カテゴリー: 墓・供養塔

森上砦

愛媛県今治市波方町森上にある森上砦

34.125056, 132.932694の墓地がある山。
城館分布調査報告書で触れられている城。
状況は墓地化で全壊し、遺構らしいものは残っていない。

波方には来島氏の城砦群があり、場所的にここもその一つなのだろう。

道は墓地化の為しっかりある

地蔵菩薩。
五十六番の標柱。

守田忠太の墓
墓地内に説明看板が建っている墓がある。
看板曰く、土くどの始祖という。

菊間瓦の原料である粘土は森上・波方からも送られていたが、この辺りは瓦製造の権利は得られなかった。
そこで村役守田忠太は安政四年、瓦土で焼いたくどの製造を思いついた。
これが農村に広まり、明治期に九州・朝鮮にまで販売されたという。

墓碑には
安政四年始
土竈製造元祖守田忠太之碑
明治十九年戌十月四日行年八十三

墓の説明看板。

興禅寺、川田雄琴の墓

愛媛県大洲市柚木にある興禅寺

寶林山。
臨済宗妙心寺派。
本尊は釈迦如来。

万治二年、艦珪禅師による開山。
のち大丘により再建されたという。
また、境内地蔵堂は中村渡場から寛文年間に大洲藩主により如法寺へ移され、文化十一年に再度移転したものという。

境内背後の墓地には県指定史跡である。川田雄琴の墓がある。
細かく案内看板が建っているので迷わずに行ける。

境内の古い堂
地蔵堂とはこれの事?

本堂

川田雄琴の墓への案内看板。

川田雄琴の墓
愛媛県指定史跡。

前面に「・・田先生・・」の銘がある。
ほとんど表面がはがれたり、植物で覆われてしまっている。
かつては「雄琴川田先生墓」とあったらしい

川田雄琴は名を資深といい、
三輪執斎へ師事して陽明学を学んだ。
三輪執斎が大洲藩主加藤泰温に招かれた際に推挙され、享保十七年に大洲藩へ仕えた。
雄琴は大洲藩校である止善書院明倫堂を開校し、教授として学問の振興を図り、
子の資哲、次の資始、資敬と代々藩校教授を務め、寛政二年の寛政異学の禁で中断されるまで続いたという。

側には後代の墓。
・紫淵川田先生墓(川田資敬、資哲の子)
・川田為谿翁室岡氏墓
・為谿川田先生墓(川田資哲。雄琴の子)
・慧球孺人墓

矢野若狭守の墓

愛媛県大洲市菅田町大竹にある矢野若狭守の墓

松の城の下、33.489528, 132.579028に入口がある。
目印標柱が建っており、そこから斜めに道が付いている。
登りすぎに注意。無駄に折り返して登ると別の場所へ出る。

矢野若狭守行定。
すぐ上にある松の城主。
大洲領古城記等曰く、元は和泉に居りここへ移ったという。
永禄十年には土佐方の攻撃を受けており、行定の子・行盛はこの時戦死とも。
天正十五年に死去したと云い、ここの墓碑にも同年の銘あり。

入口と目印標柱

※分岐
ここはまっすぐ。

五輪塔。覆屋付。
清泰院若狭守眞岩玄休居士
天正十五年丁亥年十月九日
この五輪塔は文政十三年七月十四日、子孫の矢野行就らにより建立されたもの。

となりの旧墓碑。
五輪塔の前の墓碑らしく、銘も同様の
清泰院若狭守眞岩玄休居士
天正十五年丁亥年十月初九日

もう一つある墓碑。
天梁?道全居士
天正七年巳卯年九月二十八日

金剛院、源実朝の供養塔

愛媛県西条市福武にある金剛院

仏生山金剛院光明寺。
本尊は不動明王

西条市誌に由緒が載っているものの情報は少ない。
当初は八堂山にあったといい、天正年間の兵火で焼失後に移転という。

境内には県指定有形文化財の七重石塔があり、源実朝の供養塔と云われている。

金剛院山門
西条市指定文化財
万治・寛文年間の建立と云う。
入母屋、一軒、半繁垂木、本瓦葺。四脚門。

佛生山の扁額は一柳頼徳(直卿)の筆。

七重石塔
源実朝の供養塔
愛媛県有形文化財
承久元年に源実朝が殺害された後、室は出家し本覚尼と称した。
文永七年、源実朝五十回忌にあたって、本覚尼が供養塔を建立した。

