カテゴリー: 山名氏

今瀧寺

兵庫県養父市八鹿町にある守仁山今瀧寺

八木氏の菩提寺。
八木城登山口前の道を山へ進んでいくと寺にたどり着く。
山上ながら本堂・仁王門付近は広い。
かつては九院三坊を持つ大寺院だったとの事。
此処にある木造金剛力士像が県指定文化財になっている。
鎌倉時代の作で正嘉二年の作。阿形が澄玄、吽形が淡路公の作。
元は八木氏のもう一つの菩提寺・常光寺にあったそうだが、永和四年に今瀧寺へ移された。

仁王門
昭和五十七年に解体修理後、現地に移されたという。
木造金剛力士像あり。

本堂
仁王門からさらに道路を進むと行き止まりにある。
平成十三年の鰐口もある。

本堂背後に神社

室町っぽさのある宝篋印塔も。

八木城

兵庫県養父市八鹿町八木にある八木城

国指定史跡。
35.385848, 134.719435に周辺案内地図あり。
それによると
35.384841, 134.717802にある下八木公民館が八木城用駐車場になっている。
看板先の35.386375, 134.719416に登山口があり、目印看板も建つ。
進むと墓地奥の道から城跡まで登ることができる。
山全体にヒルがいるので注意。麓付近は特に多い。

八木城は三区画に別れている、
〇南東麓一帯の居館地部分。
35.386370, 134.721137の東側が公園整備されている。
登山口のある居館地西側部分は御里遺跡と呼ばれる。
〇八木城
八木城後期の使用域。
登山口を進んでいくと階段状の曲輪があり、主郭域は側面の石垣の大部分が残っている。
近世城郭だった時期もあるため、穴太積のしっかりとした石垣。
また、主郭域は前後に柵があり、扉を開けて進む。
土城への道もついている。
〇土城区域
八木城から更に奥へ進んだ所にある。
土城への柵扉を空けると堀切があり、そこから階段状に曲輪が続く。
おそらくそれなりに人が通っているのだろうか、踏み後もしっかりしており簡単に主郭まで行ける。
主郭手前の曲輪には綺麗な虎口・土塁も残る。

八木氏の本城。および八木藩別所氏の城。
平安時代末期、閉伊氏が此処にいたというがはっきりせず、
鎌倉時代、朝倉高清の子・安高が八木へ入り、八木氏を称した。
鎌倉時代には承久の乱、末期には元弘の乱と戦い、南北朝以降は但馬守護になった山名氏に属するようになる。
以降、山名四天王の一角として重きをなした。

戦国時代、毛利氏の勢力拡大に伴い、八木氏は毛利氏を支持。
そのため天正五年より羽柴秀吉の但馬攻めで攻撃を受け、
天正八年、八木豊信の代に八木城は落城した。豊信はその後若桜鬼ヶ城守衛を命ぜられたが、毛利氏の攻撃後に消息不明になる。

天正十三年、別所重棟が八木城へ入る。
重宗は別所長治の叔父で、長治と異なり一貫して織田氏方だったため生き残り大名になった。
重棟の跡を別所吉治が継いだが、
慶長五年、関ケ原の際には西軍方に属した為、由良城へ移され八木城は廃城になった。

殿屋敷地区
麓の居館部分。曲輪・堀が公園整備されている。

登山口

途中に休憩小屋

動物の糞に群がるセンチコガネ。

側に爪跡?
注意。

東端の曲輪。
標柱あり、八木宗頼に触れている。

階段状に広い曲輪が続く。
側面に道があるが、斜面を登って一段ずつ上がることも出来る。

広い曲輪

主郭手前
柵扉がある。

柵扉のあるあたりは二の丸との事。
標柱あり。

主郭への道。
石垣が多く残る。

主郭
石垣土塁あり。

主郭奥には櫓台らしき高台がある。
天守台か何かか。

主郭隅石垣。
主郭の登り口隅。

主郭側面石垣。
大部分が残存

土城方面の堀切。

曲輪
定期的に整備の手が入っているようだ。

途中穴のある曲輪がある。
井戸跡?

