岩手県盛岡市北山にある聖壽寺
大光山、臨済宗妙心寺派
南部氏の菩提寺。盛岡五山。
元は三戸にあった寺院であり、二代・南部実光が初代光行の菩提寺として創建したのが始まり。
慶長四年、盛岡が新拠点として決まると此処へ移転した。
境内入ったところに境内図があり、墓所の配置が判る。
且つ、墓域にも石碑・写真付き看板もあって、判りやすく整備されている。
江戸時代以降の内、ここに無い利直ら数代は東禅寺、利恭・利祥は東京護国寺。
なお江戸以前の当主四名の光行・祐政・信長・政行の墓も此処にある。
そのほか、戊辰戦争時の家老楢山佐渡の墓もある。
千体地蔵堂
南部利敬が建立した五重塔跡という
稲荷もある。
神社側の由緒を確認し損ねた。
社殿
以下、歴代順の南部氏墓。
初代・南部光行の墓。
南部氏の祖。加賀美遠光の子であり甲斐源氏の出身。
甲斐南部を与えられて南部氏を称した
陸奥との縁は、文治五年の奥州合戦の功で糠部五郡を賜った事に始まるが、陸奥入りの時期については諸説ある。
三戸の平良ヶ崎城由緒等では、建久二年頃とも。
死去は建久三年に鎌倉での事。
九代・南部祐政の墓
あいまいな時期の当主。
南部系譜で健治元年~元応二年の人物で、先代政連の兄弟で、先々代・宗行の子。
嫡家系譜では義行の兄弟で義元の子と云う。
十一代・南部信長の墓
南部義行の子。
嘉元三年~興国元年。
義行の子で、茂時の弟とういうのは一致しているが、嫡家系譜では八代当主。
先代茂時が鎌倉方として元弘の乱で敗れ自害し跡を継いでいる。
その後奥州へ戻りるが、系図によって事績が異なり、嫡家系譜で北朝方、南部系譜では南朝方の師行の行動と同じになっていると云う。
十二代・南部政行の墓
南部信長の子。
系図によって北朝・南朝異なる。
政行の代まで南部氏は不明瞭な事が多いが、次の南部守行の代ごろから情報が増える。
二十八代・南部重直の墓
南部利直の子。
兄の経直が早世、政直が花巻で殺されていたため、順番が回ってくる。
利直の跡を継いだものの、暴君としての話が多い。
家臣の改易や百姓殺害、
遊女に現を抜かして連れ帰ったが、参勤に同行させたあげく喧嘩し、参勤遅延を発生させる、
跡継ぎを決めずに死んだ事で存続危機になり、無用の出費が出る等、よろしく無い話が多い。
寛文四年没。
二十九代・南部重信の墓
南部利直の五男。重直の弟。
重直と異なり名君と呼ばれた。
浪費せず倹約や家臣俸禄増加に務めたり、進言を受け入れたり、洪水対策、北上川船橋等、事績が多い。
天和二年、徳川家綱三回忌において、雨が降っているにも関わらず、従五位以下は傘がさせない決まりだった。大名の多くがずぶぬれになる中、重信は「飛びかねて上野の池の五月雨に 身の毛も薄き五位の濡鷺」と詠んだ。
これを同じ境遇の大名が褒め、徳川綱吉の耳にも入って、翌年に従四位下に昇進した。
また、寛文四年に南部直房に二万石を分知して八戸藩が創設された。これを以て盛岡藩は八万石になったが、幕府が失った二万石を加増するという余計な事をした為、十万石にもどってしまった。
元禄十五年没。
三十代・南部行信の墓
南部重信の子。
先代と異なり行信の代は悪い話が多い。
浪費が激しく評判も悪く、財政難時に力士を抱えた事、
さらに飢饉や金山枯渇で藩内が困窮した。
一方で八幡町に五百石を投資して繁盛させた話もあった。
元禄十五年十月没。隠居の重信の死の六か月後の事。
なお、キリシタンで処刑された岩井与一郎の娘蓮子が寺へ供養を依頼。
