カテゴリー: 岡山県

松田元成・大村盛恒の墓

岡山県岡山市東区瀬戸町塩納にある松田元成・大村盛恒の墓

県指定史跡。
周囲は狭いが平野神社側まで車道があり、そこから歩いて行ける。
34.766489, 134.051582から進む。
途中に案内看板も点在。
無縫塔が松田元成、宝篋印塔が大村盛恒。

松田元成は室町後期の武将。
赤松氏と山名氏の戦いに於いて赤松方から山名方へ転じた。
文明十年、長船の福岡城を攻めて勝利したものの、次ぐ天王原の戦いで浦上氏と戦い敗れ自害。
家臣の大村盛恒は尼子氏へ援兵を頼みに向かったが間に合わず追腹を切る。

その後、元成の子・元勝が両者の墓を建立した。

墓への道。
看板あり。

その他の墓。
五輪塔?や割れた石祠型の様な物もある。

林野城

岡山県美作市林野にある林野城

35.007788, 134.150227に登山口と駐車場。
周囲の山域が公園化されており、此処の美しい里山公園の登山口から登った。
途中、尾根に出た所で反対へ進むと城の東へ出ることができる。

東の曲輪から土塁を挟んで細長い広い主郭がある。中間と西部が若干高い。
主郭下には北の物見台曲輪、西に二の丸・三の丸が続く。
三の丸方面からの道もあり、別に登山道もある様だ。

築城は鎌倉期、三星城の後藤氏の一族、後藤良兼が築城したという。
康安元年に山名時氏が美作を攻めた際に落城。
天文十三年、尼子氏が美作へ手を伸ばすと林野城へは川副久盛が入った。
のち、後藤氏が尼子から離反した際に攻められたが防衛。以降も戦いは続くが
永禄八年に尼子氏が毛利氏と戦い劣勢のため川副久盛は林野城から撤退。

代わって江見氏が林野城番として入ったが、
天正七年、宇喜多氏により攻撃され江見市之丞が敗れ、城番が置かれていた。
慶長五年、宇喜多秀家が関ケ原で敗れたのち、小早川秀秋領になる。
この時、稲葉通政が城へ入った。
慶長八年、前年に小早川秀秋が死去し断絶のため、代わって森忠政領になった。

登山口

西端の曲輪。
倉敷城の看板と建物の後?らしき列石あり。

西曲輪背後の土塁。

細長い山頂域主郭西端。

中間の高台。

主郭東端。
標柱と城図看板、東端には土塁もある。

北の曲輪。
土塁有。
主郭東を降りたところに道がついている。

二の丸。

三の丸。

三の丸先端。
階段状の箇所あり。

三星城、後藤勝基の墓

岡山県美作市入田にある三星城

東麓の35.012800, 134.146725に入口。
車で行けるかわからなかったので歩いて向かったが、進んだ先に置けそうな場所はあった。
麓部分は居館地であり曲輪がいつかと後藤勝基の墓がある。
さらに奥へ登っていくと土塁のある北側の曲輪を経て山頂域の曲輪へ出る。
山頂の主郭は狭く、東西に伸びる曲輪の方が主要地?
なお東西曲輪へは時間切れで行けなかったが、途中に井戸がある。

美作後藤氏の城
応保年間、渡辺長寛が居館として築いた。
次の長信の代に梶原景時の乱で死去、此処では坂手監物勝が自害。
その後南北朝時代に入った延元四年、後藤氏が地頭として三星城へ入った。

康安元年、南朝に転じた山名時氏に攻め落とされたが、山名潰しの明徳の乱後に後藤氏が復帰という。

明応七年、後藤勝国が立石氏の美和山城を攻撃したが敗れ戦死。
次いで文亀二年に子の後藤勝政が美和山城を落とし美作における勢力を拡大。
のち、赤松氏の守護代浦上村宗に属し、大永年間に敵対する浦上村国の金室城を攻めたという。

後藤勝基の代、尼子氏が勢力を拡大し是に属したが、
永禄の頃に浦上宗景に付いて尼子から離反、林野城の川副久盛らと戦う。
永禄八年、尼子が毛利に攻められ美作から撤退、代わって毛利軍が三星城を攻めたが防衛。

天正三年、浦上宗景が宇喜多直家に追われると、勝基は美作国人と共に抵抗。
天正七年、花房・延原ら宇喜多軍により三星城が攻められ落城。後藤勝基は自害し美作後藤氏は滅亡した。

