カテゴリー: 高知県

大高坂松王丸の碑

高知県高知市本町にある大高坂松王丸の碑

高知市役所の東、
33.558661, 133.531879にある。

高知城がまだ大高坂城だった頃の南北朝時代、
城主大高坂松王丸ば南朝方に属していた。
満良親王の来訪もあって一時勢力を盛り返したが、興国二年に大高坂城は落城し大高坂松王丸も戦死した。

江戸時代、文政十二年戦死者の供養の為の碑が出土。
現石碑背面によると、市役所にある大公孫樹下にある小祠が大高坂松王丸の墓である、という口碑があったと云う。
のち昭和の頃に供養の為、大高坂神社が建てられたが戦災で焼失した。

現在は墓も神社も失われ建替えられた石碑のみが建つ。

谷秦山の墓

高知県香美市土佐山田町植にある谷秦山の墓

国指定史跡
33.613419, 133.680471にある。
参道は南側、秦山公園の駐車場近くである33.612700, 133.680423にある。
墓所東には墓専用駐車場もあり。

当初事跡は知らずに来たが、説明看板や石碑が判りやすい。

秦山は号で、名は重遠。
山崎闇斎や浅見絅斎に朱子学や神道、天文方渋川春海に天文・暦術を学んだ。
のち藩の儒官となり土佐南学の発展に尽力した。
しかし藩主跡継ぎ問題において、無実の罪で蟄居。
ところが是を好機として書を読みまとめ、学問に励んだ。
享保三年六月三十日没。

参道

墓は屋根付き。

墓碑
墓石自体は小さい。
墓を大きくすると家が滅ぶという教えの為と云う。

東側には駐車場も

飛鳥井曽衣の墓

高知県高知市大津にある飛鳥井曽衣の墓

領石通駅の踏切を渡った先、
33.573972, 133.608491に山へ上がる階段があり、道なりに登った先にある。
右に飛鳥井曽衣の碑、中央に石祠、左に五輪塔等の石造物が集められている。

曽衣は法号で元は飛鳥井雅量。
飛鳥井氏の一族であり、蹴鞠や和歌など文化に通じた。
天文・栄六年間、京都の戦乱を避けて土佐一条氏を頼って来訪、以降賓客となり家門五家の一人になる。
永禄六年には津野定勝に蹴鞠の秘奥伝授と、鞠道八足の図を与えた。

天正二年、一条兼定が伊予を追われ大友氏を頼った際には、一条内政と共に大津に居た。
のち、長宗我部氏より岡豊城へ招かれ蹴鞠や和歌を指導した。

階段

白太夫神社、松本春彦の墓など

高知県高知市大津にある白太夫神社

33.572024, 133.601008に参道入り口。
菅原道真の従者・松本春彦を祀った神社と云う。

松本春彦は白太夫とも云い、
伊勢出身だったが、承和十三年に京で菅原道真に仕えた。
菅原道真の大宰府左遷においては共に付いていった。
延喜三年に道真が死去すると、土佐へ流された道真の子・菅原高視に遺品を届けるべく、
土佐大津まで来たが病にかかり雲門寺で死去したと云う。
のち神社が建てられ祀られた。

社殿
社殿右手前に松本春彦の墓への入り口がある。

松本春彦(白太夫)の墓
石垣がめぐらされた段の上に墳墓らしき物がある。
五輪塔などの石塔パーツが一箇所に固められ「白太夫松本春彦墓」の石碑もあり

向かいに石祠。
こちらも五輪塔が周囲に集められている。

池上弥三郎・森本茂吉の墓
堺事件において切腹した大津出身者。
鳥居付近、参道とは別に上がる階段があり、忠魂碑左隣にある。

慶応四年二月十五日、フランス兵が堺において上陸し測量や狼藉を働いた。
土佐兵が出動し銃撃戦の末、フランス兵十一名が死亡。
是に怒ったフランス側は抗議し、結果出動した兵二十名に死刑が決まる。
二十三日、妙国寺において切腹が行われ、十一名が切腹した段階で中止となった。

・池上弥三郎(右)
正面:忠法光則居士
右:
慶應四辰年二月廿三日
土佐池上彌三郎藤原光則 行年三十八歳

・森本茂吉の墓(左)
正面:
右:
慶應四辰年二月廿三日
土佐森本茂吉藤原重正 行年三十九歳

隼人神社・田辺島城

高知県高知市大津にある隼人神社

南東麓に入り口と鳥居がある。
現在此処には隼人神社が建っており、かつては福留氏の城である田辺島城があった。
社殿が東にあり、西には大岩、北西側には平坦地二段あり、主郭らしき山頂側面には石垣も。

福留氏は長宗我部氏の家臣。福留飛騨守親政は長宗我部元親の信任も厚かった。
天正五年、親政が伊予で戦死。
跡を継いだ福留隼人佐儀重は天正十四年に戸次川の戦いで戦死した。

また、この場所は親政・儀重の墓でもあるとの事。
「土佐の墓」に詳しく、親政は大石を置き周囲に石垣を巡らせた墓だったと云う、のち儀重が追加で葬られる。
その後、両名を祀るために神社化し、隼人神社となった。

太平洋戦争中は出征の無事祈願が行われたと云う。

鳥居
大正の頃の建立

社殿

中澤楠彌太の墓
社殿西側には中澤氏の墓所が広がる。麓の看板でも説明あり。
万延二年(文久元年)生まれ。
明治十四年に自由民権運動に加わり板垣退助とも知遇。
明治二十年、三大事件建白運動に乗じて京へ上ったが、保安条例で京を追われた。
明治二十四年、県会議員に当選、企業の重役も勤め業界発展に尽力。
明治三十八年、衆議院議員。
明治三十九年十一月七日没。

