カテゴリー: 香川県

観音寺城

香川県観音寺市天神町にある観音寺城

高丸城、景全城とも。
現地石碑塁では観音寺城で統一されている。
一心寺のある辺り一帯が城域で、遺構は残っていないが、
ひがし児童公園内に石碑があるほか、すぐ北にある一心寺に移築門が残る。

城主は香川景全
景全は香川之景の弟。
香川氏と長宗我部氏が和睦すると是に従い、天正十三年の豊臣秀吉四国攻め後廃城になった。

現存門
一心寺山門。

一心寺
旧城域。
香川景全の菩提寺。
石碑曰く、天文十七年、景全が七堂伽藍を整備。
長宗我部氏に兵火にあい、寛政年間に失火、天保四年に修理。
近代に入って修理を試みたが、平成元年から八年にかけてようやく修理という。

藤目城

香川県観音寺市粟井町にある藤目城

東麓にある粟井神社から道がついいている。
ウォーキングコースになっているのか、地図もあり道は安定している。
西方面へ登っていけば途中に広さのある曲輪の二の丸、
本丸のある山域麓には堀切がある。

本丸域は神社のある場所から一段上に稲荷、さらに上に主郭がある。
主郭はぐるりと帯曲輪がとり囲み、西先端にも二段ほど続く。

 

城主は斎藤氏。
戦国時代には斎藤師郷がおり、大西氏を通じて長宗我部氏に属した。
これを聞いた讃岐勢は刺激され、聖通寺城の奈良勝政が十河存保へ助力を請い、
天正六年、奈良・香川らにより藤目城が攻撃された。
この戦いで斎藤師郷は敗れ、奈良勝政が新目弾正を藤目城へ入れた。

同年、長宗我部元親が藤目城を攻撃。鉄砲を討ちかける等激しく攻め、城方は能く防戦したものの、夜に城の一角が破られ落城。新目弾正は戦死した。
のち、斎藤師郷が藤目城へ復帰した。

登山口と駐車場

粟井神社
式内社明神大社。
天太玉を祀る。

二の丸

看板と石碑。
石碑は看板裏にある。

石碑そばには石垣で組まれた一段高い場所も。

本丸域麓。
舗装路か山道の分岐。
どちらでも山上まで行ける。

本丸域麓の堀切。

剣山神社
登った先にある神社。

藤目稲荷。
主郭一段下。

主郭
石仏や弘法大師塔もある。

主郭周囲の帯曲輪。

主郭西下の曲輪

二段目の堀切跡?

大平正芳の墓

香川県観音寺市豊浜町和田浜にある大平正芳の墓

34.068598, 133.634989
豊浜墓地公園駐車場付近の高台にある。
公園入口の道路沿いにも墓の看板が出ており、
高台入り口にも目印看板が建つ。

大平正芳は六十八・六十九代・内閣総理大臣。
日中国交回復等に尽力。
興國院殿寛道浄基正芳大居士
昭和五十五年没。

周辺には記念館や銅像・誕生地碑等、正芳関係の史跡もある。

霊芝寺、高松藩松平氏墓所

香川県さぬき市末にある霊芝寺

日内山霊芝寺
高野山真言宗。
本尊は十一面観世音菩薩。
高松藩松平氏菩提寺。

弘仁年間、弘法大師の創建。
かつては東林山遍照院日内山大岡寺と称した。
寛文五年、山城西明寺の恵忍と、高松藩主松平頼重が再興。
延宝四年、松平頼常が東林山霊芝寺と改め、本堂建立。
享和二年、松平頼儀が本堂再建。
明治二年、日内山へ改称。
昭和十三年、本堂再建。

法然寺と共に高松藩主の菩提寺であり、
こちらには水戸藩からの養子として入った二代・頼常、九代・頼怒の墓がある。
墓所は法然寺と同じく門前までだが、境内地図看板や説明看板が豊富。

山門
看板曰く雨瀧城の裏門の移築という。

本堂

鐘楼
看板曰く、梵鐘は松平頼常・頼豊が京の田中伊賀掾・藤原為秀氏に鋳造させたという。

黒門
墓所へ境内から松平氏墓所方面へ向かうところにある。
小さいながらも綺麗な高麗門。

高松藩主松平氏墓所。
国指定史跡。
参道に長い石段があり、入口に石碑と看板が建っている。
内部は法然寺と同様判らない。
二代・頼常、九代・頼怒が葬られている。

松平頼常は水戸藩二代・徳川光圀の子。
光圀の兄・頼重が病弱だったため水戸藩を継げず光圀が代わりに継ぐ。
よって頼重と光圀は互いの子を養子に出し合い、血筋を嫡子系に戻した。
頼重の養子として跡を継いだ頼常は学問に秀でていたという。
宝永元年没。

松平頼怒は水戸藩七代・徳川治紀の子。
松平頼儀の養子として高松藩を継いだ。
久米通賢は頼怒の代に抜擢され塩田開発を行った。
天保十三年没。
なお、頼怒の跡は頼儀の子・頼胤が継いだことで血筋が戻る。

松平頼該の墓

香川県高松市西山崎町にある松平頼該の墓

本堯寺にある。
霊廟付で登録有形文化財指定。
門前までしか行けないが、内部は無縫塔らしい。

頼該は通称左近、金岳。
高松藩主松平頼儀の長男。
文武に長け、勤皇家だったという。
慶応四年の鳥羽伏見の後、高松藩は朝敵指定によって討伐されかけたが、
頼該は藩論を恭順でまとめさせ高松藩を戦火から救った。
その後、同年中に没。

