カテゴリー: 那須七騎

屋島古戦場

香川県高松市牟礼町牟礼にある屋島古戦場

34.353706, 134.123202の駒立岩側に石碑がある。
元暦二年、源平合戦のうち屋島の戦いが行われた場所。

那須与一宗隆が扇を射貫く話に関係した史跡等がある。
少し南に細長い駐車場もある。

駒立岩
那須与一が此処を足場と定め扇を射落とした。

反対に扇の的の看板。

祈り岩
34.353082, 134.123600
那須与一が扇を射る際、
八幡大菩薩・神妙日光権現・宇都宮那須大明神へ祈った場所という。
石碑は松平頼重家臣の箕輪野六の字という。

景清の錣引き
34.352704, 134.123575
平景清は伊藤忠清の子。
屋島戦の際、美尾屋十郎と戦い、錣を引きちぎった。
この力強さに互いに賞賛を贈ったという。

那須与一の墓(神戸)

兵庫県神戸市須磨区妙法寺円満林にある那須与一の墓

34.672925, 135.120447にある。
駐車場有。

下野那須氏二代。
与一宗隆、のち父と同じ資隆を称した。
扇の的で有名。
全国十数か所にわたる墓が存在しており、
与一の最後にはいくつか別説があって、それぞれ墓や神社が建てられている。

ここもその一つで、与一が此処へ参拝に来た際に病で死去したと云う話がある。
此処は大きな堂が建てられており、内部に与一の墓である五輪塔が置かれている。

内部の五輪塔。

駐車場

那須与一の墓(阿波)

徳島県名西郡石井町にある那須与一の墓

34.090007, 134.434595にある。
那須与一神社となっており、内部に五輪塔がある。

那須与一こと、那須宗隆(のち資隆)は下野那須氏二代当主。
屋島での扇の的で古今知られる。
源平合戦後上洛したがそこで死去したというのが通説だが、是には異説が存在し、全国各地に墓または伝承地が数多存在する。
自分が訪れただけでも十一ヵ所、未訪問の墓だけでも少なくとも三ヵ所ある。

内部の五輪塔

青蔭城

岡山県井原市西江原町にある青蔭城

34.601768, 133.471267に登り口と看板。
道はウォーキングコースになっているのだろうか、ありがたい事に休憩のベンチ等が用意されている。
山上は何かの使節が建っており、どこまでが遺構か判らない。

城主は那須氏の一族大山氏と云う。
石碑には大山右馬允信清居城とある。

登り口

鳥居のあるヵ所。へこんでおり堀切にも見える。

途中の平坦

山上部分。
城跡の石碑も此処にある。

小菅城

岡山県井原市西江原町にある小菅城

34.623344, 133.483004に入口。
看板が目印で車道も通っている。進んでいくと石碑のある広い場所に出ることができる。

城主は荏原那須氏。
那須与一宗隆が屋島の戦いで扇を射貫いた後、恩賞として幾つかの地頭職を得た。
備中荏原はその内の一つで、那須小太郎宗晴が送りこまれた。
宗晴は宗家那須氏四代・那須頼資とされ、三代・資之の跡を継ぐために荏原を離れ、子の朝資へ跡を譲った。

資料として初めで登場するのは建長三年の那須資泰による梵鐘寄進と云う。
以降、嘉慶元年に那須資道・資英が菩提寺の永祥寺を建立するなど、名前が数度文書に登場する。
戦国時代ごろまで文書に登場し、享禄四年に那須清資が永祥寺へ土地寄進、文禄三年に那須資清が筑前筥崎宮修理奉行等ある。

小菅城時代の築城は鎌倉時代の荏原那須氏初期と云う。
現地看板ではその後の顛末が書かれており、資泰の子・光隆の代に中堀城を築城したため、小菅城は廃された。のち、永享十年那須長隆の代に十蔵城を築いて移り、那須清資の代に毛利氏に属したが、関ケ原敗戦および防長移転に伴い帰農したと云う。

