カテゴリー: 墓・供養塔

安楽寺、御手洗弥三郎道隆の墓

愛媛県宇和島市吉田町河内にある安楽寺

清涼山。
臨済宗妙心寺派
本尊は釈迦如来三尊像らしい。

天正年間、御手洗弥三郎道隆の開基。
元は登蓮寺という寺があったが、長宗我部氏の侵攻によって焼失したという。
その後、安楽寺が跡地へ移転してきた。
なお、吉田古記に二世悦臨得公記室禅師天文十五年二月二十日遷化という記事があるので、天文年間の話かもしれない。

開基の御手洗弥三郎道隆は法華津氏の旗下であり、吉岡山城代。
河野分限録にも法華津氏の武将として唯一名前がある。
境内の右手に山へ登っていく小道があり、その先に墓もある。

鎮守堂
内部に天満宮の額。

境内の忠魂碑
日露戦争で有名な秋山好古の書

寺紋は一つ巴

御手洗弥三郎の墓への道。
本堂右手

御手洗弥三郎道隆の墓
火輪の欠けが激しい五輪塔。
右手には昭和期に建立の累代墓。

平田太郎俊遠の墓

高知県宿毛市平田町黒川にある平田太郎俊遠の墓

32.945918, 132.800145
田の一画に「平田太郎俊遠墓」の石碑。
その奥に五輪塔四基、自然石一基、
背後に五輪塔パーツ群が並んでいる。
中央の五輪塔は各パーツに梵字入り、水輪のみ梵字いまいち判らず。

平田俊遠は平安末期の人物。平重盛の家人。
寿永元年、反平家が活発になる中、挙兵を警戒して源希儀と夜須行宗を討伐。
その後、源氏方の攻撃にあい戦死した。
背後の山は俊遠が拠った平田城。

少し後ろに時代が下った古墓群がある。
こちらも気になる。

弘誓寺、勧修寺基賢の墓の事。

愛媛県南宇和郡愛南町久良にある弘誓寺

本尊は阿弥陀如来。
浄土宗。

寺はかなり新しいもの。
この辺りは金光寺・真宝寺などの檀家が居たが遠く不便の為、昭和に入って弘誓寺が建立された。

勧修寺基賢(能山様)関係
32.946117, 132.547476
寺のすぐ北に墓地があり、古木庵という堂が建っている。
能山様を祀っているという。基賢の墓が発見された場所でもある。

能山というのは勧修寺基賢の事。
御荘殿勧修寺氏三代目。西園寺十五将。
菩提寺の興禅寺位牌、および尾崎文書等で、法名「顕徳院殿能山祐賢大居士」から来ている。

天正十一年、長宗我部氏の侵攻によりついに敗戦。翌年には本城常盤城を落とされてしまう。
ここの伝承ではその後勧修寺基賢は久良へ逃れてきたという。

また、ここで勧修寺基賢の墓が発見された。
城辺町史で紹介されている内容は
天文十六年四月九日
顕徳院殿能山祐賢大居士神儀
文久三年七月一日建立

御荘町史での写真銘は
天文十六年子年四月九日
文久元酉三百十六年
加えて顕徳院殿の銘があるという

法名は位牌等の情報と同じであり、基賢のものであるが、
天文十六年には死んでいない。天文五年に死んだ初代基顕(基明)が居るが法名が異なる。
基賢は位牌や文書から天正十六年に没しており、天正を天文と誤ったものと云う。
文久年号は、安政地震の津波で被害を受けた事での再建の為。

この墓碑は此処で見つかったのだが、
発見当初は垣石の一部にされていた。
だが、現在どこに置かれているかが不明。周囲を探しても見つからず、堂が二つあるので中にしまってあるものか。
なお、古木庵内部には基賢の木像があるという。

似たようなケースに織田氏の始祖織田親真の墓発見があり、
越前法楽寺で墓碑が発見された後、現在も織田文化歴史館に展示されている。
基賢の墓も同様にどこかへ保管されているのだろうか。

能山様の大いちょう
愛南町指定天然記念物
勧修寺基賢が久良へ逃れた後、杖を刺して置いたら根が張ったものと云う。

いちょうの手水鉢
能山公菩提寺として寄進されたという石碑付

隣にあるもう一つの堂。
古木庵と大師堂があるというので、これが大師堂?

