カテゴリー: 南部氏

清心尼の墓

岩手県遠野市松崎町光興寺にある清心尼の墓

場所は39.340194, 141.518444
道路沿いから墓や碑・看板も見えている。

根城南部氏二十一代当主。
珍しい女性当主。

元は先代南部直政の妻だったが、直政が早死にし跡継ぎもいなかった為当主になる。

清心尼は南部直栄を養子に迎えて家の存続を図るほか、
南部宗家から古巣の八戸から遠野への移封を命じられ、遠野統治の基盤を築いた。

存在がはっきりとした女性当主であって、
直虎が大河になったのだから、そのうち清心尼も大河ドラマ化されるだろうと思う。

新しい墓石。
正面に、
守貞清尼心公 正保元年六月四日卒壽五十有九

鍋倉城

岩手県遠野市遠野町にある鍋倉城

遠野の平野部で川が二股になったエリアの突き出た山上にあった山城。
現在は鍋倉公園になっており城域は歩きやすくなっている。

北麓に館を置き、神社を上がっていくと本丸、東に二の丸が延びている。
南側には二の丸があって、根城・遠野南部氏の墓所になっている。
また、最近になって国指定史跡に昇格したらしい。


遠野阿曽沼氏、次いで遠野南部氏の城。
築城は天正年間。阿曽沼広郷が横田城から本拠を移転させた。

阿曽沼氏は鎌倉時代から遠野を支配した家で、
文治五年の奥州合戦で遠野十二郷を得て横田城を築城して入ったのが始まり。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐へ参陣しなかったが、南部氏に属して生き残る。

しかし、慶長五年の関ケ原の時、
南部氏と共に上杉景勝への供えとして出陣した際、国元で鱒沢広勝・上野広吉・平清水平右衛門が謀叛。当主阿曽沼広長は遠野を奪回するべく伊達政宗の支援も得て戦う。三陸より進み鱒沢広勝を討ち取る等したが敗北。
これにより遠野阿曽沼氏は没落した。

この後遠野は鱒沢・上野・平清水らが安堵されたものの、鱒沢・平清水は切腹、上野は病死。結局遠野は完全に南部氏へ併合された。

寛永四年、南部利直によって、八戸に居た根城南部氏の南部直義を遠野へ移封。
このころの根城南部氏は女性当主の清心尼が居た事で有名。
元は南部直政へ嫁いできたが、直政が子無くして急死。よって自ら家督を継ぎ、破木井南部家から直義(直栄)を養子に迎えて根城南部氏を存続させた。
遠野移転の際にも家中を取りまとめ、遠野の統治も担った。

