カテゴリー: 広島県

上田氏墓所(上田宗箇ら)

広島県廿日市市大野原にある上田氏墓所

34.286008, 132.269182に入口。
車は無理なので、大野浦駅か宮島口のコインパーキングに置いてくるしかない。

上田氏は広島藩家老の家。
特に初代・上田宗箇は茶・作庭にて極めて有名で、茶道上田宗箇流を開いた。
石高も一万石を食む大名レベルの武家だった。
明治維新後の明治三十三年、上田亀次郎安靖の代に男爵となって華族入りしている。

此処にあるのは初代・宗箇、三代・重次、九代・安虎、十代・安世、十二代・泰敦~十五代・元源の墓。
墓域は三か所に別れている。

◎墓域1
奥から順。

上田重次娘 由良の墓
栄昌院玉峰日境大姉
正徳二年正月十三日。

上田重次室 蓮容院の墓
加賀津田玄蕃頭正忠娘
蓮容院殿妙嵓日壽大姉
享保八年六月二日。

三代・上田重次の墓
石柵内に小さな石。
元禄二年六月五日。
石灯籠は文政三年建立。

上田安世娘 智幼院の墓
智幼院秋空大童女
寛政十年九月十四日。

十代・上田安世の墓
慎斎とも
文政三年十一月四日

十五代・上田元重の墓
宗源とも
平成六年没

上田元重室、上田宗雄娘墓

上田宗雄室 松枝の墓
昭和二十年二月十三日没

十四代・上田宗雄の墓
宗翁とも
昭和三十六年十一月十八日。

十二代・上田安敦の墓
譲翁、重美とも
明治二十一年十二月二十六日。

◎墓域2
手前から順。

十三代・上田安靖の墓
亀次郎とも。この代に男爵になる。
昭和四十年二月十五日。

九代・上田安虎の遺髪塚
享和二年五月二十五日。

上田安靖室種子の墓
昭和十七年二月十五日

上田安虎室 蓮の墓
墓碑は石柵に囲まれた古木
宝暦十三年

◎墓域3
上田宗箇の墓の奥に室の墓あり。

初代・上田宗箇の墓
重安とも。
慶安三年五月没。子の重政の死去を悲しみ断食しての自害と云う。
遺骨は遺言で砕かれたのち海に流されたため、此処の墓は遺髪塚。
墓標には木が用いられている

上田宗箇室 知徳院の墓
慶安五年六月二十三日

大富山城

広島県庄原市西城町入江にある大富山城

34.921025, 133.111773の分岐を山方面へ進めば城へ至る。
車でも行く事が出来るが、途中が未舗装且つ距離がある為雨天時は注意。
進んでいくと城の説明看板のある広い場所に出ることができる。
城域は看板を挟んで二区画に別れており、
北側は登山道が整備。主郭と取り囲む曲輪が状態能く残る。
南側は細長い曲輪が延び、最後に物見が丸という城域へでる。道は北側より整備されていないが堀切や古い看板もある。

城主は宮氏。
出自は諸説や不明点が多いが、
元は大和国宇陀に居たが、応永六年初代・宮利吉の代に備後久代へ移ってきたと云う。
六代・景友の代には五品嶽城に居て、天文二年七代・高盛の時に大富山城を築いて本拠を移した。
しかし、十一代・広尚の代である天正十八年に、毛利輝元の怒りをかった為、伯耆国日野へ移封。
その後は二代で断絶したと云う。
なお、広尚の弟景幸の系統は毛利家臣として続いた。

登り口。
看板後ろに北側の入口。

途中の曲輪
あやめの段

階段状に三段続く。

北側主郭
祠や石碑あり

城址石碑
題字は浅野長勲

北側主郭周囲。
主郭を取り囲む様に曲輪が伸びる

南側登り口
看板の反対側。

登った先の段

堀切
土塁もある。

堀切先の尾根

さらに進むとごつごつした離れの砦の様な場所に出る。
若干の堀のようなものや曲輪あり

途中の岩場
変成岩の古生層。岩は一部赤色になっており、チャートであると云う。
火打石に使用できるとの事。
これらは2~3億年前の海底に堆積したものと云う。

古天神
大富山は元々丸山としょうしており、天満宮があった。
城の築城にあたり、宮高盛が社を取り除いたところ異変に見舞われた為、
此処へ社殿を再建した。
寛政十年、天満宮は麓に移り丸山天満宮と称した。

物見が丸下の曲輪

物見が丸
南の主郭的な場所

南へ延びている曲輪

能楽寺が丸
かつて此処には能楽寺と云う寺院があった。
宮高盛が久代村にあった菩提寺である能楽寺を移転させたという。
廃城後は廃れかけたが、白翁禅師によって麓へ移転し残っている。

