興禅寺、川田雄琴の墓

愛媛県大洲市柚木にある興禅寺

寶林山。
臨済宗妙心寺派。
本尊は釈迦如来。

万治二年、艦珪禅師による開山。
のち大丘により再建されたという。
また、境内地蔵堂は中村渡場から寛文年間に大洲藩主により如法寺へ移され、文化十一年に再度移転したものという。

境内背後の墓地には県指定史跡である。川田雄琴の墓がある。
細かく案内看板が建っているので迷わずに行ける。

境内の古い堂
地蔵堂とはこれの事?

本堂

川田雄琴の墓への案内看板。

川田雄琴の墓
愛媛県指定史跡。

前面に「・・田先生・・」の銘がある。
ほとんど表面がはがれたり、植物で覆われてしまっている。
かつては「雄琴川田先生墓」とあったらしい

川田雄琴は名を資深といい、
三輪執斎へ師事して陽明学を学んだ。
三輪執斎が大洲藩主加藤泰温に招かれた際に推挙され、享保十七年に大洲藩へ仕えた。
雄琴は大洲藩校である止善書院明倫堂を開校し、教授として学問の振興を図り、
子の資哲、次の資始、資敬と代々藩校教授を務め、寛政二年の寛政異学の禁で中断されるまで続いたという。

側には後代の墓。
・紫淵川田先生墓(川田資敬、資哲の子)
・川田為谿翁室岡氏墓
・為谿川田先生墓(川田資哲。雄琴の子)
・慧球孺人墓

法華寺(大洲)

愛媛県大洲市西大洲にある法華寺

槃陀山法華寺
曹洞宗総持寺末孫末。
本尊は釈迦如来。

元々は下野宇都宮にあった天台宗寺院という。
開基は宇都宮朝綱(宗家三代)。開山は慈全。
元徳二年、宇都宮豊房(豊前系出身。伊予宇都宮初代)が伊予国守護になった際、下野から移転してきた。
戦国時代に大洲の伊予宇都宮氏が没落すると廃れていった。

寛永九年、大洲藩主加藤泰興の室・万寿院の遺言により、
城川町龍潭寺の久岳宗闐の開山で、曹洞宗として再興された。
万寿院は福知山藩時代の岡部長盛の娘といい、岡部氏が曹洞宗だった為に寺の宗派を変更された。

宝永三年、本堂を火災で消失したが、
享保十年から十五年がかりで中興学船が再興した。

訪れた当時、参道は工事中の様だった。

大圓寺

愛媛県大洲市菅田町大竹にある大圓寺

智鏡山大圓寺。
臨済宗妙心寺派。
本尊は観世音菩薩。

出雲坊宗賢の所縁寺院。
宗賢は河野通清の養子。
真偽は別として、通清が京へ上った際に近江で拾った捨て子で、養子にしていた。
通清は反平家の兵を起こして額西寂に討たれるが、宗賢は生き延びて河野通信と共に仇を討った。
子孫は桑原氏となり、河野氏十八将として桑原城、のち鷺の森城に居たが、大洲にも足跡が残っている。

弘安三年、宗賢は通清や一族の菩提を弔うため、天溪宗文を開山として大圓寺を開基。
大洲市誌曰く、承久の乱後の河野氏が宮方に属して衰退により此処へ隠棲という。
ただし死去が貞応元年といい、開基よりも早い。
大洲における子孫は城戸氏を称したと云い、大圓寺の建立は子孫によるものらしい。

文政二年、火災によって寺宝・古文書を消失。
情報が少ないのはそのための様だ。
天保五年、十一世亮厳が再建。
平成二年に庫裏新築という。
寺宝として、若狭守お講諸事録(天保五年)というものがあるらしく、矢野若狭守関係?

なお、別項に書いたが、宗賢の墓は松山にある。

本堂。
ほか境内には石碑や無縫塔。
寄付者名石碑には城戸姓も。

六地蔵

矢野若狭守の墓

愛媛県大洲市菅田町大竹にある矢野若狭守の墓

松の城の下、33.489528, 132.579028に入口がある。
目印標柱が建っており、そこから斜めに道が付いている。
登りすぎに注意。無駄に折り返して登ると別の場所へ出る。

矢野若狭守行定。
すぐ上にある松の城主。
大洲領古城記等曰く、元は和泉に居りここへ移ったという。
永禄十年には土佐方の攻撃を受けており、行定の子・行盛はこの時戦死とも。
天正十五年に死去したと云い、ここの墓碑にも同年の銘あり。

入口と目印標柱

※分岐
ここはまっすぐ。

五輪塔。覆屋付。
清泰院若狭守眞岩玄休居士
天正十五年丁亥年十月九日
この五輪塔は文政十三年七月十四日、子孫の矢野行就らにより建立されたもの。

となりの旧墓碑。
五輪塔の前の墓碑らしく、銘も同様の
清泰院若狭守眞岩玄休居士
天正十五年丁亥年十月初九日

もう一つある墓碑。
天梁?道全居士
天正七年巳卯年九月二十八日

貞行城

愛媛県大洲市新谷にある貞行城

33.537753, 132.609879にある。定行城とも。
西の麓である33.537433, 132.606655からのびる林道があり、
城の真横まで行けるので後は登りやすい場所から進めばよい。

曲輪は主郭を中心に曲輪が取り巻き四方に延びている。
道を進んでいくと最も延びが浅い西側の曲輪側に出る事が出来る。
道を更に進むと北側の曲輪へも出られる。

城主については情報が少ない。
大洲市誌・分布報告書で貞行氏の城としている。
しかし、城の規模は大きく、内子・五十崎に対しての大洲玄関口の様な場所に位置している。
内子方面に対する最前線中心拠点のような場所の印象。

城への林道。

西の曲輪側へ出る。
主郭も目の前。

西の曲輪。

主郭。
木々で生い茂っている。

主郭東の腰曲輪

主郭北下。

北へ延びている曲輪群

北方面の堀切。

東方面の曲輪。
竹林の中に道がついてる。

井戸跡?
水が溜まっている。

途中にT字路
城中ほど荒れていない。いまも使われている?

