河野氏残党の墓

広島県三原市八幡町野串にある河野氏残党の墓
豊臣秀吉襲撃に失敗した河野氏の墓。この辺りを残党の峯とも呼ぶと云う。

詳しい場所を残していなかった為うろ覚え。
34.477132, 133.076374の辺りに入り口があったと思う。

また、南の高速道路沿いの道途中にも入る箇所あり。
34.476301, 133.076355付近だったと思う。
こちらは墓所の南側すぐであるため、多少藪で覆われているが一番簡単に行ける。
たまに河野氏墓目当てで大勢人が来るらしく、楽したい方はこちらを使うとの事。

文禄元年、豊臣秀吉が朝鮮出兵のため肥前名護屋を目指し移動。
途中、御調八幡宮へ参拝する事を知った河野氏の残党らは
八幡宮の藪に潜み、豊臣秀吉を殺害する計画を立てる。
首領は河野通昭(河野通宣の妾子、複数説あり)、兵三百を率いて襲撃する役は河野通軌。

しかし、計画は事前に漏れてしまい、通軌ら河野残党は捕らえられ処刑された。
通昭も数年後に京都芹川で討たれたと云う。

なお、慶長五年に河野家再興を掲げて伊予攻めを行った河野通軌も存在しており、二人の通軌が存在するという問題もあり。

入り口①。
34.477132, 133.076374の付近だったと思う。
水路があり、四本石柱が並べられた橋がある、道なりに登っていくと墓所へ至る。

入口②の付近
34.476301, 133.076355付近
藪で隠れいるが墓所のすぐ背面にあたる。
墓からだとこの辺りが明るく見えるため、近道であることがわかる。

墓石群
宝篋印塔一基、あとは五輪塔。

コメントを残す