カテゴリー: 宮崎県

飯野城

宮崎県えびの市原田にある飯野城
32.053610, 130.868658に入口。
駐車場もあり。
南の大手口を進んでいくと射場へ出る。この辺りに駐車場有。
そこから西に本丸、東に二の丸、北に三の丸と囲まれている。
整備されているのは本丸と射場のみであり、二の丸・三の丸は適当に這い上がる必要がある。

現地看板によると永暦元年に日下部重貞が入城したと云う。
大系では建久年間には真幸太郎兼幸(日下部氏)が在城したと云う。
日下部氏の子孫は北原氏となり、飯野城も北原氏の城だった。

永禄五年に北原氏が滅ぶと、
永禄七年に島津義弘の居城として使用された。三十歳から五十六歳まで使用したという。
天正十五年には義弘の子である島津久保が入ったが文禄の役で病死。
天正十八年には義弘も松尾城へ移る。

元和元年に一国一城令で廃城に。

大手門

射場・駐車場
三方曲輪に囲まれている。

搦手門跡

本丸
発掘調査はわずかな箇所しか実施されていないという。

本丸虎口

物見曲輪

桝形
若干へこんでいる。

二の丸麓から

二の丸堀切

二の丸南の曲輪

二の丸の曲輪
適当な処から這い上がる。

三の丸麓から。
日没のため上がらず。しかし上がれない事はない。

志和池城

宮崎県都城市上水流町にある志和池城

墓地があるため、31.802997, 131.096968まで車道が通り簡単に上がることができる。
城は看板曰く本丸・二の丸・西栫・新城・小城の五区画からなる城
大半が宅地化により消滅した様だが、今回未訪の新城は遺構が多いという。
また、北の新城と此処を挟んだ宅地化部分には遺構があった箇所に標柱が建っている。

築城時期は不祥ながら、永享四年頃には築城されていたという。
天文十二年、北原氏の城だったが、北郷忠相が落城させた。
慶長四年の庄内の乱では伊集院方の十二外城となったが、慶長五年に島津氏により落城。

以降島津方の城となって、元和元年の一国一城令で廃城に。

主郭
説明看板あり

城からの眺め

荒神と書かれていた高台

中の城

野々美谷城

宮崎県都城市野々美谷町にある野々美谷城。
31.788181, 131.077005に入口。
神社・畑化している。
31.788400, 131.076192にも城の看板がある。
看板からは堀見え、主郭以外は此処から回れそうだが、場所的に控えた。
主郭以外は諏訪城・西丸二区画・八幡城・石垣城・倉持城・内城・尾崎城・取添城からの十箇所からなる城。

正平七年、北郷資忠が入った頃の地区王という。
その後相良氏が野々美谷城を奪い相良前賴が入ったという。
応永元年、島津元久と北郷義久が野々美谷城を攻めて取り戻し、樺山音久を城主に入れた。

大永元年、樺山長久の代、長久は大隅小浜へ移ったため、北郷尚久が代わりに城主となった。

大永三年、伊東尹祐が北原久兼と共に野々美谷城を攻撃。
城主北郷尚久はこの戦いで戦死、伊東尹祐も戦いで頓死。
その後、北郷氏と伊東氏は講和し、野々美谷城も伊東氏へ譲ったが、
天文元年、北郷氏は北原氏・島津氏と共に城を攻め落とし、北原氏の城となった。
天文十一年、北郷忠相が野々美城を攻め、再び北郷氏の手に戻る。城には北郷久紹が入った。

のち豊臣の頃に北郷氏に代わって伊集院忠棟領となり、忠棟殺害による庄内の乱が起こる。この時、は有屋田大炊左衛門らが在城したが、島津忠恒により攻め落とされた。
その後は北郷氏が復帰し、北郷忠能が入る。

元和元年、一国一城令で廃城に。

看板奥の堀。

東側の堀?

