広島県広島市東区牛田新町にある新日山安国寺不動院。
真言宗。
武田氏菩提寺・安国寺・応変隊四番目の屯所など多くの歴史を有した寺院。
創建由緒は不詳と云うが、本尊薬師如来坐像から平安期の創建と云われている。
南北朝時代に足利尊氏・直義が全国に安国寺を定めると、安芸は此処が安国寺として機能した。
◎戦国時代から江戸時代の事
安芸武田氏時代には武田氏の菩提寺とされたが、大永年間の武田・大内の戦いで伽藍焼失。五十年程本尊を藁屋に置くなど衰退してまった。
のち毛利氏の時代に安国寺恵瓊によって再興。伽藍が再整備された。
恵瓊が関ケ原で敗れ処刑され、毛利氏が防長移転すると再度衰退した。
福島氏の時代になると、福島正則祈祷僧の宥珍が入り、禅宗を真言宗へ改め不動院と称した。
◎応変隊屯所の事
慶応二年十一月、日通寺へ置かれていた応変隊の屯所が不動院へ移転した。
屯所としては四番目となる。
不動院時代は市中巡羅や、村上家乗では付近で調練を行っていたようだ。
この時の調練に関して同じく村上家乗で規律に関する指摘がされている。
個々の士気は高めなのだが、トラブルは多く規則や徹底意識が緩かったように見える。不動院時代からその片鱗が見えていたようだ。
慶応二年十二月から翌年三月までの一時解散中には
・隊中限定の帯刀袴着用をそのまま続けて他隊からクレームが上がる
・何者かが応変隊の名前で金策を行った。
また戊辰戦争中には、
・北陸道進軍中、隊士が問題を起こして軽井沢付近で官軍進軍がストップ
・別動隊へ移籍を要求し集団脱走。
・日光口中、隊長交代の藩命に異議。
などがある。
その他、不満を感じた一部隊士が神機隊へ移籍した事例もある。
しかし、個々の功名心が強く、鳥羽伏見や日光口から会津での戦闘など目を見張るものはある。労役的な農兵隊と異なり、職業的な軍隊の創設として、広島の諸隊先駆けでもあるため存在の意義は大きい。
◎原爆被爆の事
昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾が投下された。この時不動院も被爆。伽藍が被害にあったが倒壊には至らず、住職家族も無事だったと云う。
しかし、広島市内で被爆した人々は北へ逃れ始め、道々を死体が埋め尽くし、不動院境内にも被爆者があふれていた。
山門前で衛生兵や地域住民がドラム缶入りの大豆油を用意し、火傷治療を行っていた。この時治療街の行列で待っている間に死んでしまった人もいたと云う。
楼門
国指定重要文化財。
文禄の役で安国寺恵瓊が持ち帰った木材で建立だそうだが、室町時代から存在しいたと云い、恵瓊が持ち帰った木材で修復したとも。
内部にある金剛力士像も国重文。
金堂
国宝。天文九年頃のもの。
元は大内義隆が山口に建てたものと云う。安国寺恵瓊により移築。
平成二十五年時に修理中だった。
修理後の金堂
平成二十六年再訪時には修理が終わっていた。
豊臣秀吉の遺髪墓
境内の五輪塔。左に石碑があるので目立つ。
武田刑部少輔の墓
安芸武田氏は刑部少輔を代々称しており、歴代の誰かは不明。
伝承で武田信実の墓であるとも。
また、芸藩通志内に不動院後の山には武田元繁の墓があったと云うので関連があるのだろうか。
ほか、武田光和墓は周防武田屋敷へ武田宗慶が持っていったと云い向こうに残っているので、光和では無いと勝手に思っている。
安国寺恵瓊の墓
安芸武田氏の出身。武田一族の伴繁清の孫とも云う。
毛利氏時代には交渉等で力を発揮し、豊臣肥大には大名レベルまで出世。
しかし関ケ原の戦いに敗れて処刑された。
福島正則の墓
豊臣時代にのし上がった大名。
広島藩主となったが元和五年に無断修理で信濃高井野へ飛ばされた後改易。
墓は全国複数あり、ここもその一つ。