場所は本堂南側。
33.902167, 133.199056

県指定の旧石碑。
源実朝供養塔とある。

久妙寺、孝農茂左衛門の墓

愛媛県西条市丹原町久妙寺にある久妙寺

梵音山弘法院。
真言宗御室派
本尊は千手観音
耳金城のある丹原総合公園の北へ進むと左手に見えてくる目立つ寺院。
境内は広く、池の前には孝農茂左衛門の墓もある

天平勝宝年間、行基の開山。
当初は法相宗だったが、弘法大師によって真言宗になった。
中世は河野氏の庇護下や、勅願寺になるなどして存続。
江戸時代に入ると松山藩の祈願所になった。
明治期には火災で本堂を焼失したが、大正期に再建された。

参道に地蔵堂。

大師堂と閻魔堂

大師堂は元は阿弥陀三尊を祀った来迎堂。
貞享元年に修理で、宝形扇桷造という。

閻魔像は寛保年間のもの。

本堂
境内・伽藍共に規模が大きい。
両左右に石造宝塔あり。

石造宝塔
居士・大師の法名が刻まれる。
下段に明治十九年七月銘。

石造三重塔。
享保元年に断食で死去した久妙寺再興の快範上人を祀ったもの
弟子の快音上人が宝永三年に建立した。
下部が観音開きになっている。

鐘楼
梵鐘は昭和三十三年銘。

孝農茂左衛門の墓
江戸時代丹原高松林の生まれの農民。
池の前に墓碑と説明看板。

茂左衛門は両親を朝夕毎日、庭に降りて拝んでいた。
両親からやめるよういわれても止めず、一生やめなかったという。
しかられた時は口答えせず、農務の傍ら、薬草や魚をとり金へ変え、両親の好きな物を購入し喜ばせた。
寒い日に病気の父を温めて看病するなど、孝行な人物。
これを松山藩主が知り二人扶持を与えて賞した。

明和四年に死去。

墓碑は周布郡代官所により文久三年建立と云う。

三好監物清房の墓

岩手県一関市藤沢町黄海本沢にある三好監物清房の墓

松柏山公葬地内にある。
ここの墓地高台38.847300, 141.263772のあたりに覆屋付の墓があり、
これが三好監物清房の墓。

仙台藩士。勤皇家。
先祖は阿波の三好氏。三好義元が伊達政宗の家臣になり黄海を知行したという。
監物清房は文化十一年生、蝦夷警備を経て若年寄に出世。
戊辰戦争期において、官軍方へ従うことを主張したが立場を弱くし、慶応四年八月十五日自害。
明治二十四年、正五位。

墓碑は伊達宗敦の建立。

元応二年銘阿弥陀三尊種子板碑
墓地内にある。
小野寺氏が先祖を祀ったものという。
元は別の場所にあったらしい。

河野通信の墓

岩手県北上市稲瀬町水越にある河野通信の墓

ひじり塚として知られている。
39.245226, 141.139319に入口。
タイヤ跡もあり、一応車でも墓前まで進めるようだ。
墓は墳墓タイプのもので、周囲に堀が設けられ、墳墓は大きな木が生えている。
また、鎌倉当時孫にあたる一遍上人が墓参りした際の様子が一遍聖絵にも残っている。

通信は河野通清の子。
玉澄から数えた場合河野氏二十二代。
小千御子より数えた場合越智河野氏四十三代。

通清が奴可西寂により討たれたが、通信と出雲坊宗賢と共に仇を討ち、
源平合戦には水軍を率いて源氏方に付いて戦った。
しかし、承久の乱で宮方に付いた事で陸奥へ流罪になり、
現在の安楽寺にて貞応二年五月十九日六十八歳で死去。
東禅寺殿観光西念大居士。

河野氏は子の一人である通久が幕府方に付いた事で存続。
恩賞として阿波富田を得たが久米石井へ変えて貰い首の皮一枚繋いだ。

通信の墓はその後、
弘安三年に孫の一遍上人が弟子らと訪ねて供養。
その後所在不明になったが、
昭和三十九年にそれらしい墳墓が発見され、昭和四十年の調査で通信の墓と判明した。
なお、愛媛にも東禅寺に供養塔が新設されている。

ひじり塚の看板

タイヤ跡終点。

墳墓。
堀がはっきり残っている。

日高神社、瑞山神社など

岩手県奥州市水沢日高小路にある日高神社

祭神は天之御中主
弘仁元年、奥州三か所の一として創建。
天喜年間、源頼義・義家が前九年の最中、豪雨の為に戦期を逃した。
よってここへ祈願したところ天候が回復し、戦いにも勝利した。

