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愛媛県南宇和郡愛南町久良にある弘誓寺
本尊は阿弥陀如来。
浄土宗。
寺はかなり新しいもの。
この辺りは金光寺・真宝寺などの檀家が居たが遠く不便の為、昭和に入って弘誓寺が建立された。
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勧修寺基賢(能山様)関係
32.946117, 132.547476
寺のすぐ北に墓地があり、古木庵という堂が建っている。
能山様を祀っているという。基賢の墓が発見された場所でもある。
能山というのは勧修寺基賢の事。
御荘殿勧修寺氏三代目。西園寺十五将。
菩提寺の興禅寺位牌、および尾崎文書等で、法名「顕徳院殿能山祐賢大居士」から来ている。
天正十一年、長宗我部氏の侵攻によりついに敗戦。翌年には本城常盤城を落とされてしまう。
ここの伝承ではその後勧修寺基賢は久良へ逃れてきたという。
また、ここで勧修寺基賢の墓が発見された。
城辺町史で紹介されている内容は
天文十六年四月九日
顕徳院殿能山祐賢大居士神儀
文久三年七月一日建立
御荘町史での写真銘は
天文十六年子年四月九日
文久元酉三百十六年
加えて顕徳院殿の銘があるという
法名は位牌等の情報と同じであり、基賢のものであるが、
天文十六年には死んでいない。天文五年に死んだ初代基顕(基明)が居るが法名が異なる。
基賢は位牌や文書から天正十六年に没しており、天正を天文と誤ったものと云う。
文久年号は、安政地震の津波で被害を受けた事での再建の為。
この墓碑は此処で見つかったのだが、
発見当初は垣石の一部にされていた。
だが、現在どこに置かれているかが不明。周囲を探しても見つからず、堂が二つあるので中にしまってあるものか。
なお、古木庵内部には基賢の木像があるという。
似たようなケースに織田氏の始祖織田親真の墓発見があり、
越前法楽寺で墓碑が発見された後、現在も織田文化歴史館に展示されている。
基賢の墓も同様にどこかへ保管されているのだろうか。
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能山様の大いちょう
愛南町指定天然記念物
勧修寺基賢が久良へ逃れた後、杖を刺して置いたら根が張ったものと云う。
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いちょうの手水鉢
能山公菩提寺として寄進されたという石碑付
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隣にあるもう一つの堂。
古木庵と大師堂があるというので、これが大師堂?