主郭入口

主郭
広場になっている。

諏訪神社

安永城

宮崎県都城市庄内町にある安永城
31.774044, 131.015245に駐車場。
公園化しているので回ることは容易。
城跡は主に本丸・二の丸・取添・金石の四つからなる城跡。
公園化しているのは本丸域のでみ、他は畑や企業敷地化している。

北郷氏による築城という。持久代とも、応仁二年に敏久の代とも。
北郷数久の隠居地や、北郷時久の代に嫡男相久が在城するなど、北郷氏の重要拠点として使用された。
文禄四年、北郷氏が祁答院へ移され、伊集院忠棟領となったが、慶長四年に忠棟が殺された事を発端とした庄内の乱では伊集院方の十二外城のひとつとなり、伊集院五兵衛と軍師白井永仙が在城下という。

のち元和元年の一国一城令で廃城に。
しかし、北東側麓には地頭仮屋が置かれ麓として使用された。

駐車場

本丸奥
忠霊碑あり。

本丸虎口?

虎口を通り東へ降りる道
曲輪が点在。

安永地頭仮屋

本丸北西側の堀

北西側曲輪

北郷資忠の墓

宮崎県都城市庄内町にある北郷資忠の墓
31.777008, 131.020039にある。
豊幡神社境内にある。
南側に入口。または北東側に広い入口。

北郷資忠は北郷氏・都城島津氏の初代。
資忠は宗家四代・島津忠宗の六男。南北朝時代に北郷を賜り、北郷氏を称した。
墓は二基あり資忠夫婦の墓という。

此処はかつて山久院という寺院があり、北郷資忠の菩提寺だった。
当初は山田町古江薩摩迫にあったが現地に移転したという。

資忠の墓
石柵で囲まれた五輪二基。

側にはパーツが欠けた五輪塔が並ぶ。

豊幡神社
元々は野々美谷城にあったが、
明応九年に七代・北郷数久により安原権現末社として現地へ移転した。

櫛間城

宮崎県串間市西方にある櫛間城
31.478402, 131.238010の辺りを中心に広がる。
大部分が企業敷地や畑となっているが、西林院側に堀切あり。
城跡へは企業敷地側からは難しい。
西林院側からなら遺構が側にあるため確認しやすいが、行動拠点が無いため動きにくい。
この他の西林院北の広い畑地も曲輪の一つという。

元は櫛間院地頭の野辺盛忠が拠った城という。
盛忠は南朝方に属し、盛房・盛久・盛仁と続いた。
盛仁の代、足利義満の子である義昭を庇護した為に滅ぶ。
その後は島津氏の城となっていた。

天正十五年には筑前秋月より秋月種長が移り、慶長九年に高鍋へ移るまで在城していた。

西林院側の堀切

西林院・秋月氏墓所

宮崎県串間市西方の西林院。
臨済宗相国寺派
31.481463, 131.236330から寺への分岐。
細いが車道もある。

秋月氏は元々朝倉に居たが、秋月種実・種長の代に豊臣軍と戦い降伏。
存続はかなったが天正十五年に日向へ移ることになった。
すぐ側には櫛間城があり種長が入り、種実は金谷城へ入った。

慶長元年、秋月種実が死去。
種長は此処へ西林院を建立して菩提寺とした。

秋月氏墓所
宝篋印塔三基が並ぶ。
右から種実・種実五男の種守・種実室

秋月種実の墓
秋月氏十六代。
大友氏との戦いで事績が多い。
天正十五年、島津氏とともに豊臣軍とたたかったが降伏。
慶長元年に死去した。

秋月種守の墓
種実の五男という。
慶長十年死去。

種実室の墓
慶長五年死去。

周囲には同時代の宝篋印塔等あり。

南郷城

宮崎県日南市南郷町中村にある南郷城
31.551065, 131.371706の南郷城公園にある。
城域は私有地であるが、広く知ってもらうため公園として整備・開放しているようだ。
車で主郭まで上がることができ、自動販売機まである。

整備された主郭を中心に小さな腰曲輪らしき箇所が点在。
南側を中心に石垣が残っている。

南郷城は伊東氏の城。
慶長五年に宮崎城を回復した伊東氏が島津氏に対する備えとして築城した。
のち元和元年の一国一城令で廃城。

主郭

自販機と駐車場

主郭土塁

城からの眺め。
入口に展望公園とあり、頗る景観が良い。

南東側面の石垣

東の腰曲輪?