安住寺

愛媛県南宇和郡愛南町御荘長月にある安住寺

長月山。
臨済宗妙心寺派。興禅寺末。
本尊は釈迦如来というが現在無く、正観世音大士厨子入りとの事。

寛正四年、興禅寺三世壮詮良祐の開山。七十八歳でここに住したという。
宝暦十二年、火災で一度焼失。
弘化二年、現在の建物が建てられる。周防大島八代の岡田小太郎という大工との事。
また、玉寿庵が倒壊のため、本尊をここへ安置しているという。

安住寺五輪塔
旧御荘町指定文化財。

この寺に江戸時代初期頃の五輪塔がある。
町史曰く寺の伝承では勧修寺基賢の妹の墓と云われてきた。
しかし、銘から蕨岡氏の供養塔という事が判明、
詳細な事は不明ながら、同書では身分の高い人とか、勧修寺氏の縁者か等あるが結局のところ不祥。

蕨岡元次郎女子
寛文二壬酉年
月清妙圓信女
九月廿二日
施主遠山左兵衛藤原信次

また、隣にある船形墓碑は
・維時 延宝元年
祖師西来意為月峰照珊大姉 
丑三月廿七日

・延宝元季
歸真一潤宗志居士
六月十四日

境内にある長月教育発祥の地碑。
昭和五十一年銘。

西光寺、小幡如水の墓

愛媛県南宇和郡愛南町深浦にある西光寺

周囲の道は狭い。自信がない場合、城辺公園から歩いて行く。
境内には小幡如水の墓がある。

法雲山
本尊は阿弥陀如来。浄土宗。

天正六年の創建。元は正覚寺だったがいつの頃からか名前が変わったという。
開山は順蓮社真上人宝園和尚、
天蓮良誉上人正覚和尚が中興という。

境内の堂
阿弥陀如来堂がある、との事だがこれの事か。

小幡如水の墓
愛南町指定史跡。
32.947667, 132.588944の辺り。
寺の道向かいの山斜面に墓地があり、崖の縁を進んでいくと奥にある。
「史跡御荘の三歌人小幡如水の墓」という石柱が目印

外海浦庄屋二宮氏の出身で、二宮右衛門綱重を名乗っていた。
文化八年生まれ、嘉永。安政期に庄屋を務めた。
妻はシーボルト門人の二宮敬作の妹ツテ。
国学や和歌を小澤種春や宍戸大瀧から学んだ。

歌集に岩垣集を著した。

明治四年には広見の庄屋、明治二十年五月十二日に没。
雅聲院清譽如水居士。

尾崎藤兵衛尉の墓

愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城にある尾崎藤兵衛尉の墓

尾崎藤兵衛は御荘殿勧修寺氏の寄騎。
河野分限録にも勧修寺左馬頭基詮に属し、上岡玄蕃允和光・満倉加賀守と共に名前がある。

天正三年、一乗兼定が旧領回復の為に長宗我部氏と戦った渡川の戦いにおいて、
伊予勢からも勧修寺氏・法華津氏・津島殿越智氏が加勢。
一条氏は敗れてしまったが、尾崎藤兵衛尉は敵将を討ち取る等の武功を挙げ、一条康政より感状を受けている。
この感状はその他尾崎氏の文書含め、尾崎藤兵衛尉資料として愛南町指定文化財になっている。

尾崎藤兵衛尉の墓は郷土の地誌系で4つあるとされている。
最も詳しかったのは御荘町史で、それぞれ写真付きで解説されている。
4つの墓は以下の通り
・法華寺裏山の墓
・平城墓地1
・平城墓地2
・下永之岡の墓地
このうち平城墓地1と下永之岡は判らなかったがそれ以外は見つけられた。
※平城墓地1は歴代墓と自然石墓が置かれている場所と云い、背後三基のどれかが藤兵衛尉という。
下永之岡のものは中須賀氏の裏山の墓地にあるという一石五輪塔で、かつて藤兵衛鼻という地名があり、藤兵衛が切られた場所という話が残る。

・法華寺裏山の墓
法華寺のある所から僅かに北に、日枝神社へ上がる道がある。
その参道入ってすぐ左手に尾崎藤兵衛尉の墓がある。
入口は32.966250, 132.564556
墓はその場所に立てばすぐ前にあり、道路からも見えている。藤兵衛尉墓の中で最も簡単に行ける。