寶珠山本堯寺
法華宗。
頼該が熱心な信者だったという。

九十九山城

香川県観音寺市室本町にある九十九山城

江甫草山にある。蓮光院から登山道が付いている。
寺の駐車場にも登山者駐車場の看板とルート案内板もあるので安心して登る事ができる。
登っていくと曲輪の東端に出ることができる。
城全体に石垣が所々に残っており、東端から隅石垣も残っている。
西に向けて階段状の曲輪群が続き、主郭域は周囲に一段曲輪取り巻く。
主郭から西へも堀切や曲輪があり、端は展望所になっている。

城主は細川氏政
天正六年、長宗我部氏の讃岐侵攻で攻められ落城したと云う。

登山口
杖や地図もある。

七宝山蓮光院羅漢寺
大同三年、弘法大師の創建。
真言宗。本尊は阿弥陀三尊。
延宝三年、快賢阿闍梨が羅金堂を建立。筑紫から五百羅漢を安置し寺号が羅漢寺になったと云う。
五百羅漢は市指定文化財。

山頂への分岐。
目印看板もある。

城域東端の隅石垣

東端に大穴

東曲輪群

虎口

所々に石垣が残る。

主郭東下段。

主郭
江甫草山一五三米の標柱もある。

主郭西端
若干低い。

主郭西下の土塁。

城域西端は断崖絶壁
ベンチもあって展望所になっている。

一夜庵、山崎宗鑑・細川氏政の墓

香川県観音寺市八幡町にある一夜庵など

興昌寺の境内にある。
一夜庵は山崎宗鑑が享録元年に結んだ草庵。
観音寺市指定文化財。
山崎宗鑑は室町時代の俳諧師。元は志那範重と称し足利義尚に仕えたが、義尚の市により名を改めて、明応年間に京の山崎に移った。
のち、親交のある東福時の梅谷という僧が興昌寺へ移った為、宗鑑は此処に移り住んだ。
草庵の名は一夜以上の宿泊を禁止したためという。

山崎宗鑑の墓
一夜庵の建立者。
寛正六年生まれ。天文二十二年十月二日没。
一夜庵の隣にある。
五輪塔で風化が激しいが、「宗鑑法師之塔」の石標柱が建っている。

細川氏政の墓
九十九山城主。
火輪がいくつも重なった五輪塔。一夜庵の向かいにある。
天正六年頃、土佐方の攻撃を受けて自害した。

塩津直方と一族墓所
丸亀藩観音寺町奉行という。
直方を探しきれず断念。上の土塀に囲まれた箇所は違うようだ。

西長尾城

香川県丸亀市綾歌町岡田上にある西長尾城

綾歌森林公園として整備されており、北麓34.211064, 133.866022に駐車場。
公園を進むと登山道があって途中地図もある。
ウォーキングコースにしている人も多い様で、それなりに往来はある。

曲輪は城山の山頂を中心に北方向へ階段状に降って延び、東尾根には櫓台や堀切もある。
登山道を進んでいけば、北端に出ることができ、東尾根部分は側に視界の開けた道も付いている。

 

城主は長尾氏。
元は三野郡宅間郷筥御崎にいた。海崎伊豆守元高が白峯合戦の軍功で、応安元年に西長尾城へ移り、長尾大隅守を称するようになった。
八代・長尾高勝の代、天正七年に長宗我部軍の攻撃を受け、香川氏の仲介で和睦。
その後城へは土佐方の国吉甚左衛門が入り、長尾氏は長宗我部氏に属して行動し、香西氏や十河氏と戦った。
天正十三年、長宗我部氏が敗れ讃岐から撤退。西長尾城も廃城になり、長尾氏も帰農した。

なお、別項に書いたが長尾氏の墓所への道が佐岡寺から通じている。

駐車場
看板もある

途中、城の北端へ行ける分岐。

北の堀切

井戸跡の曲輪

階段状の曲輪群

主郭
展望所にもなっており、木々が取り払われ視界が良い。

東尾根上。

東の堀切

東の櫓台

東曲輪

東端の二重堀切

片岡伊賀守通高の墓

香川県仲多度郡琴平町にある片岡伊賀守の墓

34.212695, 133.817785にある。
周囲は田・住宅地であり、道も狭い。注意が必要。
現地には説明の石碑と墓碑が建つ。

西長尾城主長尾大隅守の将。
諱は通高。
天正七年、此処で土佐方と戦ったが馬が田に足を取られた為戦死した。
墓碑には片岡伊賀守墓の銘

片岡伊賀守愛馬鷹丸の墓
伊賀守の墓右隣にある。

森権平愛馬の墓

香川県東かがわ市伊座にある森権平愛馬の墓

東かがわ市指定文化財。
34.232632, 134.382679にある。
権平の墓から南へ進むと看板が建っている。
前に若干のスペースはあるが周囲は広くないので注意。

正面に「天正十二年申七月十九日 森月山権平午之墓」
森権平の愛馬紅梅鴾毛の墓。
天正十二年、森権平が長宗我部軍と戦い戦死。この時愛馬が田に足を取られた為に討たれ、愛馬も共に戦死した。