浄久寺、宮氏墓所

広島県庄原市西城町栗にある三峰山浄久寺

曹洞宗。
本尊は聖観世音菩薩。

宮氏七代・宮高盛が大富山城を築城した翌天文三年、
南麓の此処に鼎庵宗梅和尚を開山として建立、のち菩提寺とした。
寺には九代・上総介景盛寿像、山城守藤原盛勝容像、覚海禅師寿像があり、県の重文。
また、境内から少し離れた34.921049, 133.109673に宮氏の墓所がある。

本堂

宮氏墓所
取り囲むように宝篋印塔・五輪塔が並んでいる。
正面側には銘のある物が多くい。
右から四代・六代・五代・三代・二代・初代・九代・十代・八代・銘無・七代・銘無・銘無だと思っている。
間違っているかも。八と十が自身ない。

初代・宮利吉の墓
初?代元祖 明栄 利吉
一番大きい宝篋印塔

二代・宮景英の墓
銘:二代 明廣 景英

三代・宮利成
銘:三代 大用 利成?

四代・宮息成の墓
銘:四代 玄興 息成

五代・宮景行の墓
銘:五代 玄富? 景・・・

六代・宮景友の墓
銘:六代 道儀 景友
五品嶽城に居た代。

七代・宮高盛の墓
銘:七代 英舜 ・・・・
大富山城を築いて本拠を移転させた代。

八代・宮興盛の墓?
銘が読みにくい

九代・宮景盛の墓
側面に景盛の文字。
前面:前賜五品総・・大子・・叟昌英大禪定門如意珠日?

十代・宮智盛の墓?
銘が読めず、消去法で智盛か

後鳥羽天皇陵(作木町)

広島県三次市作木町大山にある後鳥羽天皇陵

意外な場所に意外な物がある。34.830526, 132.761154に入口。

後鳥羽天皇の墓は大原陵であるが、こういう類の人物は伝説が多い。
承久の乱の敗戦後、貞永三年に作木村香淀へ移り、延応元年に死去したと云う。
体は天王山へ葬り、遺骨は川毛に納めた。

墓碑には「後鳥羽院之墓」
右隣にも何かしら銘のある石。
昭和四十四年に整備されたらしく、取り囲む石柵や石段に銘あり。

入口。
道の反対側に看板が建っており目印になる。

反対の看板

神辺城

広島県福山市神辺町にある神辺城

34.537419, 133.385838に駐車場。
城跡は草木が刈られ遊歩道が整備。格曲輪には櫓が置かれていた様で、それぞれ石碑が置かれて判別できる様になっている。
また、付近には歴史民俗資料館もあり、近いため合わせて回ることができる。

建武二年、備後守護の朝山景連が築き、守護所として使用した。
南北朝時代頃からは備後守護の山名氏が入り守護所として使用
嘉吉三年には山名満泰が再築城したと云う。
天文七年に尼子方に付いた山名忠勝が神辺城を占拠した。是に大して大内義隆が杉原理興に神辺城を落とさせた。のち杉原理興は山名理興と名を改め神辺城へ在城。

天文十一年、大内氏の尼子攻め失敗により、国人の寝返りが発生。山名理興も尼子方へ属して安芸へ進軍。よって大内義隆は弘中隆兼・毛利元就らに神辺城を包囲させた。しかし城は容易に落ちず。
以降、神辺城を巡って神辺合戦が続く。天文十六年や翌十七年など攻撃にされされるも城方は攻撃を防いだ。
天文十八年、平賀隆宗が神辺城攻撃を行い、山名理興はついに支えきれず城を捨てて退去した。
代わって神辺城は青景隆著が入る。

弘治元年、山名理興が毛利元就に許されて神辺城へ復帰し、杉原性に復した。
弘治三年に理興が死去、跡を杉原盛重が入る。
永禄六年、伯耆国を跨ぐ様になってからは子の杉原元盛・景盛が入ったが、天正十年に景盛が元盛を殺害し、天正十二年に毛利氏が咎めて景盛が自害。
以降は毛利氏の城となり、国司元相や桂就信が入り、天正十九年には毛利元康が在城。

慶長五年、毛利氏が関ケ原に敗れ防長へ移転すると福島正則領となり、神辺城には福島正澄が入った。
元和五年、福島氏改易。代わって水野勝成領となると神辺城は廃城に。建物は解体され福山城へ移築されたと云う。

駐車場

三番櫓跡

二番櫓の曲輪

乾櫓

二の丸

本丸

石垣の名残?

