カテゴリー: 大分県

中川久清の墓

大分県竹田市久住町大字有氏にある中川久清の墓

中川久盛の子。岡藩主三代。
大船山へ登る中腹に中川氏墓所があり、久清・久矩・井津姫の墓所がある。
久清自身大船山を好み、人楼に乗り登山を行っていたと云う。
のち遺言で此処に墓所が造られた。墓域は入山公墓と呼ばれ国指定史跡。

墓域に至るにはそれなりの登山が必要なので注意。
大船山が有名な山であるため、ルートは複数ある。
車の場合はガラン台方面からだと33.092431, 131.311493まで行けるようで、そちらから登った。
途中道に柵が設けられているが、他に居た登山の方曰く、登山の場合は柵越えをするとの事。
以降の道ははっきりしており、藪漕ぎ登山よりは遥かに楽。

途中
33.092431, 131.311493の地点。
車だと此処が終点。

ガラン台。
此処の時点でかなりの高さ。
普通に雲海が広がる。

進んでいくと大船山方面への道。
看板が目印。

進むと分岐があるも看板あり。

墓が近くなると「入山公墓」の目印。

登っていくと何かの祠

中川氏墓域
石垣で囲まれている。

中川久清の墓
石垣で組まれた墳墓の上に墓石。
墓石背後には石墳。小松藩一柳氏墓所と似た感じ。
周囲には石灯籠もある。

上の墓碑。

中川久矩の墓
久清の六男。展望台近くにある。

井津姫の墓
久清の娘と云う。

展望台からの眺め。
墓域の時点でかなりの標高があるため眺めがよい。

吉弘統幸の墓(吉弘神社)

大分県別府市石垣西にある吉弘統幸の墓

西にも裏手の参道があるが、東側の方が広い、駐車場もある。
境内西の社殿裏に墓がある。

吉弘統幸は吉弘氏十一代。
石垣原における戦いで大友方に属して戦死した。
墓は板碑墓碑と石祠。銘なし。
平成二十九年、子孫によって石祠は中央に新しいものが追加された様だ。

なお、統幸の墓は金宗院と永泰寺にもある。

板碑墓碑

石祠

新石祠

吉弘神社

山野城

大分県竹田市直入町大字長湯にある山野城

33.089461, 131.322401の辺りから城へ入る事ができる。
道路の真横がすぐ城域。若干のスペースもあり。
土塁を越えると広い曲輪があり、そこを中心に整備されている。
整備された箇所意外は藪化しているが、城域は更に広い様だ。

建久七年、古庄重能が大友能直に従って朽網氏を称し山野城を築いたと云う。
朽網鑑康の代には城を改修。一万田堀・両志賀堀・入田堀・田北堀などの名が残る。
天正十四年、島津氏によって山野城が攻撃を受けた。城は鑑康が病床の為、朽網鎮則が守った。
朽網勢はよく戦い島津軍の攻撃を退けていたが、途中鑑康が死去。
天正十五年一月五日、城方は支えきれず和議に応じて開城。
朽網鎮則は城を出たが、のち大友義統が島津氏に降った者の誅罰を初め、徳丸筑後守に追われて自害した。

その後、山野城には斎藤道暦が入ったとも云う。

道路沿いの土塁上。

土塁が窪んだ様になっているヵ所。

土塁下の広い曲輪

道路沿いに横堀らしきヵ所

北西側の高所に広い曲輪あり。
ただし藪がひどい。

北西の曲輪下段。

南東側方面に延びる曲輪

南東側堀切

長安寺・屋山城

大分県豊後高田市加礼川にある金剛山長安寺。
本尊は千手観音菩薩

33.568916, 131.547474に駐車場。
入場料があるタイプなので来訪時間に注意。

養老二年、仁聞の開基。
六郷満山中山本寺。
鎌倉期には将軍家祈願所、戦国時代には吉弘氏が僧職を勤め、鎮信・統幸のほか高橋紹運もいたと云う。
文化財も多数あり、太郎天像及び二童子立像・銅板経は国重文。

背後の山には花を見て回る散策路あり、
ひたすら進んでいくと屋山城へ至る。

屋山城は吉弘氏の城。
当初は吉弘城を本拠としていたが、氏直の代に屋山城へ移ったと云う。
天正七年には吉弘統幸により改修を行った。
曲輪は山頂方面へ階段状に延び、堀切等を挟む。