土城主郭手前曲輪虎口。
綺麗に土塁の形が残っている。

主郭下曲輪
土塁を伝って登る。

土城主郭
若干だがここにも土塁が残る。

土城主郭北下段。

北下段先の堀切。

生野城

兵庫県朝来市生野町口銀谷にある生野城

麓の琵琶の丸公園に登山口がついている。
進んでいくとびわの丸、更に進むと山頂域にでる。
山頂は西から除草整備された別曲輪・三の丸・二の丸・主郭と続き、東にも一段。
また、主郭北側、三の丸北西にも曲輪が広がっていると云う。

城の大部分が石垣で覆われて居たようで、山全体に崩れた石垣が散見。
一部は曲輪に残っている。
なお、麓で聞いたが時期によってヒルが出るので注意。

応永年間、山名時熈が築城。
看板曰く応永三十四年。
この年、足利義持が赤松満祐の所領を奪い赤松持貞へ与えようとし、怒った満祐は播磨へ戻り合戦に備えた。結局幕府は赤松持貞を粛清し満祐を許して事なきを得た。
時熈が生野に城を構えたのは赤松氏への備えだったとも云う。
その後時熈は山名持豊(宗全)に家督を譲った後、生野城に隠居したとも。

天文十一年、山名祐豊が生野銀山経営の為、生野平城を築いた際、此処の山城も改修を行ったと云う。その後、山名氏が太田垣氏に管理を任せたが、再び山名氏が管理、

弘治二年、太田垣朝延が山名氏から生野を奪取。
天正五年、織田氏但馬攻めで羽柴秀吉が但馬へ侵攻。生野城も攻撃を受け、兵は竹田城まで退いたが、竹田城も落城した。

登山口

びわの丸
山の中腹にある平坦地

中腹に散らばる崩れた石垣

西端の別郭

三の丸

二の丸側面の石垣跡

二の丸

主郭への石段
かろうじて残っている

主郭
中央に大石有

東反対の曲輪

生野平城

兵庫県朝来市生野町口銀谷にある生野平城

35.167646, 134.792414に石碑・看板。
隣に観光用駐車場があり、ここも城域。
現在は学校が建ち遺構は無いが、城時代は三層の天守閣もあったと云う。
代官所時代の図では南側に堀や、北に櫓の乗っていない隅櫓台等も見える。

生野には山名時熈の代に築かれた山城があったが、
天文十一年、山名祐豊が生野銀山を稼働させる経営拠点として平城の生野城を築城。
その後、太田垣氏に任せていたが再度山名祐豊が管理。
しかし、うまくは行かなかった様で、弘治二年に太田垣朝延が生野平城を奪還して京正阿弥・杉原七郎左衛門らを置いたと云う。

その後、織田・豊臣・徳川と移り代わるも代官が置かれ、
寛永六年、天守や隅櫓が壊されたが、生野代官所として機能は維持された。

文久三年、平野国臣らが澤宣嘉を大将に挙兵する生野の変が起こる。
この時生野代官所が占拠されたが、内部分裂もあって壊滅した。
明治二年、生野県庁になるも、明治四年に豊岡県へ編入され、建物は解体された。
大正年間までには塀・堀も失われた。

生野義挙の碑
唯一の名残り。

生野銀山

兵庫県朝来市生野町小野にある生野銀山

坑道および関連施設が現存しており、生野は鉱山の観光町になっている。
銀山前に広い駐車場や資料館有。
また、西の職員宿舎がある場所は代官所付近に観光用駐車場有。

銀山の開坑は大同二年とかなり古い。
時代がかなり空いて天文十一年、山名祐豊が銀山稼働させ、拠点に生野平城を築城。
永禄年間には太田垣能登守に守らせると云う。

山名氏が織田氏との戦いで生野を失った後、
天正六年に織田氏が管理し、次いで豊臣氏・徳川氏に移り代わるも、直轄地となり代官が置かれた。

明治元年、生野を掌握した新政府により、フランスからジャン・フランソワ・コアニエを招いて銀山の近代化を実現。
明治二十二年、生野銀山は皇室財産となり、御料局生野支庁が設置。
明治二十九年、三菱合資会社へ払い下げられ、三菱金属株式会社が受け継いだ。
昭和四十八年、閉山。以降は観光地として整備される。

