カテゴリー: 吉川氏・小早川氏

久光山八幡宮

島根県浜田市蛭子町にある久光山八幡宮

駐車場は無し、北にコインパーキングがあるため、そこを拠点に歩いて行く必要あり。

天正二年八月、吉川元春が石清水八幡より勧請。元は別の場所にあった。
寛永十三年、現地へ遷座。以降、氏神として崇敬あり。
社殿右手には稲荷があり、元は浜田城内にあったもの。

なお、鳥居をくぐって石段の長い参道を通るが、石段の左に松平周防守家墓所入口あり。

鳥居
正徳三年八月銘

舞台?

城内稲荷神社
看板曰く吉川元春が八幡勧請
元和五年、浜田藩主古田重治の代に、浜田城内に祠が置かれた。
明治に至り廃藩のち荒廃したが、此処へ遷座され整備された。

吉川経家の墓

鳥取県鳥取市円護寺にある吉川経家の墓

流石の知名度と云う可か。
35.515115, 134.245828にある公園に綺麗に整備された墓域がある。
公園駐車場あり。墓碑は経家主従と云われる五輪塔二基。

石見吉川氏。
宗家四代・経光の子である経茂を初代とする吉川氏分流。
経家は経安の子。毛利氏および宗家の吉川氏らに属した。
天正九年、羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、山名豊国追放後の城主として城を守ったが、兵糧攻めによって開城。経家は切腹した。

墓碑

鳥取城

鳥取県鳥取市東町にある鳥取城

久松山山頂域と南西麓に縄張りが広がる。
麓域は博物館や仁風閣、三の丸が鳥取西高になるなど、敷地は現在でも使用されている。
その他二の丸や天球丸などの曲輪も石垣等整備され、公園化している。
訪れた当時は大手門部分で工事を行っており、グーグルマップで現在見ると門らしき物があるので、復元されたのだろう。
山頂部分へは天球丸から遊歩道がついており木々が取り払われ石垣も整備されている。
東から三の丸・二の丸・本丸と続き西に出丸もある。

天文十四年、山名誠通によって築かれた。敵対する山名祐豊への備えであり、縄張りは田原某が担当したと云う。
天文十七年の誠通戦死後は武田豊前守が守り城を整備した。布施天神山城の山名氏に対する謀反の備えとも。

永禄六年、鳥取城に居た武田高信が山名氏に叛した。山名方は中村伊豆守らに鳥取城を攻めさせたが敗北。以降、武田高信が鳥取城を拠点とし山名氏と戦いを続ける。
元亀二年、阿勢井における戦いで、高信は子の又太郎・与十郎を戦死させてしまう、
続く元亀三年には、尼子氏残党の山中鹿之助らに攻撃され、高信は鳥取城を出て鵯尾城へ退いた。
鳥取城へは山名豊国が入り因幡山名の本拠を移した。

天正年間になると豊国は勢力を伸ばした毛利氏に従った。
そのため天正八年、羽柴秀吉による第一次鳥取城攻めが行われる。この時、豊国は羽柴秀吉の降伏勧告に従って羽柴軍に降った。

ところが、この対応を良しとしない家臣の森下道誉・中村春続らは豊国を追放。
天正九年、石見吉川氏より吉川経家を迎えて羽柴軍に抵抗。
同年、羽柴秀吉による第二次鳥取城攻めが行われる。羽柴軍は周囲の山々に陣取り鳥取城を兵糧攻めにした。このため吉川経家は自害し鳥取城は落城。

天正十年には宮部継潤が入ったが、慶長五年の関ケ原の時に宮部氏は西軍に属したたため改易。
慶長六年、池田長吉が入り鳥取城の大改修を行う。

元和三年、池田光政が姫路から鳥取へ移封。城や城下の整備を行った。
寛永九年、鳥取・岡山の両池田氏入れ替えにより、池田光仲が入る。以降城主家の変更は無く明治まで続いている。