吉弘鎮信の墓
宝篋印塔。
うっすら宗仞の文字あり。
金宗院付近の看板も鎮信の宝篋印塔の事に触れていた。

長安時国東塔
県指定有形文化財。

登っていった散策路終点。
展望台と屋山城入口。

竪堀二か所をたどって登っていく。

竪堀二か所を登った曲輪

花弁型竪堀

山頂方面の曲輪

巨石が多い

堀切

山頂主郭部。
石祠あり。
慶応三年河野通喬建立という。
名前と通字が越智河野氏だが関係はあるのだろうか。

大きな石灯籠
明治十年河野貞八建立

主郭奥の堀切。

屋山城石碑
南次郎揮毫

城先端部

筧城

大分県豊後高田市長岩屋にある筧城

33.567914, 131.522894に駐車場。
屋山城時代の吉弘氏の居館地と云う。
遺構は発見されておらず伝承のみとの事だが、石碑や看板が各所に建っている。
地名としても堀之内が残ると云う。

駐車場

城跡石碑

大岩
かつて筧城の庭にあった。

屋山城を望む。

金宗院・吉弘統幸・鎮信の墓

大分県豊後高田市松行にある金宗院
吉弘氏の菩提寺。
永享八年開基と云う。

氏直の代に吉弘城より屋山城へ移ってきた。
十一代・吉弘統幸は広く知られる。
寺は現在廃寺になっている。
33.566405, 131.515254に駐車場、
少し離れた33.564807, 131.513273にもあり。

吉弘統幸の墓
十一代。
統運院殿傑勝温英大居士。
永寿寺の供養塔と若干文字が異なっている
慶長五年、石垣原で戦死。
現在の墓碑建立は二十五代吉弘尚正と云う。

吉弘鎮信の墓
十代。墓碑は国東塔。
統幸の右辺りにある。

田原氏墓所

大分県杵築市大田沓掛にある田原氏墓所

二か所、五輪塔群と五重塔の二か所。
五重塔は33.509777, 131.559485のあたり。
五輪塔群は33.510500, 131.560642に入口。
いずれも道沿いに看板あり。

田原氏は大友能直の十二男・田原泰広を祖とする。

石造五重塔。
国指定重要文化財。
延元四年建立。側に五輪塔もあり。
田原直平の供養塔。

墓所入口。

田原氏墓所
県指定文化財。
田原氏代々の墓所と云う。鎌倉から南北朝にかけての五輪塔群。
ほとんどが五輪塔だが、一部宝篋印塔もある。
鎌倉期の物はそこそこ目立つのだが、時代を経た小型の五輪は藪に埋もれがちになっている。

埋もれかけ五輪塔群

財前氏墓所

大分県杵築市大田小野にある財前氏墓所
国指定重要文化財。

33.548306, 131.576369に入口あり。
向かいに駐車場もある。

百基以上の大小墓石がある財前氏墓所。
中央に国東型宝塔あり、財前美濃守の墓と云う。
昭和二十九年に国重文指定

入口

財前美濃守の墓。本姓紀氏
鎌倉期。
なお、近くにある財前氏略譜石碑によると、諱は信吉。
元応二年七月十二日没、財前兼氏が国東塔建立と云う。

その他墓石群。

諸田越板碑
財前氏墓所付近道路沿いにあり、
貞治五年。

吉弘城

大分県国東市武蔵町吉広にある吉弘城。

33.514501, 131.664391から城への道が伸びる。
駐車場などもあり車でも行く事ができる。
駐車場側に堀切あり、主郭には石碑。周囲の森の中にも堀切や壕が点在している。

吉弘氏の城。
大友氏一族田原直貞の次男が正堅が吉弘氏を称した。
築城は建武年間と云う。
八代・吉弘氏直の代に屋山城へ移り、こちらは支城となった。
なお、麓の永泰寺に吉弘氏墓所あり

駐車場

主郭への堀切

主郭
中央に石碑。

主郭周辺の堀切

何かの壕

永泰寺、吉弘氏墓所

大分県国東市武蔵町吉広にある亀徳山永泰寺。
吉弘氏の菩提寺。
33.522490, 131.669111に入口。
初代・吉弘正堅が創建したと云う。

境内は堂が一つ建つのみで廃れている。
周辺は道が狭く、歩いて行った方が良い。

吉弘氏七代墓所。
吉弘氏の初代・正堅から七代・親信までの墓。
場所がわかりにくく、寺の北下段の藪奥にあり。

吉弘正堅・吉弘統幸の供養塔。
七代墓所よりこちらの方が見つけやすい。境内の目立つところにある。
中央に法名二つ
右:永泰寺殿劫岩安心大居士
左:統雲院殿傑勝運英大居士

左は有名な十一代・吉弘統幸。
右は永泰寺殿なので正堅だと思っている。