朝倉盛明官邸門
明治期の生野銀山初代鉱山長。
平成三年に現地へ移築。
現在は生野書院として資料館になっている。

佐藤家住宅
江戸時代の郷屋・掛屋。

旧職員宿舎。
甲社宅とも。
明治四年の建築。
現在残っている五棟が整備され、甲七号社宅が志村喬記念館になっている。
俳優・志村喬はここの社宅出身という

坑道前駐車場
食事所や資料館もある

菊の門入り門柱
ジャン・フランソワ・コアニエが工場正門として築造。
明治五十二年に現地へ移設

銀山入口
生野代官所の門が再現

手堀の洞窟
江戸時代のものという。

奥には金山彦を祀る山神宮が置かれている

ローダー
鉱石のトロッコ運搬用

滝不動
織田・豊臣時代から安全・繁栄祈願の場所という

金香瀬代官番所跡

巨石

露天掘
慶寿𨫤
永禄十年に発見された鉱脈。

慶寿の堀切
採掘跡

下川戸坑
江戸時代坑道

辰巳坑
江戸時代

小日向坑
銀の質が高かったという

鉱脈と断層
年度断層。

大丸坑
金香瀬坑まで続く

大亀坑
江戸時代。
山師漆垣太郎兵衛が大きな亀が出てくると頃を発見。
掘り進んだところ坑道を見つけたという

荒木坑道
江戸時代

滝間歩旧坑
天文十一年頃の山名時代の坑道。

金香瀬坑道
観光用坑道になっている。
明治初期にジャン・フランソワ・コワニエによって整備

坑道内部

旧坑
坑道に横穴の様な箇所がある。
江戸時代のものという

狸堀
天井にある細長い窪み。
坑道を掘り進んだ跡という

竪穴
坑道の通気口

酒熟成庫
坑道は酒造りにも使用されている。
ここの酒は売店でも販売

ワイン用も

トロッコ

シュリンケージ採掘跡
ダイナマイト・削岩機を使っての採掘と云う。
木の杭が間につっかえ棒の様に置かれている。

ボーリング作業
岩盤に穴を空け調査し鉱石を探すと云う

太閤水
天正五年に羽柴秀吉が訪れた際に飲み、
茶をたてたと云う水

巻上場
機会は昭和四年製造

巻上場奥
上部分が奥に続いている。

エレベーター
鉱石搬出用

五枚合掌支柱
天盤・側壁の状態が悪く荷重の大きい箇所に掛けると云う

常光寺、太田垣光景の墓

兵庫県朝来市和田山町竹田にある常光寺

真宗大谷派

由緒は現地看板に詳しく、
文禄三年、教如上人の命で祐教上人が朝来山麓に創建した寺院という。
慶長五年に赤松広秀が自害後も残っていたそうだが、慶長十五年の大火で焼失し、現地へ移転。
元禄十一年、貞存の代に伽藍整備という

寺宝に後西天皇・親鸞・蓮如の筆名号、教如上人御消息等と云う。

本堂

太田垣光景の墓
但馬国人で山名四天王。
嘉吉前後に竹田城築城をした代という。
応仁の乱では山名宗全の西軍方に属した。

境内墓地にある石層塔で、となりに宝篋印塔らしきパーツも
墓前には石碑、境内外にも墓への案内看板もある。

竹田城

兵庫県朝来市和田山町にある竹田城

雲海を見やすい事や、残存遺構が多いためか、観光地として整備されている。
麓の川向には観光用駐車場があり、登山道も整備。
麓を無視して山上まで車で行けるルートもある。
城域全体の石垣の残存率が極めて高く、整備されていることもあって見栄えが良い。

曲輪は南北端に広い千畳敷を持ち、双方に二の丸。北側には三の丸も付くが二・三は何れも細長い。
中央に主郭があり北西に花屋敷という広い曲輪がある。

山名四天王とも呼ばれる太田垣氏の城。
太田垣氏は但馬国の有力国人であり、山名氏に臣従して守護代となった。
城は永享から嘉吉の頃の築城とも。

応仁の乱が勃発すると、太田垣土佐守は山名方として京で戦う。
この時、山名氏本拠を叩くため東軍の長九郎左衛門・内藤孫四郎らが但馬を攻撃。
土佐守次男の太田垣新兵衛が但馬を守り撃退したという。

戦国時代に入ると山名氏が尼子氏と結び、永禄十二年に織田氏の攻撃を受け山名祐豊が一時但馬を追われる。太田垣氏も一時織田氏に降る。
天正元年、毛利氏が伯耆因幡へ進出すると山名祐豊や太田垣輝延は毛利方へ寝返る。
この時、輝延は毛利氏へ子の勘二郎を人質に出している。

天正三年、荻野直正に竹田城・有子山城が攻められる。祐豊は毛利氏や織田氏両方に救援を行ったと云う。
天正五年、織田氏の但馬攻めが始まり、羽柴秀長が竹田城を攻撃し落城させる。
羽柴秀長は竹田城へ入り、一時太田垣氏も竹田城に居たが、天正八年に完全に居なくなる。

同年、代わって桑山重晴が入ったが、
天正十三年に紀伊和歌山へ転封。代わって赤松広秀が入った。
広秀は龍野赤松氏であり、羽柴秀吉による天正五年の播磨攻めに降り、竹田城移封後は朝鮮の役等に参加して二万二千国の大名になっていた。現在残る竹田城遺構は広秀時代の物という。

慶長五年、関ケ原の戦いの際には西軍方に属し、田辺城を攻撃したが西軍の敗走を知り撤退。
のち、東軍方へ寝返り亀井玆矩を援けて宮部氏の鳥取城を攻撃。しかし、城下に火を放った事を咎められ切腹させられた。
竹田城は以降廃城になる。

登山口
35.299361, 134.835571
法樹寺となり。

屋敷跡

途中の畑地跡?