西の主郭虎口石垣

南西腰曲輪

南西隅石垣

南石垣と虎口

主郭中央には一段高い箇所
櫓台?

倉岡城・倉岡神社

宮崎県宮崎市糸原にある倉岡城
慶長五年以降は池尻城とも呼ばれた。

規模は大きく、北の旗縣松城・中の大城・南の大森城からなる。
北側は倉岡神社から堀切へ繋がっている。
南側は城を分断するように道がついており、その側から上がることができる。

応永七年、島津久豊による築城。
のち久豊の没後は伊東氏の城となり伊東四十八城の一つ。
永禄年間には野村壱岐守が在城したが、
天正五年に伊東氏が日向を追われると、島津方の吉利山城守久金が入った。

慶長五年関ヶ原の頃、丹生備前守がこの城を守っており、徳川方に属した伊東氏が倉岡を攻めたが撃退。
十二月十四日には伊東軍が糸原村へ火を放ちに来たがこれも撃退。
慶長六年正月七日、伊東軍が穆佐の兵を破り、倉岡へ逃げる兵を追って大淀川を渡ろうとした際には、倉岡城から大砲で攻撃して撃退。

同年正月十七日、伊東軍の将である川崎某が倉岡城を攻撃。
この時、倉岡城へ一首歌が城内へ射込まれ、
「朝夕に 芋を拾いて倉岡の 下の川原に やがて煮うる」とあったため、
返歌として
「帯切れて 伊東が家は くずれ桶 汲めど溜まらぬ 川崎の水」
と返した話が知られる。
のちこの戦闘は五月ごろまで続いたという。

その後は元和元年の一国一城令で廃城となるも、
丹生氏が倉岡郷地頭としてそのまま続き、備前守から二十四代続いたという。

倉岡神社
島津氏初代・忠久が正治二年に創建したという。
天和三年、島津光久の代に倉岡郷鎮守として再建。
明治四年、周囲の神社を合祀。倉岡神社と改称したのはこの時とい云う。
明治三十九年に郷社
現本殿は明治八年、拝殿は昭和三十四年改築という。

旗縣松城南・大城北の堀切。
倉岡神社境内から続いている。

旗縣松城

大城
一応道はあるのだが竹で阻まれ苦労する。
中央に位置する最も大きな曲輪

大城西側の堀と土塁

城域を分断する箇所。
倉岡神社西の道を南に進んでいけば、看板と標柱の場所へ出られる。

出た先の広い曲輪

谷村計介像
東から回り込んだ先にある。
看板も出ているのでここは判りやすい
谷村計介は倉岡郷士出身。
明治以降は熊本鎮台に属し、士族反乱等に従軍。
明治十年、西南戦争で西郷軍に熊本城が包囲されると、救援の使者として選抜。
包囲を搔い潜りその役目を全うした。
のち田原坂の戦いで戦死という。

大森城入り口

大森城
川崎と丹生の歌の話の看板もある。

塩見城

宮崎県日向市塩見にある塩見城
32.416495, 131.605763に道がある。
車でも上がれるが、狭く荒れている場合もあるので注意。
少し東に説明看板もあり。
登っていくと東曲輪へ出る。隣の主郭を中心に南西側曲輪、北曲輪がある。

伊東氏四十八城の一つ。
南北朝期に土持氏が築城と云う。

のち綾民部左衛門義恒が在城。
天正年間には右松四郎左衛門尉が在城。右松氏は伊東祐重の弟を祖とすると云う。
天正五年に伊東氏が日向を追われると、変わって島津氏に属する吉利下総守忠澄・忠張が入った。

なお、本丸の石碑によると、
右松四郎左衛門祐春と旧城主綾筑後守恒長の弟助衛門義政は天正六年の耳川の戦いで戦死したという。
のち元和元年に一国一城令で廃城。

舗装路終点

東曲輪

東曲輪虎口

主郭

古墓群あり。
所縁の墓か何か?

南西側虎口

南西曲輪

主郭北側

北曲輪
端に土塁あり。