箕浦近江宅門
長屋門
鳥取県立図書館にある

吉川経家像
石見吉川氏。経安の子で、天正九年の鳥取攻めで自害。

大手登城道
堀に橋が通り桝形虎口の大手門へ続く。
工事中で立ち入り不可だったが、大手門の復元工事をしている様だ。
おそらく現在は終わっている。

仁風閣
旧扇御殿の場所に建つ
明治四十年、皇太子時代の大正天皇の行幸に際して宿舎として池田仲博が建てた。
建築は片山東熊、命名は同行の東郷平八郎。

内部も完全洋風。

宝隆院庭園
池田慶徳が造った庭園。回遊池泉式庭園。
池田慶栄が死に、夫人の宝隆院を慰めるために設けたと云う。

博物館から二の丸方面への門
老朽化および強風で倒壊した為、昭和五十年に復旧工事が行われた

二の丸
御殿があり、池田吉泰の代に三の丸へ移されたと云う。

山方面に続く石坂。

三階櫓
享保五年の石黒大火で焼失したが再建された。
山上の天守が元禄の頃に焼失した為、こちらが実質の天守的存在。
古写真が残り、訪れた当時復元話も聞いたがはたして。

菱櫓
二の丸南西隅櫓。
二層。

天球丸
池田長吉の姉である山崎家盛夫人の天球院が此処に住んだ為、このように呼ばれたと云う。
此処にも三階櫓があったが享保五年石黒大火で焼失。

巻石垣
文化四年、石垣が崩れそうになったので、補修のため球状に覆ったもの

天球丸下部分は整備工事中

山頂への道は石段がある箇所も。

山頂域石垣

二の丸
休憩所あり。登っていくと此処へでる。

三の丸

山頂本丸
山頂域は山上之丸とも。

本丸井戸
池田長吉の時に掘られたと云う。

本丸からの眺め。
木々が取り払われているため、平野部が一望できる

天守跡
元禄五年に焼失。

出丸
立ち入り禁止だが、本丸から見下ろすことができる。

瑞雲寺(小早川秀秋墓所)

岡山県岡山市北区番町にある黄門山瑞雲寺
日蓮宗。

小早川秀秋の菩提寺。
墓所もあるようだが、看板曰く本堂内に墓・木造を安置していると云う。

暦応年間、多田頼貞の子・能瀬太郎左衛門頼仲が創建した。
当時は満願山成就寺と称した。
関ケ原の戦いの後、沼田小早川氏十七代・小早川秀秋が岡山へ入ったが、慶長七年に死去。
この寺に秀秋が葬られ、法名の瑞雲院殿前黄門秀厳日詮大居士から現在の寺号に改めたと云う。

菩提寺の石碑

岡山城

岡山県岡山市北区丸の内にある岡山城
石山城とも。

岡山の目玉の観光地として本丸域が整備されている。
34.663717, 133.934083に駐車場。
他の曲輪は市街地となったが、石垣や西手櫓が残る。

天文年間、金光備前が居たと云う。
応仁元年に松田元斉が居城したとも。
元亀元年、備前の子・金光宗高が居城していたが、宇喜多直家に攻められ自害。
天正元年には直家が改修して居城とした。
さらに秀家の代、天正十八年からは近世城郭へ改修し慶長二年に完成。

慶長五年、宇喜多秀家が関ケ原で西軍に属したため改易となり、代わって小早川秀秋が入る。
しかし慶長七年に秀秋が死去し沼田小早川氏は断絶。
慶長八年、池田忠継が入り、幼少のため兄の池田利隆が政務を代行。城の改築も行った。
慶長二十年、池田忠継が死去し、弟の洲本の忠雄が代わりに入る。
寛永九年に忠雄が死去し、光仲が跡を継いだが鳥取の池田光政と国替えとなり、以降は光政の系統の池田氏が明治まで続く。

明治の廃城令の際に取り壊されたが、天守閣等の建物は一部残っていた。
昭和二十年、空襲により天守閣や門が焼失。
月見櫓・西手櫓は現存。
のち天守は鉄筋コンクリートで現在の物が再建された。