以降、根城南部氏は遠野南部氏となって明治まで続いている。

南部神社
根城・遠野南部氏の初代・実長から八代・政光を祀る。

登山口

澤里屋敷
重臣澤里氏の屋敷跡。
北側の曲輪の一つ。

工藤屋敷
澤里の南の曲輪。

大手口。
大手は本丸東側。
熊出没の看板があるので注意
なお、看板曰く阿曽沼時代は二層楼門で、
慶長七年に南部利直の命で四つ脚門になったという。

三の丸土塁。

三の丸
中館氏・福田氏の屋敷があったという。

三の丸の櫓風展望台

展望台からは遠野が一望できる

主郭東の虎口
玄関址

主郭
板塀で囲まれていた。
看板曰く、発掘によって石垣や建物の石列が発見されている

八幡址

主郭搦手門
主郭の西側へ抜ける門

主郭北側の付属曲輪
土塁も残っている。

主郭南虎口

主郭・二の丸間の堀切

二の丸
主郭の南側。
新田氏の屋敷があった。

根城・遠野南部氏墓所
二の丸奥に歴代の墓所が置かれている。
堀と石柵で区切られており、内部へ入る事は出来ない。

初代南部実長は南部光行の三男。
八戸根城を拠点として、有力分家の一つだった。
特に知られるのは南部師行で、北畠顕家に従って南北朝時代を戦っている。

清心尼・南部直義の頃に八戸から遠野に来てからは遠野南部氏として続き、
明治中期になって男爵になっている。

左手にある南部実長代々の墓
遠目に見える。根城時代当主

麓の町並み
遠野座や遠野物語館が古い区画を再現している。

麓部分を流れる川。
川が北から東へ流れており、堀の代わりになっていた。

信成堂

岩手県遠野市東舘町にある信成堂

現在家庭裁判所になっている場所。
鍋倉城北麓、遠野博物館前。
入口付近に石碑が建っている。

盛岡藩遠野領の郷校。
嘉永五年、田口圭一郎・工藤謹之祐・江田大之進が遠野南部済賢へ進言し、
嘉永六年、運営費五百石で創設された。
由来は「信以成之」。

訪れて始めて知った為、由緒は詳しく知らず。
石碑には江刺県庁舎ともある。
左手には武田忠一郎の顕彰碑も

石碑

対泉院

岩手県遠野市新町にある対泉院

貴福山。
曹洞宗、大慈寺末。
本尊は釈迦如来。

新田氏の菩提寺。

新田氏(にいだ)は根城南部氏の一族。
根城南部五代・南部政長の次男・政持を初代とした分流。
政持は新田城を与えられ新田氏を称した。
また、弟の信助は中館(八戸城)を与えられ中館氏の祖になった。

さらに根城南部二十一代・清尼心が養子にした南部直義は、元は新田氏の出身である。

寺は新田政持により甲斐に創建され、のち八戸へ移転した。
寛永四年、新田氏より養子に入った南部直義の代に、遠野移転に従い現地へ。
昭和期に火災で寺宝や文書は焼失してしまったという。

境内本堂

大仁王像
圧倒的存在感を放つ。
昭和五十五年の建立で、肩に慈母観音入りの厨子が乗る。

新田氏墓所
入口に看板も建っている。
遠野時代は遠野南部氏の家老を務めた。

福田氏墓所
おなじく家老の福田氏墓所もこの寺にある。

常福寺

岩手県遠野市新町にある常福寺

金円山。時宗。清浄光寺末。
本尊は阿弥陀如来。

根城・遠野南部氏の甲斐時代からの寺院という。
正平二十二年、根城南部氏七代の南部信光が甲斐に西沢山神郷寺を創建。
のち根城への本拠移転で八戸へ移った。
応永十八年、高波が引いた跡から浜に阿弥陀如来と鰐喰いの鉦を見つけ寺宝に。よって海浮山仏浜寺に改めた。

寛永四年、二十二代・南部直義の代の遠野移転にも従い、現地へ移転し現在の寺号になったという。

また、阿弥陀如来と愛宕延命地蔵像は市指定文化財という。

紋は九曜

愛宕延命地蔵尊
遠野市指定文化財。
境内にある、目立つ仏像。隣に説明看板が立つ。
享保二年、豪商両川覚兵衛が小友金山全盛期に愛宕神社へ奉納したという。
明治の神仏分離令によって常福寺へ預けられた。

本堂
正面の向唐破風のすぐ真横に入母屋破風の玄関が並ぶ。

瑞應院

岩手県遠野市大工町にある瑞應院

鳳徳山。
臨済宗妙心寺派。聖寿寺末。
本尊は釈迦如来。

境内が塀で囲まれていないので開放感のある場所にある。

承応二年の創建。
慶安二年に遠野南部直義(栄)の娘お万が死去。聖寿寺へ葬られていた。
しかし澤室和尚を招いて開山として、ここへ改葬した。

明暦四園に山門、宝暦九年に堂宇再興、安永七年拡張、など定期的に手が入って維持されている

本堂
遠野市指定文化財。
字安永七年、七世関堂和尚の代の拡張時のもの。
本堂欄間部分の龍と天女は創建のものという。

内部にはうぐいす張り、書院造りのおなりの間、隠れ廊下等があるとの事。
寺紋は九曜。

天女と龍は是のことだろうか

善明寺

岩手県遠野市大工町にある善明寺

金光山。
浄土宗。
本尊は阿弥陀如来で平安期の作、市指定文化財。

平安末期、養安上人によって松崎へ養安寺として開山した寺院。
法然の直弟子金上上人の開基という。

なお、 善明寺自体は八戸に文禄元年善明上人による開山の寺院。
根城・遠野南部氏が遠野移転に当たり、養安寺と善明寺が合併し。
さらに延宝七年に現在地へ移転した。

本堂

五輪塔
境内に覆屋付で置かれている。
遠野市指定有形文化財。
鎌倉期の作という。

東禅寺跡、南部守行・無尽妙什の墓

岩手県遠野市附馬牛町東禅寺にある東禅寺跡

遠野市指定文化財。

39.388306, 141.477806にある。
山奥だが綺麗な車道は通っている。
ここには南部守行や無尽妙什の墓もある。

無尽妙什は寺跡少し南の39.387500, 141.477056、
南部守行は北にそこそこ離れた39.391639, 141.479778にある。
いずれも道路から見える。