嘉応年間、藤原秀衡社殿の再建
寛永六年、伊達政宗・留守宗利により社殿改築。
明治四年には郷社。

また、境内には留守氏関係の瑞山神社や留守宗直の墓所もある。

姥杉
旧水沢市指定天然記念物

社殿
三巴のほか、菊の紋が一部ある。

留守宗利像

斎藤実手植えの樹
斎藤実は水沢の出身。

宗直墓への参道石碑。
看板にも場所が書かれていた。

留守宗直の墓
水沢伊達氏三代。新田開発を行った。
正輪寺殿機峯宗用公大禅定門
寛文三年五月三日没。

瑞山神社
県指定文化財
日高神社境内社。留守氏累代を祀る。
瑞山は初代家景のこと。

元は岩切城時代、志波彦神社の境内へ初代・伊沢家景から代々を祀った社。
寛永六年に水沢へ入ったのちここへ遷座した。

看板曰く
留守宗利が寛永十五年に没後、ここへ葬られたらしく、宗利廟でもあるという事か。

周囲には宗利の殉死十一名の墓もある。いずれも命名乗りで神社合祀。

殉死者墓①
右から
坂本彦右衛門常時
佐藤太兵衛行高
星三郎實久
三戸与五左衛門助次。

殉死者墓②
右から
吉田杢之丞久國
付岡次郎兵衛元能
坂本蔵人常則
鈴木忠右衛門重勝

殉死者墓③
右から
餘目三平
秦野助左衛門
富沢正右衛門

宗利の勘気により他国へいた殉死者。

大安寺、水沢伊達氏墓所、高野長英の墓

岩手県奥州市水沢東町にある大安寺

太白山。
臨済宗妙心寺派。
留守氏(水沢伊達氏)の菩提寺。

慶長十二年、留守宗利が父政景の発願で一関機織山に創建されたという。
寛永年間に現地へ移転。
数度焼失したが再建され、万延元年に吉祥寺本堂が移築され、改築を経て現在に至るという。

本堂
も恩は三巴・竪三引両・桐

高野長英の墓
幕末期の蘭学・医学で著名な人物。
蛮社の獄で嘉永三年に没。
生まれ故郷は水沢という
長英の没後、交流のあった薬種問屋神崎屋片岡家が遺体を引き取り埋葬した。
のち生誕二百年時、ここへ分霊の墓が設けられた。

右は長英没後三十年・長英母没後十五年の墓碑。
左は高野長運建立の墓碑。

高野氏の墓
横の石碑曰く以下の通り
・初代・高野佐渡守勝氏
 上杉氏に属し、のち留守政景へ仕えた。
 寛永元年九月十七日没
・間に氏信・氏常・氏清・氏昌・氏伸の五代。
・七代・高野元瑞氏安
 文政二年正月十日
・八代・高野玄斎氏信
 文政十年七月廿八日
・九代・高野長英瑞皐
 嘉永三年十月三十日
・十代・高野東英氏俊
 天保十四年五月六日
・十一代・高野長閑氏忠
 明治廿七年八月廿四日
・十二代・高野長運
 昭和二十一年
・十三代・高野長経

水沢伊達氏墓所
境内の目立つところにある墓域、
訪れた当時個々を詳しく確認しそこねた。
仙台人名辞典で安心しきって、水沢関係の物を準備せず。

以下、わかる範囲のメモ用。

留守政景の墓
留守氏十八代、水沢伊達氏初代。
慶長十二歳丁未二月初三日
大安寺殿高嶽玄登大居士
享年五十九歳。

伊達宗衡の墓
水沢伊達氏十代。
浄源院殿故将監清山宗榮大居士

泰源院殿故将監嶽猷公大居士

寛良院殿故土州泰山宗運公大居士

・・・・嶽協公大居士
だぶん伊達宗景。

玉峰院殿屑巖宗潤大居士

霊源院殿猷巖宗俊大居士

蔭淳院殿槐安樹宗大居士

龍雲院殿興源宗隆大居士

留守邦寧の墓
水沢伊達氏十三代。
伊達姓から留守姓へ復帰。

清心尼の墓

岩手県遠野市松崎町光興寺にある清心尼の墓

場所は39.340194, 141.518444
道路沿いから墓や碑・看板も見えている。

根城南部氏二十一代当主。
珍しい女性当主。

元は先代南部直政の妻だったが、直政が早死にし跡継ぎもいなかった為当主になる。

清心尼は南部直栄を養子に迎えて家の存続を図るほか、
南部宗家から古巣の八戸から遠野への移封を命じられ、遠野統治の基盤を築いた。

存在がはっきりとした女性当主であって、
直虎が大河になったのだから、そのうち清心尼も大河ドラマ化されるだろうと思う。

新しい墓石。
正面に、
守貞清尼心公 正保元年六月四日卒壽五十有九