堀切っぽい箇所

登っていくと料金所。
山城域は有料。

北千畳虎口
標柱に大手門

北千畳
北橋の広い曲輪
立ち入りは不可

三の丸虎口

三の丸

三の丸に小さな虎口跡

武の門
二の丸への虎口

二の丸
北側下段は通路の様になっている。

主郭方面

主郭と天守台

天守台から。
城域が一望
残存遺構の多さに驚く

南二の丸方面虎口

南二の丸

南正門

正門付近に搦手口

南千畳。
南橋の曲輪

立雲峡からの眺め。
竹田城を含む雲海が見られる場所のため公園化している。

鶴城

兵庫県豊岡市船町にある鶴城

35.553899, 134.826341に登山口。
山上に神社があるため参道が整備されている。
神社背後も曲輪が続いているが、手入れが入っているのか主郭までも簡単に登ることができる。
主郭から北東方面には道があり堀切がある。北西方面にも曲輪が伸びるが高低差がある。

田結庄氏の城。
永享年間に山名宗全による築城とも。
のち田結庄氏が鶴城を本拠とした。
田結庄氏は山名氏に属し、八木・垣屋・太田垣と共に山名四天王として数えられる。

戦国時代、山名氏は織田氏・毛利氏の間で挟まれてしまい、どちらに味方するかで対立が発生。
天正三年、野田合戦が起こる。田結庄氏は織田氏派だったが、毛利派の垣屋光成らによって攻撃を受けた。当主の田結庄是義は戦ったが最後には菩提寺の正福寺で自害した。

登山口

途中には鉄塔も

愛宕山妙見堂跡
ここも曲輪の一部と云う。
いまは小さな小社がたつのみだが、何か大きな建物が建っていたような跡がある。

途中の鳥居

神社曲輪手前

神社のある曲輪
愛宕神社が建つ。城の説明看板やゴミ箱まである。

近くには礎石もある。

神社の曲輪北の下段。
看板3曲輪。両側に一段下の曲輪あり。

西側の下段。
僧の墓所が二か所ある。

主郭手前

主郭
北東側の堀切がある方向に土塁がある。

北東側堀切
ロープや階段有。

北東側堀切2

北西側の下段。

大明寺

兵庫県朝来市生野町黒川にある雲頂山大明寺

臨済宗妙心寺派
本尊は釈迦牟尼仏

貞治六年、山名時熈開基、月庵禅師による開山という。
寺には山名時熈木像、月庵禅師画像、徳川氏朱印状などがあるという
また、山名時熈の葬地らしいが墓は判らず。時熈の墓は円通寺にもある。

座禅石
開山の月庵禅師が座禅をした石と云うが、
元の場所が水没したため昭和四十六年に現地へ移転

開山堂
萱葺

山名時熈の位牌
大明寺殿前右金吾巨川熈公大居士
この下に墓があるとも。

内部

本堂

黒川ダム
寺へ向かうと巨大な壁が見える。

三開山城

兵庫県豊岡市駄坂にある三開山城

登山ルートは複数ある様だが、判りやすい瑞峰寺ルートを選んだ。
境内から登山道が伸びており看板もある。
城域は山頂の主郭を中心に東西に延びる箇所と、北中腹にある広さのある曲輪群からなる。
北麓の曲輪群は居館地および寺跡からなる。

建武三年(延元元年)に北朝方として今川頼貞が但馬守護になると、
南朝方の新田義宗が三開山城へ拠って対抗した。現地看板曰く新田四郎義直の名前も。
建武四年、足利直義は小俣来全に討伐を命じ、新田義宗は杣山城へ撤退した。

康永三年、山名時氏が三開山城を攻略し、城に入って但馬守護を称した。
時氏は観応の擾乱期には直冬方に属し、延文三年に幕府方の今川頼貞や伊達朝綱に攻められ三開山城から撤退した

しかし、時氏はその後幕府方に帰順し、山名氏は但馬へ復帰。
戦国時代、天正八年に羽柴秀吉の但馬攻めで落城と云う。

瑞峰寺

途中の分岐
看板に従う

北の広い曲輪群へ出る

千畳敷
一部石垣が残り、戦国時代のものという

周囲の曲輪

瑞宝寺跡
看板あり。
新田四郎義直の開基という寺院。
本尊は弁財天。
瑞峰寺は瑞宝寺を前身としたものと云う。

古い墓石・石仏

山頂方面
途中に堀切
北の曲輪群からは東周りで登る。

堀切

東の曲輪

主郭
主郭域のみ木々が取り払われている。

新田君の墓
詳しく確認しそこねた。
側面に新田四郎義直がどうのと掘られていたのは見えた。

西の曲輪群

途中に石室付の古墳の様なものもある。