開基は無尽妙什というが、
創建は宝治元年、建武年間、嘉慶二年、永徳二年等広範囲に説が散らばる。
宗派も臨済宗とも真言宗とも。

昭和三十三・三十四年に調査が行われ、伽藍の跡が発見された。

東禅寺標柱のある段

削平地

奥に鐘楼跡の標柱

法堂跡の標柱

奥に残っている堂

開山水
早池峰権現が無尽への礼として、山頂の妙泉開慶水を分け与えたものとの事

無尽妙什の墓
墓碑は尖った自然石を木柵で囲んだもの。
墓前に標柱があり、
建武二年大宝山東禅寺を創建し、至徳三年に百二十歳で死んだという。
墓は開山塔と呼ばれた。

南部守行の墓入口
寺跡から更に北へ進んでいくと左手にある。
自然石がいくつか転がっているのが目印。
かつては標柱も建っていた写真を見たが、今は失われている

南部守行の墓
南部氏十三代。南部政行の子。
守行の代から情報が増える。

南部氏の家紋である南部鶴が使用されたのは守行の代からという。
応永十八年、安東氏と戦った際、軍に加わっていた根城南部光経が夢の中で鶴が二羽舞えば勝利するというお告げを得た。よって紙で鶴を二羽折って士気を高めた。
さらに旅僧から安東軍の攻撃情報を得て、出陣前に二羽の鶴が現れますます士気も上がる。
戦いにも勝利して家紋を南部鶴としたという。

永享九年、岳浜太郎が大槌孫三郎と共に遠野の阿曽沼氏を攻撃。
阿曽沼秀氏の要請で南部守行も出陣した。
南部軍は劣勢になるも奇襲で岳浜太郎を討ち取り、阿曽沼氏と共に大槌城を攻めたが守行は矢に当たって戦死した。

手前の自然石墓
守行両サイドに小さな自然石墓がある。
家臣の墓?

高水寺城

岩手県紫波郡紫波町二日町古舘にある高水寺城

城山公園として整備され、山上・麓ともに駐車場が設けられている。
車ならば訪れるの事が極めて楽。

山頂の本丸を中心に、各曲輪が四方へ階段状に延びている。
南には二の丸、北の広い曲輪は駐車場として使用されている。


城主は高水寺斯波氏。
築城は建武二年、斯波高経の子である斯波家長が奥州管領として下向したのが始まり。
戦国時代には斯波御所と称される。また一族を雫石や猪去へ一族を配し、それぞれ御所と呼ばれている。

天正年間の斯波氏と南部氏が和睦、この時九戸政実の弟吉兵衛が人質として斯波氏との娘と結婚。
この時から斯波詮真へ属して高田吉兵衛(のち中野康実)と名乗った。
しかし、高田橋の工事を任された際、詮真のお気に入りである源蔵による無礼があり、吉兵衛の家臣に殺されてしまった。
詮真に追手が出されたが、北上川を渡って南部領へ戻った。これによって南部氏との和睦は破談になる。

吉兵衛は中野館へ入り中野氏を称し、斯波方の調略し始める。
天正十六年、斯波家臣の岩清水氏で兄弟間の争いがあり、岩清水義教が南部氏に通じ、兄の岩清水義長が攻撃。しかし義長は策に嵌って失敗。
その間に中野軍が斯波領を攻め、南部信直も出陣し高水寺城を攻撃。
これに斯波詮直は敗れてしまい、高水寺斯波氏は滅亡。