是を知った行信は蓮子を側室とし、次代の信恩が生まれた話もある。
三十二代・南部利幹の墓
南部行信の子。
先代信恩は兄であり、信恩の死去時点で子が居なかった為に跡を継いだ。
利幹の代はかねてよりの財政困窮や普請やらで苦慮し、課税と借金で金を集め、節約することで凌いだ。
享保十年没。
利幹の跡を信恩の死後に生まれた子である利視が継いだ。
以降、信恩系と信幹系が家督を継承し会う。
三十三代・南部利視の墓
南部信恩の子。
信恩死去後に生まれたため、叔父の利幹が継いでいたが家督を譲られた。
当初は家老中野吉兵衛らが政務を担っていたが、倹約令を廃止し遊行によって財政が悪化。
洪水・不作・新税等でも恨みを買う。
途中で過ちをただし政務を執り、倹約や仙台との国交等、目安箱、新田開発等を実施し成果をあげたという。
宝暦三年没。
三十四代・南部利雄の墓
南部利幹の子。
信恩系の利視から跡継ぎに定められた。
家臣にそうしろとばかり答えた為、総四郎様とも呼ばれた。
利雄の代も盛岡藩は困窮を極め、宝暦五年には飢饉も発生し六万人の餓死者を出した。
安永七年没。
利雄の跡は嫡子の利謹の予定だったが、幕府内での出世を独自に試みていた。
田名部を差し出す代わりに事で待遇向上を手続きしていたが、藩の知る所となり揉み消しの上、着廃。
代わって、信恩系の利視の子・である利正が継ぐことになった。
三十六代・南部利敬の墓
南部利正の子。
利敬もまた財政に苦しみ、増税もしたが一揆も置きた。
蝦夷警備をたびたび命ぜられた為、十万石の加増があって二十万石になった。
文政三年に死去し、利恩系の代としては最後。
三十八代・南部利済の墓
南部利謹の子。
利謹はかつて廃嫡された人物。先代利用の遺言で跡を継ぎ、利幹系の血筋に戻った。
利済の代にも代わらず財政難に苦しむ。
課税やら、天保飢饉の際に贅沢して恨まれ一揆が起きるやら、弘化四年には三閉伊一揆が起きる等、民を苦しめ藩政をかき乱す様な事績が多い。
跡を継いだ利義とも中が悪く、利義へ家督を譲った後も院政を敷いた挙句引きずり下ろした。
一時藩が二分する騒ぎになった。ここに追加で一揆も発生し、幕府から蟄居を命ぜられ、その最中の安政二年に死んだ。
蟄居中の死去だったため、暫く葬儀や墓石建立ができなかったらしいが、のち許可がおりたという。
四十代・南部利剛の墓
南部利済の子。先代の利義は兄。
利義が家督を引きずり降ろされ、利剛が継いだ後も利済の院政が続く。
その結果一揆となり、利済・利義が退場し利剛体制に代わる。
戊辰戦争期には奥羽越列藩同盟に参加。
藩内は勤皇色が多かったものの、楢山佐渡が是を抑えて新政府軍と戦う事になった。
秋田戦争では大館城を落とし勢いに乗って居たが、途中より劣勢になり、会津も陥落した為に降伏。
戦後の処理で盛岡二十万石から白石十三万石減俸転封となった。
のち明治二十九年没。墓は東京護国寺にもある。
四十三代・南部利淳の墓
四十四代・南部利英の墓
地図看板曰く、石碑群近くの南部家廟所内という。
楢山佐渡の墓
盛岡藩南部氏家老。五座衛門、隆吉。
幕末期には京にて情勢を伺い、戊辰戦争時には旧幕府方として藩論を合わせた。
戊辰戦争の敗戦後、責任を問われ明治二年六月二十三日に処刑された。
横山省三の墓
旧盛岡藩士出身。
数度改名し、横川省三になったのは明治三十四年。
明治期は自由民権運動家になるが、加波山事件で投獄。
のち記者等をやっていた。
明治三十七年、日露戦争にあたり満州へ入ったところ、ロシア軍に捕らえられ処刑された。