カテゴリー: 個人的に気に入ったもの

浅海城

愛媛県松山市浅海本谷にある浅海城

あさなみ城。
愛媛県中世城館跡分布報告書で、浅海にある観音堂の場所辺りをさしている。
規模は2曲輪、70×30の連郭で現状が畑・境内地という。
観音堂のある平坦場所か、または背後の頂辺りか。

観音堂が風早新四国七十四番であるため到達はしやすい。
七十六番の大師堂前、34.008111, 132.805194に入口看板。
看板通りに池付近を進んでいけば良い。

城主は分布報告書で河野藤四郎能員。

また、河野氏の分流に浅海氏がおり、此処と関係があるものだろうか。
浅海氏は河野親考の系統、親考-盛考-浅見能長-頼季-信季と続く。
頼季は鎌倉初期の人物で、浅海を見下ろす名石山城にて城主の話が残る。
南北朝時代にも太平記や予章記にて浅海氏が登場している。

案内看板。
観音堂の場所。

臼池井戸
城への道中にある。説明付。
弘法大師がこの辺りを訪れた際、草むらだった此処を杖で付くと水がわいた。
これが池となり、この水を使うと病気平癒に効いたという。
現状は井戸になっている。

安寿池
途中にある大きな池。
ここにある観音山に安寿という女性が住んでいた。
働き者でこつこつ耕作をしていたが、誰ぞに悪評を吹聴される。
人々から罵り嘲られ、耐えられずこの池で投身自殺をしてしまった。
その後、安寿池と呼ばれるようになった

観音堂
城跡の場所とされている所。
風早八十八箇所七十四番。
ここの菴主は京の公家の姫だった。
池の造営や、子供へ学問を教えたりと人々に慕われたという。
組念仏の終わりには菴主さんのためにという一節が盛り込まれているとか。

背後の頂。
ほとんど自然地形。

黒岩城

愛媛県今治市菊間町松尾にある黒岩城

道は国土地図を見ると城の側まで続く道がわかる。
広い道路だと34.018750, 132.867083からが入口。
歌川の滝を拠点にして向かう。
道は北側から城の東尾根へ出る事が出来る。

城は東から堀切が二か所。
山頂域には細長い曲輪があり中央が高台になった祠。
西には堀切・竪堀が構えられてる。

城主は渡辺内蔵進
現地石碑や二名集等で、天正年間に高仙山城と共に落城。
高仙山城は天正十三年に小早川隆景が攻めて落城させている。場所も近いのでこの時だろう。
高仙の城主池原通成は城で自害しており、こちらも同様?

また、黒岩城主には伊予古城砦記や大洲旧記で忽那常雲が城主とも。
こちらも天正十三年落城。

歌仙の滝
四国八景とされている場所。
公園化されており駐車場もある。

滝観音堂
松山藩主四代松平定直の建立と云う。

滝と観音像
像は大正期の作

霧合の滝への看板。
この道を使うと、城への道のショートカットになる。

林道入口
34.018750, 132.867083の所。
ここから林道歩き。

分岐
ここは左。
国土地図を確認しつつ進めばよい。

登山口。
城の北辺り部分。
国土地図でも城の東尾根に出る道がついている。
ただし入口が草木で埋もれつつあるので注意。

堀切1つ目

堀切2つ目
かなり浅くなっている。

主郭東側

主郭中央高台の石碑と祠。
裏面に渡辺内蔵進の名前。

主郭西側。

西側の堀切。

下を覗くと竪堀が見えた

梶取鼻見張台

愛媛県今治市波方町宮崎にある梶取鼻見張台

波方宮崎の先端部分にある。
現在は灯台が建っており公園化されている。
長らく工事で通行できなかったが、訪れた令和五年時点で開通していた。
車で行く事も出来、駐車場もある。

位置的に来島氏の波方城砦群だが、
説明看板では更に古く、大宝律令において各地に軍団が置かれた際、
各地にに見張り台が設定された事が書かれている。
ここで見張りし、側の火山狼煙台で連絡していたものか。

さらに松山藩時代も狼煙用に使われていたという。

灯台。
現在は灯台になっている。
かつては単郭の見張台だったという。

途中の尾根。
左右は絶壁。

火山狼煙台

愛媛県今治市波方町宮崎における火山狼煙台

34.119583, 132.896500の辺りの山頂にある。
長らくここまでの道を工事していたが、訪れた令和五年時点では開通していた。

登るには多少の藪こぎが必要だが、狼煙台より西側にある石碑までは簡単に行ける。
山頂域の遺構は窪みや転がった石の他は判らなかったが、灰の層が発見された。
石碑・説明板によると、ここは火山と呼ばれ狼煙台があり、
藤原純友の頃からの拠点だったという。

また、場所的にも来島氏の波方城砦群の一つか。
前後にも見張り台や砦がある。

入口。
看板も建っている。

説明番と石碑。
裏面にも説明あり。

山頂方面。
藪漕ぎ。

山上部分。
狼煙台。一応石も転がっているが詳しく判らず。

丸いくぼみ
狼煙関係?