南部領になると、郡山城と改め中野吉兵衛が城代になった。
寛文七年に廃城、古材は盛岡城へ転用という。

北側の駐車場曲輪
第三駐車場

駐車場曲輪の先。
階段状になっており、先端部分に姫御殿という広い曲輪。

第二駐車場の曲輪
第三と比べて小さい。

第一駐車場の曲輪

主郭部
木々が少ないため、一周してここから各曲輪を確認するのも良い。

愛宕神社
主郭にある神社。
看板で愛の神社。
祭神は将軍地蔵尊。例祭日は春桜祭日という。

城跡の石碑と公園看板。

南西の曲輪

南東側の曲輪
平和塔等がある。
この先に二の丸があるそうだが、訪れた当時見逃した。

聖壽寺、盛岡藩南部氏墓所

岩手県盛岡市北山にある聖壽寺

大光山、臨済宗妙心寺派
南部氏の菩提寺。盛岡五山。
元は三戸にあった寺院であり、二代・南部実光が初代光行の菩提寺として創建したのが始まり。
慶長四年、盛岡が新拠点として決まると此処へ移転した。

境内入ったところに境内図があり、墓所の配置が判る。
且つ、墓域にも石碑・写真付き看板もあって、判りやすく整備されている。

江戸時代以降の内、ここに無い利直ら数代は東禅寺、利恭・利祥は東京護国寺。
なお江戸以前の当主四名の光行・祐政・信長・政行の墓も此処にある。

そのほか、戊辰戦争時の家老楢山佐渡の墓もある。

千体地蔵堂
南部利敬が建立した五重塔跡という

稲荷もある。
神社側の由緒を確認し損ねた。

社殿

以下、歴代順の南部氏墓。

初代・南部光行の墓。
南部氏の祖。加賀美遠光の子であり甲斐源氏の出身。
甲斐南部を与えられて南部氏を称した
陸奥との縁は、文治五年の奥州合戦の功で糠部五郡を賜った事に始まるが、陸奥入りの時期については諸説ある。
三戸の平良ヶ崎城由緒等では、建久二年頃とも。
死去は建久三年に鎌倉での事。

九代・南部祐政の墓
あいまいな時期の当主。
南部系譜で健治元年~元応二年の人物で、先代政連の兄弟で、先々代・宗行の子。
嫡家系譜では義行の兄弟で義元の子と云う。

十一代・南部信長の墓
南部義行の子。
嘉元三年~興国元年。
義行の子で、茂時の弟とういうのは一致しているが、嫡家系譜では八代当主。

先代茂時が鎌倉方として元弘の乱で敗れ自害し跡を継いでいる。
その後奥州へ戻りるが、系図によって事績が異なり、嫡家系譜で北朝方、南部系譜では南朝方の師行の行動と同じになっていると云う。

十二代・南部政行の墓
南部信長の子。
系図によって北朝・南朝異なる。
政行の代まで南部氏は不明瞭な事が多いが、次の南部守行の代ごろから情報が増える。

二十八代・南部重直の墓
南部利直の子。
兄の経直が早世、政直が花巻で殺されていたため、順番が回ってくる。
利直の跡を継いだものの、暴君としての話が多い。
家臣の改易や百姓殺害、
遊女に現を抜かして連れ帰ったが、参勤に同行させたあげく喧嘩し、参勤遅延を発生させる、
跡継ぎを決めずに死んだ事で存続危機になり、無用の出費が出る等、よろしく無い話が多い。

寛文四年没。

二十九代・南部重信の墓
南部利直の五男。重直の弟。
重直と異なり名君と呼ばれた。
浪費せず倹約や家臣俸禄増加に務めたり、進言を受け入れたり、洪水対策、北上川船橋等、事績が多い。

天和二年、徳川家綱三回忌において、雨が降っているにも関わらず、従五位以下は傘がさせない決まりだった。大名の多くがずぶぬれになる中、重信は「飛びかねて上野の池の五月雨に 身の毛も薄き五位の濡鷺」と詠んだ。
これを同じ境遇の大名が褒め、徳川綱吉の耳にも入って、翌年に従四位下に昇進した。

また、寛文四年に南部直房に二万石を分知して八戸藩が創設された。これを以て盛岡藩は八万石になったが、幕府が失った二万石を加増するという余計な事をした為、十万石にもどってしまった。

元禄十五年没。

三十代・南部行信の墓
南部重信の子。
先代と異なり行信の代は悪い話が多い。
浪費が激しく評判も悪く、財政難時に力士を抱えた事、
さらに飢饉や金山枯渇で藩内が困窮した。