登山口。
側に看板あり。

車で行けそうな所の終点。

三星稲荷神社
城への道途中に分岐。
後藤氏時代からあったそうで、修理されつつ現在まで残る。

居館地。
奥に忠魂碑。

後藤勝基の墓
五輪塔。銘は風化で読めず、大居士のみ判った。
美作における有力国人。
居館地忠魂碑となりにある。

北側曲輪
登っていくと此処へ出る。
土塁と標柱がある。

登った先の東西分岐。
ここから主郭へも行ける。

主郭部分。
狭い山頂。登る道は急斜のため注意。

岩井戸。
東曲輪へ向かう途中にある。

淡相城

岡山県美作市粟井中にある淡相城

35.067257, 134.237191に駐車場。
粟井春日座の隣に駐車場。
神社奥に道があり、進んだ先に土塁や曲輪、大きな堀が残っている。

粟井城とも。
美作菅氏の出である粟井氏の城。
現地看板曰く長和三年の築城。

隣接する春日神社は長和二年の勧請と云い、
元弘二年には後醍醐天皇隠岐配流の途上立ち寄った。
その後、神社も城も室町期に焼失したそうだが、文明十八年に粟井景盛の代に再建された。

駐車場

手水鉢
明和元年のものという。

明神鳥居礎沓石
勧請千年記念時、鳥居再建の為に鳥居を取り除いたところ、
承久二年に伴惟時が鳥居を設けた際の礎沓が出土した。

後醍醐天皇腰掛石。
元弘二年に立ち寄った時のもの。
ここで千草忠顕から湯茶を受け取り飲んだという。

春日神社
社叢は美作市指定天然記念物

三木太郎ケヤキ
樹齢五百五十年。
明治三十一年、神社が財政難になった際、ケヤキを売却したところ、
神木の伐採に反対する横山三木太郎が買戻し奉納した。

神スギ
市指定天然記念物。
樹齢千年。勧請時頃のもの?

シラカシ
樹齢二百五十年。

ヒノキ
市指定天然記念物。

石灯籠
小堀遠州式石灯籠。

城への道。神社右側。

進んでいくと堀に出る。

登った先の曲輪下段。

曲輪上段。
此処が主郭的場所?

曲輪反対には堀切がある。

洞松寺、毛利宮鶴丸の墓

岡山県小田郡矢掛町横谷にある舟木山洞松寺

曹洞宗。

飛鳥期の創建と云い、
のち応永十九年、喜山性讃が再興。
近くにある猿掛城の庄氏、毛利元清の菩提寺になった。
かつては備中に千二百の末寺を持つ中本山だった。

寺には庄元資と毛利元清の供養塔である宝篋印塔があるそうだが、
寺域の奥側にあるようで術無く断念。
その代わり、寺域から離れた北の墓地に毛利宮鶴丸の墓へは道がある。
これらは何れも町指定文化財。
ほか、洞松寺文書や山門・喜山性讃像・怒仲天誾像像も文化財指定。

山門
町指定重要文化財。
天保十四年再建のもの。

本堂

宮鶴丸墓への道。
高台の神社へ向かう石段を無視して奥へ進む。

毛利宮鶴丸の墓
矢掛町重要文化財。
毛利元清の長男。
天正十二年に病没。

倉敷代官所

岡山県倉敷市本町にある倉敷代官所

観光地ど真ん中。以降は大部分が失われているが、
倉敷アイビースクエア内に石碑・堀・井戸が残っている。
また、小野時代に設けられた稲荷社が倉敷アイビースクエアから東へ出た先にある。

戦国時代は小野ヶ城という城があり、城主は小野氏。
慶長十九年、港から大坂の陣の兵糧を積みだす為、小堀遠州が陣屋を築いた。
のち代官所と改められ、米倉平太夫が代官に入った。
以降、代々代官による天領支配の拠点として使用された。
天保五年には領校明倫館が建てられた。

慶応二年、立石孫一郎率いる第二騎兵隊が倉敷代官所を攻撃。代官所は焼失したと云う。
明治に入ると倉敷県庁が置かれたが、明治四年に小田県へ統合された。
明治二十一年、倉敷紡積所として再利用された。

堀跡。
数少ない遺構。

井戸。
遠州の井・鶴形の井と共に倉敷の三井戸と呼ばれるとの事。

倉敷紡積工場
昭和二十年に役目を終えたが、観光地に再利用。

城山稲荷。
小野時代の史跡。
明応二年、城主小野好信が伏見稲荷より勧請。
明治二十一年、倉敷紡積工場が建設されるにあたり、向市場町へ移転したが、
大正三年に元の場所へ戻された。

猿掛城(矢掛)