出雲山砦

愛媛県今治市波方町波方にある出雲山砦

34.115306, 132.951333にある。
現在めぐり公園のグラウンドになっている場所。
分布調査報告書にて触れられているが、ここも全壊。
ただし、公園は高台、且つ波方館における南の峠道の入口にあたり、城の立地としては納得できる。

場所的に来島氏の波方城砦群の一つ。
ここ含め四つの城が縦並びになっている。

道路挟んで反対から。
グランドはかなり広い。運動場としてはいろいろな競技に仕えそうだ。

高良鼻砦

愛媛県今治市波方町波方にある高良鼻砦。

だいたい34.118778, 132.952694の辺りにある。
分布調査報告書にて触れられている城跡。
形態は単郭らしい。
周辺の同様の城砦が全壊なのに対し、こちらは現存という。
ただし、現状は畑・宅地化しており、わずかに土が盛られた一画が残っている程。

ここも来島氏の波方城砦群の一つだろう。

波方館

愛媛県今治市波方町波方にある波方館。

34.118778, 132.952694
ちょっとした高台になっているが、現在は住宅地や畑化している。
分布報告書でも全壊、武者走りや腰曲輪があったという。

来島氏(来島村上氏)の波方城砦群における中心地。
波方は小規模の城砦が大量にあり、群郭複合式城郭の形式を取る。

城郭体系では応永二十六年に村上吉房築城ともあるが、
ほぼ稼働は来島通康の頃。来島城の陸の拠点として使用し、能島・因島村上等とも戦闘になった。
来島通康は天正十三年後も、他と異なり大名として残り、風早へ移った為にこちらは使われなくなった。

麓には古い墓や祠も。
五輪塔パーツもある。

向城

愛媛県今治市波方町波方にある向城

分布調査報告書で触れられている城跡。
34.118778, 132.952694の辺りにあって、山から降りてきた麓辺り。
ほぼ宅地と畑になっており、同書でも全壊という。

場所的に来島氏の波方城砦群の一部か。
南側には波方館があり、その支城か。

森上砦

愛媛県今治市波方町森上にある森上砦

34.125056, 132.932694の墓地がある山。
城館分布調査報告書で触れられている城。
状況は墓地化で全壊し、遺構らしいものは残っていない。

波方には来島氏の城砦群があり、場所的にここもその一つなのだろう。

道は墓地化の為しっかりある

地蔵菩薩。
五十六番の標柱。

守田忠太の墓
墓地内に説明看板が建っている墓がある。
看板曰く、土くどの始祖という。

菊間瓦の原料である粘土は森上・波方からも送られていたが、この辺りは瓦製造の権利は得られなかった。
そこで村役守田忠太は安政四年、瓦土で焼いたくどの製造を思いついた。
これが農村に広まり、明治期に九州・朝鮮にまで販売されたという。

墓碑には
安政四年始
土竈製造元祖守田忠太之碑
明治十九年戌十月四日行年八十三

墓の説明看板。

法華寺(大洲)

愛媛県大洲市西大洲にある法華寺

槃陀山法華寺
曹洞宗総持寺末孫末。
本尊は釈迦如来。

元々は下野宇都宮にあった天台宗寺院という。
開基は宇都宮朝綱(宗家三代)。開山は慈全。
元徳二年、宇都宮豊房(豊前系出身。伊予宇都宮初代)が伊予国守護になった際、下野から移転してきた。
戦国時代に大洲の伊予宇都宮氏が没落すると廃れていった。

寛永九年、大洲藩主加藤泰興の室・万寿院の遺言により、
城川町龍潭寺の久岳宗闐の開山で、曹洞宗として再興された。
万寿院は福知山藩時代の岡部長盛の娘といい、岡部氏が曹洞宗だった為に寺の宗派を変更された。

宝永三年、本堂を火災で消失したが、
享保十年から十五年がかりで中興学船が再興した。

訪れた当時、参道は工事中の様だった。