一方で八幡町に五百石を投資して繁盛させた話もあった。
元禄十五年十月没。隠居の重信の死の六か月後の事。

なお、キリシタンで処刑された岩井与一郎の娘蓮子が寺へ供養を依頼。
是を知った行信は蓮子を側室とし、次代の信恩が生まれた話もある。

三十二代・南部利幹の墓
南部行信の子。
先代信恩は兄であり、信恩の死去時点で子が居なかった為に跡を継いだ。
利幹の代はかねてよりの財政困窮や普請やらで苦慮し、課税と借金で金を集め、節約することで凌いだ。

享保十年没。
利幹の跡を信恩の死後に生まれた子である利視が継いだ。
以降、信恩系と信幹系が家督を継承し会う。

三十三代・南部利視の墓
南部信恩の子。
信恩死去後に生まれたため、叔父の利幹が継いでいたが家督を譲られた。
当初は家老中野吉兵衛らが政務を担っていたが、倹約令を廃止し遊行によって財政が悪化。
洪水・不作・新税等でも恨みを買う。
途中で過ちをただし政務を執り、倹約や仙台との国交等、目安箱、新田開発等を実施し成果をあげたという。
宝暦三年没。

三十四代・南部利雄の墓
南部利幹の子。
信恩系の利視から跡継ぎに定められた。
家臣にそうしろとばかり答えた為、総四郎様とも呼ばれた。
利雄の代も盛岡藩は困窮を極め、宝暦五年には飢饉も発生し六万人の餓死者を出した。

安永七年没。
利雄の跡は嫡子の利謹の予定だったが、幕府内での出世を独自に試みていた。
田名部を差し出す代わりに事で待遇向上を手続きしていたが、藩の知る所となり揉み消しの上、着廃。
代わって、信恩系の利視の子・である利正が継ぐことになった。

三十六代・南部利敬の墓
南部利正の子。
利敬もまた財政に苦しみ、増税もしたが一揆も置きた。
蝦夷警備をたびたび命ぜられた為、十万石の加増があって二十万石になった。

文政三年に死去し、利恩系の代としては最後。

三十八代・南部利済の墓
南部利謹の子。
利謹はかつて廃嫡された人物。先代利用の遺言で跡を継ぎ、利幹系の血筋に戻った。
利済の代にも代わらず財政難に苦しむ。
課税やら、天保飢饉の際に贅沢して恨まれ一揆が起きるやら、弘化四年には三閉伊一揆が起きる等、民を苦しめ藩政をかき乱す様な事績が多い。

跡を継いだ利義とも中が悪く、利義へ家督を譲った後も院政を敷いた挙句引きずり下ろした。
一時藩が二分する騒ぎになった。ここに追加で一揆も発生し、幕府から蟄居を命ぜられ、その最中の安政二年に死んだ。

蟄居中の死去だったため、暫く葬儀や墓石建立ができなかったらしいが、のち許可がおりたという。

四十代・南部利剛の墓
南部利済の子。先代の利義は兄。
利義が家督を引きずり降ろされ、利剛が継いだ後も利済の院政が続く。
その結果一揆となり、利済・利義が退場し利剛体制に代わる。

戊辰戦争期には奥羽越列藩同盟に参加。
藩内は勤皇色が多かったものの、楢山佐渡が是を抑えて新政府軍と戦う事になった。
秋田戦争では大館城を落とし勢いに乗って居たが、途中より劣勢になり、会津も陥落した為に降伏。
戦後の処理で盛岡二十万石から白石十三万石減俸転封となった。

のち明治二十九年没。墓は東京護国寺にもある。

四十三代・南部利淳の墓
四十四代・南部利英の墓
地図看板曰く、石碑群近くの南部家廟所内という。

楢山佐渡の墓
盛岡藩南部氏家老。五座衛門、隆吉。
幕末期には京にて情勢を伺い、戊辰戦争時には旧幕府方として藩論を合わせた。
戊辰戦争の敗戦後、責任を問われ明治二年六月二十三日に処刑された。

横山省三の墓
旧盛岡藩士出身。
数度改名し、横川省三になったのは明治三十四年。
明治期は自由民権運動家になるが、加波山事件で投獄。
のち記者等をやっていた。

明治三十七年、日露戦争にあたり満州へ入ったところ、ロシア軍に捕らえられ処刑された。