井戸

荒布櫓

鬼門櫓

郷土資料館

廉塾と菅茶山旧宅

広島県福山市神辺町川北にある廉塾と菅茶山旧宅

34.544377, 133.384751に入口。
右手には駐車場もあり。

菅茶山は神辺出身の漢詩人であり、廉塾は菅茶山が安永四年から開いていた私塾。
のち福山藩郷校となっている。
現在は国の特別史跡として観光地整備。
なお、頼山陽ら文人も来訪しており講義を行った。

雁木付き水路と建物

此処周辺は山陽道の神辺宿。
古い町並みも残っている。

神辺本陣

古志清左衛門豊長の墓

広島県福山市本郷町にある古志清左衛門豊長の墓。

昌源寺にある。
最後の本郷城主。古志氏は南北朝時代頃から此処に居る。
豊長は戦いで武勲を多く挙げていたが、小早川隆景により三原城へ呼ばれた所を殺された。
墓は忠僕の権平法師が建立したと云う。

五輪塔・宝篋印塔

天応院・開應院・春仙院とある墓石

五品嶽城

広島県庄原市東城町東城にある五品嶽城
五本竹城、世直城とも。

34.896374, 133.271114に駐車場。看板もあり。
ここから歩いて世直神社へ向かうと境内に登山口あり。
南東側より曲輪を伝って山頂への道が続き、各郭へは看板が建っている。
主郭は常の丸と云い、奥の天守台側面には石垣が多く残る。

築城したのは宮氏。時期は宮景友の代とも。
天文二年には大富山城を築いて本拠を移転し、渡辺七郎左衛門尉が入った。
以降、大富山城を西城、五品嶽城を東と称す。

天正十八年、毛利氏に属していた宮広尚の代、知行高調査で虚偽申告した事を咎められ、伯耆国日野、または出雲塩谷へ移された。
翌天正十九年には代わって佐波越後守広忠が入る。

天正五年、毛利氏防長移転後は福島正則領となり、長尾隼人一勝が城主に入る。
元和五年、福島正則の改易により廃城に。
なお、長尾一勝の供養塔が千手寺にあり。

麓の駐車場

世直神社
天正十九年、渡辺内蔵が伊勢より勧請と云う。

境内奥の登り口

杉の平
途中分岐で行ける曲輪

カヤの平
土塁もあり。

カヤの平奥
説明看板と井戸あり。

井戸。

ケヤキが平

途中の曲輪
石材が多く残る。


太鼓の平

石垣あり。

主郭
常の丸

天守台

天守台側面の石垣。

長尾隼人の供養塔

広島県庄原市東城町川東にある長尾隼人の供養塔
34.902725, 133.274498にある。
諱は一勝。市重文。

千手寺の墓地内にあり、境内へ登っていく途中、左手に看板と五輪塔が見える。
福島正則家臣。元は伊勢の出身。
福島氏の広島時代に五品嶽城へ入り、一万二百八十二石を領した。
元和四年に死去し広島の国泰寺に葬られたが、子の勝行が此処へ供養塔を建立した。

河野氏残党の墓

広島県三原市八幡町野串にある河野氏残党の墓
豊臣秀吉襲撃に失敗した河野氏の墓。この辺りを残党の峯とも呼ぶと云う。

詳しい場所を残していなかった為うろ覚え。
34.477132, 133.076374の辺りに入り口があったと思う。

また、南の高速道路沿いの道途中にも入る箇所あり。
34.476301, 133.076355付近だったと思う。
こちらは墓所の南側すぐであるため、多少藪で覆われているが一番簡単に行ける。
たまに河野氏墓目当てで大勢人が来るらしく、楽したい方はこちらを使うとの事。

文禄元年、豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋を目指し移動。
途中、御調八幡宮へ参拝する事を知った河野氏の残党らは
八幡宮の藪に潜み、豊臣秀吉を殺害する計画を立てる。
首領は河野通昭(河野通宣の妾子、複数説あり)、兵三百を率いて襲撃する役は河野通軌。

しかし、計画は事前に漏れてしまい、通軌ら河野残党は捕らえられ処刑された。
通昭も数年後に京都芹川で討たれたと云う。

なお、慶長五年に河野家再興を掲げて伊予攻めを行った河野通軌も存在しており、二人の通軌が存在するという問題もあり。

入り口①。
34.477132, 133.076374の付近だったと思う。
水路があり、四本石柱が並べられた橋がある、道なりに登っていくと墓所へ至る。

入口②の付近
34.476301, 133.076355付近
藪で隠れいるが墓所のすぐ背面にあたる。
墓からだとこの辺りが明るく見えるため、近道であることがわかる。

墓石群
宝篋印塔一基、あとは五輪塔。