二の丸西の丸跡
付近に石山あり。元は此処が城の中心地だったと云う。

廊下門
昭和四十一年再建。渡の櫓門

月見櫓
34.665264, 133.935222。
国重文。本丸の隅櫓で現存櫓。
池田忠雄の代、元和から寛永年間に建てられたと云う。

穴蔵

宇喜多秀家時代の石垣。
地下にあるが一部が見学用に整備。

大納戸櫓

書院跡。

不明門
昭和四十一年再建。

本段

天守閣礎石
昭和期に天守閣再建した際、元の礎石を此処へ移したと云う。

六十一雁木上門

天守閣
中は資料館になっている。

本段南西下。
櫓や庫跡がある。

南側虎口。

石門跡
かつては現存櫓が存在していた。
富山城の大手門を移築した物と云い、国宝指定されていた。
昭和二十年の空襲で焼失。

西丸西手櫓。
34.664937, 133.930920
現存櫓。
池田利隆代行時の慶長八年に建築。

有田城

広島県山県郡北広島町有田にある有田城
34.672500, 132.531734に駐車場。
有田八幡を目指していけば良い。有田合戦で有名なためか整備され容易に訪れることが出来る。城域の曲輪も木々が取り除かれている。
山頂は主郭と稲荷の丸の二か所からなり、南に三の丸・西に二の丸。

城主は有田氏・小田信忠が。
有田氏は山県氏の一族と云う。
永正十二年、武田元繁が大内より離反。有田氏を始め近隣の壬生氏や今田氏も武田方へ付いた。これに対して毛利・吉川により有田城が攻撃され落城。
その後は吉川方の小田信忠が有田城へ入っていたが、永正十四年に武田元繁が近隣の国人を率いて有田城を攻撃した。
この戦いで毛利元就らの毛利吉川軍が有田城救援の為に向かい武田軍と交戦。武田軍は数に勝り有利だったが、武田方の熊谷元直が戦死し、怒って出てきた元繁もまた討ち取られた。
さらに武田方の己斐宗瑞・香川行景らも続けて討たれた。
この戦いで初陣だった毛利元就躍進の第一歩の出来事として知られる。

駐車場

三の丸
南側の帯曲輪のような場所で説明看板あり

二の丸

先端に曲輪。

焼けた米の出土地

本丸

稲荷の丸

麓の有田八幡神社
落城後に此処へ移転と云う。天文二十一年に吉川氏代官の朝枝加賀守経家と作事奉行森若狭守が社殿造営と云う。

武田元繁戦死の地碑。
34.668243, 132.532059にある。

鏡山城(安芸)

広島県東広島市鏡山にある鏡山城
北麓の鏡山公園に駐車場・登山口がある。散策路もしっかりしているので来訪は簡単。

鏡山城は西条における大内氏の拠点。
室町時代に入ると大内氏が進出してきており、応永二年には足利義満より東西条を安堵されている。
築城時期は長禄・寛正年間と云い、文書での初見は寛正六年と云う。
永享十一年に幕府により東西条を大内氏から取り上げ小早川氏に与えていたが、長禄元年の厳島藤原教親と武田信賢の戦いに際して西条まで進出している。
寛正二年には幕府は小早川煕平を使者として東西条を武田信賢へ渡すよう命じたが手放さず、煕平を山口へ直接向かわせて譲渡飲ませた。
しかし周辺の大内方の武家らにより西条奪還の兵が挙げられ武田氏が守る鏡山城を攻撃。
これに対して小早川煕平は大内方に付いて鏡山城攻撃に加わった竹原小早川氏の木村城を攻撃するなど激化。
最終的には鏡山城は大内氏の手に渡った。

文明七年、東西条での徳政一揆が発生。これに合わせて武田・小早川は鏡山城の安富左衛門大夫行房を攻撃。しかし大内方へ着いた毛利豊元が鏡山城を救援し寄手を撃破した。
文明十年には大内政弘が安芸国西条鏡城法式条々を制定し城の規律と守りを強化している。