大岩
上に石祠もある。

北西側の開けた平坦地。

頂部分側面の石垣。

山頂部分。
主郭か。

馬詰親貞の墓

高知県高知市洞ヶ島町の薫的神社内にある馬詰親貞の墓

馬詰親貞の墓は北西側、社殿背後にある霊光塔の右隣辺りにある。
墓碑は舟形だが、上半分が割れてしまっている。
落雷により折れた隣の木が直撃した為とも。

阿波保崎城主馬詰駿河守の三男。
通称を権右衛門。
槍術家であり宝蔵院流を修め、開祖である胤栄と二代・胤舜に師事。
慶長七年に山内一豊に仕えた。
承応三年十二月二十九日没。
名奉行馬詰観音は子孫と云う。

馬詰親貞墓の入り口。
進んでいくとある。

薫的神社

にらみ石
家老孕石頼母邸にあった石。
正徳四年、孕石頼母はこの石に緋衣の坊主が乗って睨み付けてくると言い、発狂して死亡した。

薫的様御昇天の御牢
薫的和尚が無実の罪で捕らえられた際に収監された牢屋。
幕末にも平井収二郎や間崎哲馬、弘瀬健太らが収監のち切腹。
昭和二十五年、獄舎の一部が此処へ移築されて現存。

乾正行の墓

高知県高知市洞ヶ島町にある乾正行の墓

安楽寺境内から行ける瑞応寺にある。
安楽時本堂左右から瑞応寺へ行くことができる。
此処の墓地一画に乾正行の墓がある。なお、墓は安楽寺本道右側から進んだすぐ先。

土佐板垣・乾氏の二代。通称を金右衛門
板垣信方の子孫。信正の養子。
土佐板垣・乾氏は信方、信憲と続き、初代・板垣信正の代に土佐へ入り、乾和三より乾姓を許された。
正行の代、養子の為、石高を三百石まで減らされた。
慶安二年没。
なお、正行以外の歴代は板垣・乾氏墓所(板垣退助墓として史跡化)にある。

安楽寺

瑞応寺

上岡薇峰・野老山五吉郎の墓

高知県高知市薊野北町にある上岡薇峰・野老山五吉郎の墓

薊野の山中にある墓地内。
33.580976, 133.552208に墓地入り口。
野老山五吉郎の墓はかなり場所が分りにくい。
場所は麓に近い場所、上岡薇峰の墓の麓に向けて二段下あたりにある。

上岡薇峰の墓は目立つため見つけやすい。
墓地の道を進んでいくと左手に上岡氏の墓碑群が見える。その道を挟んで反対側奥に上岡薇峰の墓がある。
あとは上岡薇峰を目印に下段へ向かい野老山五吉郎の墓を探す。

上岡薇峰の墓
名を清風、通称源五郎。幡多郡入野の出身。
日根野鏡水・箕浦耕雨・箕浦小石・三木春堂・松本愚山・摩嶋松南・頼山陽らに学ぶ。
伊野のち入野で塾を開いて門下生を教えた。
安政地震で塾が流されてからは高知城下へ移住。明治には筆生長になったが六年目に辞めたと云う。
明治十一年十二月十六日没。
墓の撰文・書は河田小龍。

野老山五吉郎の墓
山野辺寿満平の次男。
五吉郎は召出により野老山氏と改めた。
文久三年、京都藩邸詰。
元治元年六月五日に池田屋事件が起きた際、藤崎八郎と共に巻き込まれ、新選組と戦って重傷。
のち長州藩邸において、六月二十七日没。
巻き添えで無く、関与していたという話も。

墓は蔦と藪にまみれている。

岡田以蔵の墓

高知県高知市薊野北町にある岡田以蔵の墓

大型電気店の北、
33.579327, 133.552487から入り口がある。
行き止まりに見えるが、突き当たりに山中の墓地への道がある。
進んでいけば岡田以蔵の墓の目印看板も出ている。
山上に上がれば東北方面に進めばある。

道中の目印看板。

山上は右手

岡田以蔵の墓
郷士岡田義平の子。宜振。
剣は鏡新明智流。
武市瑞山に属し、文久二年に京で天誅活動を行う。それ故に人切り以蔵の名でも知られる。
文久三年に捕らえられ、慶応元年に処刑。

岡田登稔の墓
岡田以蔵の弟
土佐勤王党。
明治十五年没

追加で建てられた岡田以蔵の供養塔もある。

愛宕神社(高知)

高知県高知市愛宕山にある愛宕神社

祀神は伊邪那美・火産霊(迦具土)
寛永六年の勧請、山内氏家臣の仙石久勝によるものと云う。
山内忠義の崇敬もあり、承応二年に百石寄進と社殿再建。
のち代々の崇敬もあり、祭礼には二十九石の献納を行った。

「土佐の墓」曰く社殿東下段に仙石久勝の墓がある様なのだが見つからず。
東下段は住宅地化しており、開発のため撤去してしまったのだろうか。

水神社
境内社
祭神は水速能女神・御井神・忍雲根神
貞享二年献納の井戸横、高知城と同じ高さであるが、水が枯れないため祀られた。

杉尾神社
境内社
祭神は大物主
縁結びや開運招福によいと云う。

天神社
祭神は天熊大人
石で造られた穴内部にあり、傍から見ると石室の様な形。
旧古墳か。