岡山県小田郡矢掛町横谷にある猿掛城

34.612620, 133.633705から進んでいくと登山口に出る。
少し北の34.613395, 133.633170に説明看板と資料が置いてある。

登っていくと寺丸や庄実近隠居の太夫丸、
さらに登ると6の丸から主郭まで続く。三の丸が最も広く大手門あり。
本丸奥には巽の出丸。主郭先端下には堀切もある。

庄氏の城
元は武蔵七党の児玉党出身。
庄家長の代に一之谷の軍功で備前四庄を賜り移ってきた。
幸山城を本拠としていたが、のち猿掛城を築いて本城とした。
文和の庄資政の代頃とも、元久年間とも。

室町期には細川氏の備中国守護代となって栄え、
戦国時代天文二年には上野氏を攻めて備中松山城を獲得した為、猿掛城には一族庄実近(穂井田)を置いた。
天文二十二年、三村家親が猿掛城を攻めた。最終的には和睦し、翌年に家親の子・元祐が庄為資の養子に入った。
元亀二年、松山城の庄高資が三村・毛利により攻められ戦死。
なお、同年庄元資が三村方として宇喜多氏と戦い戦死。庄氏は備中での覇権を失う。

以降、三村氏の城となり、天正二年に毛利・三村間が断交となって、三村氏が滅ぼされる。
この時猿掛城には穂井田元清(毛利)が入った。
天正十年、備中高松攻めの際には毛利輝元が此処を本陣として使用。
和睦後は宍戸隆家による城番。
慶長五年、毛利氏は防長へ移転し、慶長九年に花房正成が入るが、
元和元年の一国一城令で廃城に。

看板と資料のある場所。

登山口方面の看板。

寺丸
延徳四年に細川勝久が猿掛城を攻めた際、
香西五郎右衛門が庄元資に付いて戦い自害。
元資は是を称し寺丸を築いて位牌堂を建てた。
位牌はのち菩提寺の洞松寺へ移した。

太夫丸
天文二十三年、三村・毛利と和睦した際に、三村家親の子元祐が庄実近の養子になる。
この時、実近は此処へ隠居し太夫丸と呼ばれた。

太夫丸石垣

六の丸

五の丸

四の丸

側の馬場。

三の丸側面の石垣。

三の丸

大手門跡。
藪に埋もれているが石垣もある。

二の丸
縦に集められている石材あり。三の丸も同様

本丸
堀切側へは土塁がある。

側面石垣

先端の堀切。

巽出丸。
主郭下の腰曲輪。

下道氏墓所・吉備真備墓

岡山県小田郡矢掛町東三成にある下道氏墓所

国指定史跡。
34.615932, 133.626740の辺りから登っていく。
トイレも用意されており史跡として整備されている。

下道氏は奈良期における豪族であり、下道圀勝の子から吉備真備が出ている。
元禄十二年、吉備真備祖母の銅製骨蔵器が発見された。
下道圀勝・圀依の母骨蔵器である事が記されていたと云い、国指定重要文化財になっている。
奥には吉備真備の墓もある。

麓の石碑

トイレ付近。
綺麗に整備されている。
道もコンクリートではっきりしている。

下道氏墓所
石碑あり。

石が固めておいてある場所。

吉備真備の墓石標柱
石碑と墓器?がある。

吉備真備館(矢掛)

岡山県小田郡矢掛町東三成にある吉備真備館

吉備真備公園になっている場所。
この場所は壇の内と呼ばれており、真備の館跡と云われる場所の一つ。
公園の駐車場は広く、産湯井戸・神社・食事所等があり観光地化されている。
周辺には吉備真備一族である下道氏墓所や猿掛城があり、此処が拠点となる。

館石碑

吉備神社

囲碁開祖の碑。
吉備真備が唐の囲碁に勝利したという。
これが日本の囲碁初見とされ日本囲碁の開祖となっている。

吉備真備像

産湯井戸
館の西下。
星の井と呼ばれる。

吉備真備の墓

岡山県倉敷市真備町箭田にある吉備真備の墓

まきび公園に菩提寺である吉備寺と墓がある。
公園は昭和六十一年に中国西安市環状公園に吉備真備の碑と庭園が建てられた事を記念して此処にも公園が設けられた。
公園奥に階段があり、登った先に墓がある。

公園部分
駐車場はあるが、かなり人が訪れる様だ。
何度か訪れて駐車場満員で車が置けず撤収した。
時間帯に注意が必要。

鏡林山吉備寺
吉備真備菩提寺
天平年間に吉備真備による創建。
建物は奈良時代の物が残っていたが、建武年間に足利直義による戦火で焼けたとの事。

吉備真備墓前の堂

吉備真備の墓
下道圀勝の子。唐への留学で知られる。
墓は墳状になった場所に堂と宝篋印塔。

墓がある事は江戸時代に至るまで知られていたが、風化で失われかけていたそうで、
岡田藩主伊東長寛・長之・長生によって整備。
堂横にこの時置かれた墓碑がある。