大永三年、尼子経久が安芸へ侵攻。大内氏は蔵田房信を鏡山城へ置いて守らせた。
この時、尼子方には毛利幸松丸・毛利元就も参加している。
尼子軍は各所に陣取り鏡山城を攻撃したが落城しなかったため、蔵田房信の伯父直信を寝返らせ城へ尼子軍を招き入れさせた。結果房信は自害し城は落城、寝返った直信は尼子経久により処刑された。
大永五年、大内方が東西条を奪還。しかし新たに杣城を拠点としたため鏡山城は廃城に。

登山口

東出丸

進んでいくと堀切。

下のダバ。
5郭。どうやら調査中か

下のダバの井戸

4郭
調査中か

馬のダバ。
3郭。中のダバ南下の曲輪。

中のダバ
2郭
主郭東下の郭。

中のダバ井戸

主郭
御殿場とも云う。
ここも調査中?
ここよりさらに西にも二の丸や藤の丸があると云う。

永福寺・小早川茂平の墓

広島県三原市本郷町船木にある蓮華山永福寺。
臨済宗妙心寺派。
小早川茂平の菩提寺。

康元年間(石碑で建長七年)、威徳上人と小早川茂平により天台宗の寺院として建立された。
のち、京都五山東福寺の白雲慧暁により臨済宗に改宗。
室町期には幕府官寺と云う。
福島時代に七堂伽藍塔頭を没収され、正徳三年には焼失。のち盤睡愚休により妙心寺派となり再興。
平成三年には本堂を改築。
また、寺には永禄四年に毛利元就が小早川隆景の新高山城を訪ねた際、宴で待した蓮花尼へ与えられたと云う絹本著色釈迦涅槃図(県重文)がある。

小早川茂平の墓
実平から数えたら四代。遠平からの場合三代。
高山城築城および沼田の本格開発を行った代。
墓は台座付きの宝篋印塔。

宗光寺、浅野忠長・福島正之の墓

広島県三原市本町にある泰雲山宗光寺
曹洞宗。
元は天正五年に新高山城に建てられた匡真寺。
三原城へ本格移転の際に移して来たと云う。
境内墓地には福島正之・浅野忠長の墓あるほか、山門は新高山城移築門と云う。

山門
国重文。
伝・新高山城移築門。
四脚門。

宗光寺塔婆
三原市重文。
七層の石塔。鎌倉時代永仁年間の大工心阿の作

浅野忠長の墓
三原浅野氏二代。
実相院殿逃外周逋大居士。墓は石柵に囲まれた五輪塔。忠長の右隣には石柵無の五輪塔
二基もある。
浅野忠吉の養子。忠吉の孫にあたり母が忠吉の次女。
大坂の陣にも参加。
正和八年に頼兼新開、正保元年に横山新開を開く。承応元年には関船八幡丸を建造。
万治三年に広島で死去。

福島正之の墓
別所氏出身で母が福島氏。
福島正則の養子。
刑部少輔。慶長六年五月五日死去。宗光寺殿天英光公大居士。
福島氏時代に三原城へ入っていた。
墓は越智式の宝篋印塔。周囲には五輪・宝篋印塔が数基固められている。

一□(木遍に山+木)院跡
参道付近にある。
小早川元平(繁平)の菩提寺。
徳川家康も宿泊。

梨羽城

広島県三原市本郷町上北方にある梨羽城
34.413395, 132.943546に登山口。
主郭まで道が続き、曲輪も草が刈られて整備されいてる。
整備域を歩いた限りではあるが、遺構は堀切二条に曲輪が三段。

小早川氏の庶流である梨羽氏の城。
小早川春平の子である梨羽時春を初代とする。分家は応永年間頃と云う。
七代・梨羽景宗の代に毛利氏防長移転に従ってこの地を去った。

なお別項に書いたが34.409068, 132.943889に梨羽氏墓所があり、初代・時春から六代・友行までの墓所がある。

道はコンクリ舗装。

堀切1

堀切2

三段目曲輪

二段目曲輪

主郭
木が刈られているので周囲の展望が良い。

二段目を見下ろす。