カテゴリー: 鹿児島県

木崎原古戦場跡

宮崎県えびの市池島にある木崎原古戦場跡。
元亀三年五月に行われた伊東氏と島津氏の激戦地。
32.039536, 130.830597この辺りが史跡公園となっている。
加久藤城を落とせなかった伊東軍がこの場所の鳥越城の軍と合流。再び島津軍と戦いとなった際、有名な島津の釣り野伏にかかり敗北した。
たが両軍ともに死傷が多く島津側も痛手を被った。

三角田
島津義弘と伊東祐信が戦い一騎打ちの末に島津義弘が勝利した。
さらに義弘を撤退させるため、家臣六名が此処で戦死。

六地地蔵。
木崎原での戦死者を供養する為に島津氏が建てた供養塔。

鹿児島神宮

鹿児島県霧島市隼人町内にある鹿児島神宮。
大隅国一宮
創始は神武天皇の頃と伝えられ、大隅正八幡とも称し全国正八幡の本宮。
宝暦六年に島津重豪によって本殿が再建され、有形文化財指定となる。
拝殿・勅使殿も同様に文化財指定を受けた。

駐車場は数も広さもあり楽に参拝できるはずが、
訪れた当日(平成三十年夏)は祭の日であり人でごった返していた。
駐車場も埋まっておりたまたま空いた箇所に停めて急いで参拝することに。
参拝する際には祭日のチェックをしておいたほうが良い。

島津氏久の墓

鹿児島県志布志市志布志町志布志の島津氏久の墓
31.476794, 131.100424ここに入口。

この場所は大慈寺の塔頭で即心院という寺院のあった場所。
六代・島津氏久が大隅に入った際、香花所として建立した。近世にも島津歴代の庇護を受けたが廃仏毀釈で廃寺に。

境内にあった島津氏久と夫人の墓だけは破壊を免れ残った。

入口

頴娃地頭仮屋

鹿児島県南九州市頴娃町郡にある頴娃麓の地頭仮屋。
頴娃歴史民俗資料館の前に石碑と説明看板がある。

頴娃氏が他所へ移されてから、戦国末期には伊集院氏が入り頴娃小学校の場所に屋敷を建てたが、江戸時代からは島津氏の支配地となり此処へ地頭仮屋が置かれた。

此処の案内板に周辺の史跡地図がある。あちこち回る前に此処で情報収集するのも良い。

證恩寺跡

鹿児島県南九州市頴娃町郡の證恩寺跡。
31.234779, 130.503279にある。
現在は仁王像や五輪塔、その他一般墓地が残るのみ。
島津宗家八代・島津久豊による創建の寺院。明治二年の廃仏毀釈で廃寺に。
また、頴娃氏の御家騒動である證恩寺崩れの舞台となった場所、

五輪塔

仁王像

頴娃氏墓所(大通寺跡)

鹿児島県南九州市頴娃町郡にある頴娃氏の墓所。
元々は頴娃兼政によって建てられた大通寺と云う寺院のあった場所で、
中世の墓石が十四基残っている。
場所は此処で31.236941, 130.507651、大通寺公園となっている。

頴娃氏の宝篋印塔。
前列左が頴娃兼堅室(齢峯妙椿大師)、右が四代・頴娃兼洪(顕翁源忠居士)
後列左が五代・頴娃兼友(徳崇了政公居士)、中央が兼洪室(齢泉妙壽大姉)、右が七代・頴娃久虎(桂岳林昌居士)

住職の墓石群

頴娃兼有の墓(九郎塚)

鹿児島県指宿市開聞十町にある頴娃九郎兼有の墓。
九郎塚と呼ばれており、場所は此処31.207549, 130.536436の繁みの中にある。

兼有は頴娃氏六代・兼堅の子。
永禄十二年に兼堅が死去し、兼有は母の実家樺山家へ移ったがこの間に弟小四郎の勢力が強くなってしまう。次第に兼有排斥へと傾いてく。

元亀二年七月十三日、兼有は開聞宮へ従士六十三名と共に籠った。
従士や百姓によって頴娃城を攻めたが落とせず、逆に小四郎の軍勢によって開聞宮を攻撃された。
兼有は瑞応院住職の頼栄と共に社殿裏から脱出したが、途中で殺害された。

のち村人によって塚が建てられ、クロドンと呼ばれた。

枚聞神社

鹿児島県指宿市開聞十町にある枚聞神社。
薩摩国一宮の一つ
創始は神代または和銅元年と伝えられる。
三代実録に貞観八年従四位。延喜式には式内社。

中世遺構には島津氏代々の崇敬があり、度々社殿の修造が行われてきた。
明治四年には国幣小社。
国指定重要文化財の松梅蒔絵櫛笥が此処にある。

一の鳥居

二の鳥居
駐車場や案内板がある

社殿。

蒲生八幡神社

鹿児島県姶良市蒲生町上久徳の蒲生八幡神社
保安四年閏二月二十一日、蒲生氏初代の上総介舜清によって宇佐八幡を勧請し、
此処に正八幡若宮を建てたのが始まり。
此処には日本一の巨木と云われる「蒲生のクス」があり、創建当初から神木として祭られていた。

蒲生のクス
和気清麻呂が杖を地面に刺したところ生えてきたという伝説もある。
国指定特別天然記念物。

大きな鳥居

蒲生地頭仮屋

鹿児島県姶良市蒲生町上久徳にある蒲生麓の蒲生地頭仮屋
31.762584, 130.569973場所は此処。
現在は姶良市役所蒲生総合支所になっており、御仮屋門が現存している。

地頭仮屋は文政九年には老朽化の為一度再建された。

御仮屋犬槙
表庭に植えられていたもので門と共に当時の遺構。樹齢は四百年と云う