東先端の曲輪。
広さのある曲輪。

南方面の曲輪。
ほぼ藪。

雫石城

岩手県岩手郡雫石町下町東の雫石城

現在雫石八幡宮のある場所を本丸とした城。
39.689056, 140.982417
現在は住宅地や畑化しているが、二の丸・三の丸やその他曲輪は西へ延びていた。
神社境内に城跡の看板がある。
神社域だけなら車で到達も可能。

城主は戸沢氏、滴石氏を称したとも。
南北朝時代になると南朝方の拠点となり、北畠顕信も在城していた。
貞和五年には吉良定家が雫石城を攻撃したという。

室町初期までは戸沢氏の拠点として使用され、
応永三十年、戸沢家盛の代に角館城へ移った。
戦国時代に入ると天文年間に手塚左衛門尉が城主だったが、南部氏の石川高信に攻められ、一族の不仲もあって落城した。

その後は高水寺斯波氏が入り、斯波詮高の次男詮貞が入った。
この系統は三代続いたが、天正十四年に南部信直に攻撃されて落城した。
南部時代は八日町太郎兵衛が入り、豊臣期の天正二十年に破却された。

雫石八幡の社殿。
城の大部分は失われている。

一宮神社(魚成)

愛媛県西予市城川町魚成にある一宮神社

33.371306, 132.702278に入口。
駐車場もあって参拝が容易な場所。

祭神は大己貴と猿田彦。
健治三年、土佐一宮の尊像が天をかけて東宇和郡釜ノ川岡田森に籠った、
これを隆ヶ森城の魚成氏が産土神として、一宮大明神として祀ったのが始まりという。

魚成氏はのち西園寺十五将の武家。
しかし氏祖である平通盛から室町末期の魚成通親まで、情報のない空白期間があって曖昧。
真偽は別として、鎌倉時代における魚成氏の事績に関する貴重な社伝。

神社は江戸時代に入った元和二年に火災で宝物・棟札含めて消失。
翌元和三年に再興。

その後は都度改築が行われて維持されている。
文化六年社殿改築。
明治二十二年、中殿・拝殿・向拝甲改築。
同四十一年、境内外末社合祀。
昭和二十九年に改築。

なお、背後には槌ヶ森城がある。
魚成氏の隆ヶ森城支城。魚成一千年史曰く、背後の山に連なり間に堀もあるという。
元々此処目当てで来たが、山全体に獣除け柵があって城跡へは登れないようになっている。

注連石
啓蒙養正 積慶重暉 の銘があり
昭和二年十月二日、日露戦争で有名な秋山好古の書。

社殿
背後の本殿へも側面に石段があって眺める事が出来る。

面白い形をした手水鉢

神社背後の道。
山へ道が続いていたので、槌ヶ森城へあがれるのではと思ったが、
遠くに山全体を張り巡る柵が見えて断念。

東門寺

愛媛県大洲市春賀甲にある東門寺

恵光山。
臨済宗東福寺派。
本尊は薬師如来で、脇侍は十六羅漢。
周囲が狭いので取り合えず歩いて訪れた所、普通に車でも行ける場所だった。

祖母井氏の菩提寺か。
伊予祖母井氏は近くにある祖母井城(平松城)主。
祖母井城の功にも書いたが、山田城攻略の功で城を築いたという。
祖母井氏といえば下野の祖母井氏が居り、宇都宮氏に付いて来た様に見える。
ただし、細川頼之の血筋とか、築城の際に老婆から井戸の場所を教えて貰ったから祖母井を称した・・等の話も存在する。

寺としては天正二年、祖母井左衛門尉之照が建立。
寛文七年に西禅寺八世明厳を開山として再興。
明治十八年に現在の堂宇が建てられたという。

本堂
境内に祖母井氏関係の遺物は見当たらず。

寺へ進む道入口に六地蔵

臼坂城

愛媛県今治市朝倉北にある臼坂城

朝倉村誌で存在に触れられている城跡。
矢矧神社背後の山と云い、神社左手から山上までの道がついている。
山頂部分はシダで埋もれているが若干削平された様な箇所もある。

城主は臼坂氏。
河野十八将の黒川美濃守通博の旗本の家で、
河野分限録にも白坂三郎兵衛尉の名前が見えている。
朝倉村誌曰く、白坂三郎兵衛知清という。

平時は笹ヶ峠に居館を設け、三好氏襲来に供えていたというが、
白坂城は天正十三年落城という。時期的に天正の陣の時か。
以降は、高市郷古谷に居住した。村誌曰く、臼坂姓の人が多く住むという。

少し南側の峰。
若干削平感はある。

山頂部分
ほぼシダ植物。

桜井の台場

愛媛県今治市桜井にある台場。

綱敷天満神社を抜けて砂浜方面でると今治藩の台場跡がある。
場所は34.019611, 133.045333
石碑と説明看板が目印になっており、側には僅かに残った台場の土塁がある。

嘉永六年に黒船が着て以降、伊予でも松山藩が安政二年に台場を設けるなど、海防強化が進んだ。
今治藩では文久三年頃から台場を建設し始めた。
看板曰く、ここ桜井の台場は設計不明だが、桜井町役場の記録で三か所の土塁があり、
八間三尺・九間三尺・九間五尺の土塁が設けられていたという。
このうち現存するのは九間三尺部分で、他は道路建設時に消失した。

現存の土塁。