石碑のある場所。
此処まで車で来ることができる。

二の丸
袖神稲荷がある。永祥寺にもあるが元々は此処にあったとの事。
屋島で与一が扇を射落とす時に右袖を波打ち際に捨てた。是を同族が拾い稲荷に祈願。
扇を射貫くことに成功した為、是をご神体として小菅城内に祀ったものと云う。

本丸
二の丸・本丸には石碑あり。

荏原那須氏墓所(青野)

岡山県井原市青野町にある荏原那須氏墓所

34.636740, 133.470053にある。
頼資以降の代々墓所と云う。
五輪塔がほとんどだが、人の姿が掘られた宝篋印塔一基、自然石墓もあり。
看板曰く、宝篋印塔は天文十年十一月六日の銘があるようだが、文字は判別しにくくなっていた。

墓石の後ろに那須与一公供養塔もあり、井原の那須与一墓所と同様に学業成就祈願所とされている。
ほか、一番右の五輪塔はいぼ治しに効くと云う。

那須与一の墓(井原)

岡山県井原市野上町にある那須与一の墓。

那須氏二代。宗隆のち父と同じ資隆を称した。
全国十数か所ある那須与一の墓所の一つ。
此処にある理由は、屋島の扇の功によって備中荏原を得たため、荏原那須氏が与一の墓所を建立した。

34.635378, 133.497061に墓への入口。
ここへ至るまでも看板が点在している。
矢を外さなかった事から、受験生が祈願に来ると云う。
「与一公」を読み替えて「与一校」として宣伝もしている様だ。

入口。
ここまで車で来ることができる。

祈願絵馬

永祥寺、荏原那須氏墓所

岡山県井原市西江原町にある禅洞山永祥寺
曹洞宗。

荏原那須氏菩提寺。
現地石碑にも那須与一公菩提寺とある。
那須氏と備中の関わりは、那須与一が屋島の後、備中荏原荘を与えられた事に始まる。
以降、荏原には那須氏が登場し、那須宗晴(頼資)が下向したと云う。
資料上の初見は建長三年頂見寺梵鐘の那須資泰。

寺は嘉慶元年に那須資道・資英が建立。
その他永享十二年に那須長高、享禄四年に那須清資が土地を寄進している。

袖神稲荷
与一が扇を射落とす時、右袖を波打ち際に捨て、同族が是を拾い稲荷に祈願。
すると扇を射貫くことができた為、荏原那須氏が小菅城を築いた際に城内へ片袖をご神体として稲荷を建立。のちここへ移された。

荏原那須氏墓所
五輪塔。一基宝篋印塔もどきも混じる
荏原那須氏墓所は此処の他に、那須与一墓所(34.635378, 133.497061)と室町期那須氏墓所(34.636740, 133.470053)にもある。

那須与一の墓(与一野)

広島県山県郡安芸太田町寺領にある那須与一の墓
34.588619, 132.247971にある。道路沿い。

那須氏二代、与一宗隆(資隆)。
全国十数か所程存在する墓の一つ。
此処の伝説としては、地頭として与一が送られ、田畑の開発を行ったと云い、
地名の与一野もその名残という。

与一野のしだれ桜
34.590981, 132.250350

昭和十五年、皇紀二百六十年記念として植えられたといい、桜の名所という。

三島神社(野村)

愛媛県西予市野村町野村にある三島神社

駐車場有、説明看板ありの親切設計。
和銅五年に大三島より勧請の詔勅が出たのち、天平五年に現地へ鎮座したと云う。この頃だと玉興・玉澄?
建久五年、再興。
仁治二年、社殿修築。
興国二年、再興。
文禄五年、宇和川氾濫により拝殿が崩壊。藤堂高虎が大旦那となって再建。棟札が残っており、泉貨居士らから材木の提供を受けている。
享保十四年、本殿が流され翌年再建。
昭和二十八年、吹き替えや拝殿改築。
昭和五十年、中殿・拝殿建立。
平成二十五年、本殿改築し翌年建立。

ちなみに此処には那須与一の話が残る場所の一つである熊野神社が合祀されている。
那須与一宗隆または子孫が建立したと云い、野村町誌に正応三年とあったが与一の時代だと無理がある。
合祀される前の場所を探してみたが判らず断念。