覆屋の中には自然石の墓碑が二基あり、梵字も刻まれている。
銘は読めなかったが御荘町史において、二基のうち片方には天正十三年銘があるという。
藤兵衛尉は天正十五年に勧修寺基経からの文書があり、慶長三年没というので、こちらは藤兵衛尉のものとしては断定できないという。

入口。

・平城墓地2
これで合っているかは自信なし。
32.966248, 132.564543
観自在寺北に墓地がある。
御荘町史では並んだ船形墓碑が紹介されており、尾崎氏の墓地近くに江戸時代の船形墓碑が並んだ所がある。ただし、それ以上の情報を持っていなかったので、どれが藤兵衛尉か知らず。
もう一つの平城墓地の物については見つからなかった。

安養寺、土居氏の墓

愛媛県南宇和郡愛南町増田にある安養寺。

板尾津之輔の菩提寺
浄土宗

承和五年、真円空大和尚の開山。
応永二十三年に真宝寺末、真宝寺三代開基との事。
永正年間に火災にあったという。
元は安居寺とも称し、別の場所にあったそうだ。

この寺には板尾津之輔の位牌が発見された事で知られる。

津之輔は御荘殿勧修寺氏の寄騎。
土佐への国境最前線にある猿越城主。
諸国に聞こえた大剛の者として知られ、清良記でもその様子がうかがえる。

天正十一年に長宗我部氏との戦いで猿越城が落城、
津之輔も戦死したとも云うが、清良記では天正十五年時点で存命など、その後が曖昧だった。

そこに位牌および過去帳が発見される。内容は一本松町史にあり、
・過去帳
慶長年間 七月二四日 板尾津之輔
法名 光赫院顕誉義山大居士
・位牌
面:光赫院顕誉義山大居士
  宝樹院殿道誉妙村大姉
裏:慶長二年七月二四日寂
  初代 猿越城主 板尾津之輔
          仝 室
とされている。
天正よりももう少し長生きした様だ。ただし墓はいまだ発見されていない

また、同寺に二代広見城主板尾鶴之輔、という位牌もあり、
没年が慶長二年八月一日。
津之輔の死から僅か数日で跡を継いだ人間が死んでいる。何らかの騒動か。

増田はなとり踊りの碑
県指定無形文化財
寺には高山尊神が合祀され、この踊りの祭神という。

本堂
菊の紋がある。

土居氏の墓
場所は寺より少し南に離れた墓地にある。
具体的な場所は32.980861, 132.655333

この墓が一本松町史でもピックアップされているのは
室町時代末期のものである為。
現状では
「南無阿弥陀佛 為慈父 永正三・・・」と読める。
町史では永正三年十月、土居・・との事。

当時の土居氏が父のために建てた供養塔であり、増田において最も古い石造物の一つという。
増田には庄屋の土居氏が居ったと云い、また三間にはなるが南予には大森城等にも土居氏が居るなど、
それなりに名前が登場してくる一族。国向かいの土佐一条家にも居る。

また、永正年間に寺が焼けた事もあり、関係性など気になる所。
古記録は焼失したらしいので悔しい限り。

善林寺、満倉加賀守一族の墓

愛媛県南宇和郡愛南町満倉にある善林寺

覚満山善林寺

災害にあって来たためか、古い情報が少ない。
元禄二年頃には既に存在しており、
宝暦二年の善連坊の頃に満倉の大商人の木屋・島屋による信仰があって栄えたという。

明治二年、豪雨によって山崩が発生し、寺も墓地も飲み込まれた。
後に犠牲者らしい人骨も発見されたという。
明治十五年、寺が新設。明治三十四年にようやく住職の仏海和尚を迎える事が出来た。

満倉加賀守一族の墓
境内には目立つ大きな五輪塔が四基ある。
一本松町史にて、寺の項で侍の墓というが氏名不明としているが、
同書内の満倉加賀守の項において、もはや伝承レベルであるが、木屋が元禄の全盛期の頃に満倉加賀守一族の霊を祀ったものと云う。

五輪塔自体には地輪になんらかの銘が刻まれた感じは見て取れるものの、何の文字かまでは判別できなくなっている。

満倉加賀守は御荘殿勧修寺氏に属する武将。
河野分限録でも勧修寺左馬頭基詮の寄騎として、上岡玄蕃允和光・尾崎藤兵衛尉と共に名前が見える。
仏門にも帰依深く、宇和旧記に天正十四年に観自在寺へ般若心境櫃を寄進。御荘旧記では天正十年。
満倉城を居城としていたが、その場所は現在も不明のまま。
分布調査報告書にも掲載されてない。

