鳥取城

鳥取県鳥取市東町にある鳥取城

久松山山頂域と南西麓に縄張りが広がる。
麓域は博物館や仁風閣、三の丸が鳥取西高になるなど、敷地は現在でも使用されている。
その他二の丸や天球丸などの曲輪も石垣等整備され、公園化している。
訪れた当時は大手門部分で工事を行っており、グーグルマップで現在見ると門らしき物があるので、復元されたのだろう。
山頂部分へは天球丸から遊歩道がついており木々が取り払われ石垣も整備されている。
東から三の丸・二の丸・本丸と続き西に出丸もある。

天文十四年、山名誠通によって築かれた。敵対する山名祐豊への備えであり、縄張りは田原某が担当したと云う。
天文十七年の誠通戦死後は武田豊前守が守り城を整備した。布施天神山城の山名氏に対する謀反の備えとも。

永禄六年、鳥取城に居た武田高信が山名氏に叛した。山名方は中村伊豆守らに鳥取城を攻めさせたが敗北。以降、武田高信が鳥取城を拠点とし山名氏と戦いを続ける。
元亀二年、阿勢井における戦いで、高信は子の又太郎・与十郎を戦死させてしまう、
続く元亀三年には、尼子氏残党の山中鹿之助らに攻撃され、高信は鳥取城を出て鵯尾城へ退いた。
鳥取城へは山名豊国が入り因幡山名の本拠を移した。

天正年間になると豊国は勢力を伸ばした毛利氏に従った。
そのため天正八年、羽柴秀吉による第一次鳥取城攻めが行われる。この時、豊国は羽柴秀吉の降伏勧告に従って羽柴軍に降った。

ところが、この対応を良しとしない家臣の森下道誉・中村春続らは豊国を追放。
天正九年、石見吉川氏より吉川経家を迎えて羽柴軍に抵抗。
同年、羽柴秀吉による第二次鳥取城攻めが行われる。羽柴軍は周囲の山々に陣取り鳥取城を兵糧攻めにした。このため吉川経家は自害し鳥取城は落城。

天正十年には宮部継潤が入ったが、慶長五年の関ケ原の時に宮部氏は西軍に属したたため改易。
慶長六年、池田長吉が入り鳥取城の大改修を行う。

元和三年、池田光政が姫路から鳥取へ移封。城や城下の整備を行った。
寛永九年、鳥取・岡山の両池田氏入れ替えにより、池田光仲が入る。以降城主家の変更は無く明治まで続いている。

箕浦近江宅門
長屋門
鳥取県立図書館にある

吉川経家像
石見吉川氏。経安の子で、天正九年の鳥取攻めで自害。

大手登城道
堀に橋が通り桝形虎口の大手門へ続く。
工事中で立ち入り不可だったが、大手門の復元工事をしている様だ。
おそらく現在は終わっている。

仁風閣
旧扇御殿の場所に建つ
明治四十年、皇太子時代の大正天皇の行幸に際して宿舎として池田仲博が建てた。
建築は片山東熊、命名は同行の東郷平八郎。

内部も完全洋風。

宝隆院庭園
池田慶徳が造った庭園。回遊池泉式庭園。
池田慶栄が死に、夫人の宝隆院を慰めるために設けたと云う。

博物館から二の丸方面への門
老朽化および強風で倒壊した為、昭和五十年に復旧工事が行われた

二の丸
御殿があり、池田吉泰の代に三の丸へ移されたと云う。

山方面に続く石坂。

三階櫓
享保五年の石黒大火で焼失したが再建された。
山上の天守が元禄の頃に焼失した為、こちらが実質の天守的存在。
古写真が残り、訪れた当時復元話も聞いたがはたして。

菱櫓
二の丸南西隅櫓。
二層。

天球丸
池田長吉の姉である山崎家盛夫人の天球院が此処に住んだ為、このように呼ばれたと云う。
此処にも三階櫓があったが享保五年石黒大火で焼失。

巻石垣
文化四年、石垣が崩れそうになったので、補修のため球状に覆ったもの

天球丸下部分は整備工事中

山頂への道は石段がある箇所も。

山頂域石垣

二の丸
休憩所あり。登っていくと此処へでる。

三の丸

山頂本丸
山頂域は山上之丸とも。

本丸井戸
池田長吉の時に掘られたと云う。

本丸からの眺め。
木々が取り払われているため、平野部が一望できる

天守跡
元禄五年に焼失。

出丸
立ち入り禁止だが、本丸から見下ろすことができる。

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