前で金策を行った。
また戊辰戦争中には、
・北陸道進軍中、隊士が問題を起こして軽井沢付近で官軍進軍がストップ
・別動隊へ移籍を要求し集団脱走。
・日光口中、隊長交代の藩命に異議。
などがある。
その他、不満を感じた一部隊士が神機隊へ移籍した事例もある。
しかし、個々の功名心が強く、鳥羽伏見や日光口から会津での戦闘など目を見張るものはある。労役的な農兵隊と異なり、職業的な軍隊の創設として、広島の諸隊先駆けでもあるため存在の意義は大きい。

 

◎原爆被爆の事

昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾が投下された。この時不動院も被爆。伽藍が被害にあったが倒壊には至らず、住職家族も無事だったと云う。
しかし、広島市内で被爆した人々は北へ逃れ始め、道々を死体が埋め尽くし、不動院境内にも被爆者があふれていた。
山門前で衛生兵や地域住民がドラム缶入りの大豆油を用意し、火傷治療を行っていた。この時治療街の行列で待っている間に死んでしまった人もいたと云う。

 

楼門
国指定重要文化財。
文禄の役で安国寺恵瓊が持ち帰った木材で建立だそうだが、室町時代から存在しいたと云い、恵瓊が持ち帰った木材で修復したとも。
内部にある金剛力士像も国重文。

金堂
国宝。天文九年頃のもの。
元は大内義隆が山口に建てたものと云う。安国寺恵瓊により移築。
平成二十五年時に修理中だった。

修理後の金堂
平成二十六年再訪時には修理が終わっていた。

豊臣秀吉の遺髪墓
境内の五輪塔。左に石碑があるので目立つ。

武田刑部少輔の墓
安芸武田氏は刑部少輔を代々称しており、歴代の誰かは不明。
伝承で武田信実の墓であるとも。
また、芸藩通志内に不動院後の山には武田元繁の墓があったと云うので関連があるのだろうか。
ほか、武田光和墓は周防武田屋敷へ武田宗慶が持っていったと云い向こうに残っているので、光和では無いと勝手に思っている。

安国寺恵瓊の墓
安芸武田氏の出身。武田一族の伴繁清の孫とも云う。
毛利氏時代には交渉等で力を発揮し、豊臣肥大には大名レベルまで出世。
しかし関ケ原の戦いに敗れて処刑された。

福島正則の墓
豊臣時代にのし上がった大名。
広島藩主となったが元和五年に無断修理で信濃高井野へ飛ばされた後改易。
墓は全国複数あり、ここもその一つ。

日通寺

広島県広島市東区牛田新町にある英心山日通寺
34.421842, 132.466030にある。
広島藩主二代・浅野光晟の夫人自昌院の晩年の願いにより、元禄八年に建立された法華宗寺院と云う。

応変隊三番目の屯所。
慶応二年に長州征伐が始まり戦火が廿日市に及んだため、それまでの屯所である洞雲寺から七月に牛田の日通寺へ移転した。
十一月に不動院へ移転するまで屯所として使用されている。