少林寺、二神永世らの墓

愛媛県南宇和郡愛南町城辺にある少林寺

城辺町史では長野山だが、現地石碑では霊松山。
曹洞宗、本尊は地蔵菩薩。

文明十七年、興禅寺の二世全菊和尚の開山。
当初は小林庵と称して別の場所にあり、しょりあん坂という地名もの残るという。
また、宇和旧記で御荘殿勧修寺氏の二代・左馬頭の位牌所というが、
前隠州太守結単成公大禅定門とあり、宇和島に伊達秀宗が入って以降、城辺を知行した山崎隠岐守尚信のものという。

境内には町指定文化財になっている二神永世らの墓がある。

六地蔵と干支の皆様

二神氏墓所。
伊予の二神氏と云えば、二神島を発祥として河野氏に属し中世頃から多く登場する一族。
江戸時代、城辺の庄屋になっており南予でも登場する。

二神永世の墓
「史跡 御荘三歌人二神永世の墓」とある石碑もある。
堀舎二神氏二代当主。
重兵衛綱定。佐太郎や秀平とも称した。
城辺庄屋二神氏の分家であり、二神綱紀の子。
分家した父の綱定は雑貨店を営み、屋号を堀舎と称した。
永世の兄二神綱方は宗家を継いだため、分家二代になる。

国学に修め書物・書画を収集するほか、
俳句に長じており、御荘三歌人とよばれた。また、同じ三歌人の岡原常島は家が隣で交流があったという。
また、曾孫に俳人として有名な芝不器男がいる。

秀徳院祖屋蘭園居士
嘉永七年二月十八日没。

二神深蔵の墓
城辺二神氏当主。
二神具種の子であり、諱を禮和。
十四歳の時に具種が死去した為、堀舎二神氏三代の二神綱永が家事を代行し、
庄屋は川之石の矢野安岐三郎が務めたという。

小澤種春に経史・詩歌、剣を宇和島藩剣術指南の田都味嘉門に学ぶ。
元治元年の長州征伐(年的に禁門の変か)に同志を率いて参戦し、
その功で慶応元年に郷士・溜間での御目見を許されたという。

大正九年九月六日没。

松森喜三左門尉の墓

愛媛県伊予市中山町佐礼谷にある松森喜三左門尉の墓

伊予市指定文化財。
旧中山町指定文化財。
松森喜三左門尉は背後の松森城主。
松森城では森岡喜左衛門の名が伝わるが、名前からして同一人物か。
なお、ここに二基あるのは片方が奥方墓のためという。
毎年八月四日に住職を迎えて供養しているらしい。

場所がかなり判りにくい所にある。
知っていないと到達しにくい。
結論から言うと33.682750, 132.710389の所にある。

場所のヒントは「中山町の石造文化財」にある。
それによると峯成農道を進んだ先に町営上水道水構が第1,第2とありその横にある、という。

しかし、その後に水構は追加され、現在3つある状態。
峰成農道を進んだ33.682750, 132.710389あたりから峰成の集落が広がっており、
入ってすぐに新しい水構がある。そこを無視して進んでいくと、左手に斜面を登っていく道があるので進む、
すると2か所の旧水構が見える。(33.682425, 132.710755に2つの水構)
奥側2か所目の水構を回り込んで背後を進むと、看板と五輪塔へ出る事が出来る。
また、有難い事に伊予市様でも紹介されているが、住所の関係上か場所が山吹をさしており場所が違うので注意。

なお、迷っていた所に地元の方に詳しい場所を伺う事が出来た。
背後の山上にある松森城は、現在こそ公園化して車で上がれるが、
本来はここの峯成側から登るのが城への正規ルートだったそうだ。

峰成の集落入口。

2か所の水構へ登っていく道。
ここが見つけられず、地元の方に案内してもらえた。
下に軍人墓が見える。

二か所の水構

二か所目の背後に古い墓群。
この先を曲がったすぐ先にある。

周囲を取り巻く墓石は苗字無しの江戸期の一般層墓碑で
俗名・法名ははっきりしている物が多い。
五輪塔には銘無し。