カテゴリー: 山口県

妙湛寺、大内豊久丸の墓

山口県山口市小郡下郷元橋にある不動山妙湛寺

34.104840, 131.406066に入口。
大内盛見と子の豊久丸関係の寺院。

盛見の先代義弘は兄であり、応永の乱で死んだため弟の盛見が家督を継いでいた。
盛見は自身の子と兄義弘の子で、将来家督争いになることを憂い、
子の豊久丸を鰐石川に船遊びへ連れて行き、川へ落として溺死させた。

この時、死体が現地へ流れついたため、盛見は妙湛寺を建立したと云う。

なお、盛見が大友持直らに攻められ戦死したのち、義弘の子である持世と持盛が家督を争い、持世が当主になる。
だが、持世が嘉吉の乱の将軍殺しの巻き添えで死ぬと、結局盛見の子教弘が当主になっている。

大内豊久丸の墓
境内左手にある。目印看板もあるので目立つ。
覆屋あり。
妙湛寺殿玉林光信童。

覆屋中の墓石
宝篋印塔や五輪塔、自然石、地蔵など

和智元郷の墓

山口県宇部市床波にある和智元郷の墓

33.955381, 131.317617の墓地にある。
和智氏十代当主。
和智氏は南天山城等を本拠とする備後の有力国人。
毛利氏が勢力を伸ばしてくるとこれに従っていたが、先代・誠春が毛利隆元の死に関与していたとして厳島神社へ幽閉された後に討たれた。
子の元郷は許されてそのまま毛利氏に属し、慶長五年の防長移転後は西岐波の旧山村給領主になった。
灌漑で功績を遺したと云う。

隣の和智氏合葬墓
元郷以降は無い物かと思ったが、明治六年に建てられた合葬墓があった。

二宮就辰の墓

山口県防府市伊佐江にある二宮就辰の墓

34.040561, 131.552619にある。宝篋印塔
毛利氏家臣。二宮春久の子。
毛利元就の子であるとも云う。
毛利輝元の側近として能く補佐を務め、慶長十二年没。

墓のある周辺一帯に領地があったと云い、自衛隊施設建設のため此処に墓が移転した。

善福寺、吉見広長の墓

山口県萩市川島にある指月山善福寺

臨済宗南禅寺派。

永享年間、翔天源和尚の開山と云う。
石見安国寺から隠居して指月山麓に草庵を結んだのが始まり。
天文年間には大内義隆から寄進状があり、萩の地名はこの文書が初見と云う。
慶長九年に指月城が築城されるにあたり、現地に移転した。

織部灯籠
笠部分を十字架に見立てキリシタン灯籠とも

吉見広長の墓
石見吉見氏当主。
吉見広頼の子。吉見氏は毛利氏に従っていたが、不満を持ち出奔。
のち萩へ戻り許されたが、元和四年毛利輝元に疑われ討ちてが差し向けられて自害。

左の墓碑に覚樹院殿月庭清秋大居士があり、これが広長?
※看板曰く広長は覚林院殿月庭清秋大禅定門で大まかにあっている。
なお同墓にもう一人、大□院殿・・・大居士の銘あり。
右となりの墓碑は文字が読めず。

墓地入口が虎口の様。

竹原七郎平の墓

山口県玖珂郡和木町和木の安禅寺にある竹原七郎平の墓
彦根藩士。七郎平と従者二名(一人は曽根佐十郎)

芸州口の戦いで使者として河を渡ったが戢翼団の銃撃で戦死した。
戢翼団隊長の品川清兵衛が三名の遺体を安禅寺へ葬った。
墓碑には彦根戦死の墓。

芸州口の戦い古戦場

山口県和木町と広島県竹原市を跨ぐ芸州口の戦い古戦場
34.205106, 132.216830和木町側の石碑
34.206814, 132.217239竹原市側の看板

慶応二年におきた四境戦争で、芸州口の開戦は広島藩・岩国藩の境となっている小瀬川を挟んで行われた。
六月十四日、両軍川を挟んで対陣する中、彦根藩の竹原七郎平が従者二名と共に使者として渡川しようとした。軍使とわかるよう赤い陣羽織に軍扇を開いて、封書を掲げた姿だった。
一方で反対の岩国側に居た品川清兵衛率いる戢翼団は敵が先陣を切ってわたって来たと思い銃撃し、七郎平らは戦死した。
是を機に両軍開戦し、結果は長州側の圧勝し彦根藩兵らは敗走した。のち大野で幕府軍も盛り返して激戦になるも、征伐するはずが防衛戦になってしまっている。

なお、七郎平の遺体は調べられ後から使者である事が判明。のち品川清兵衛によって遺品が回収され明治に遺族へ返還されたとの事。
ほか、清兵衛によって墓が建てられている。

竹原七郎徒渉地点の碑

小瀬川
広島・岩国の境であり、川のもたらす利益を巡って争いが起きた事もあった。

三秀神社記念碑
広島・岩国の小瀬川を巡る境争いは宝暦二年に死者を出す騒動に発展。
享和二年に双方が和解し国境を確定させた。
神社は騒動で犠牲になった野分新六・坂戸源右衛門・児玉治良兵衛を祀ったものと云う。

吉川氏墓所(岩国)

山口県岩国市横山の吉川氏墓所
34.169181, 132.174189などに入口。
毛利氏防長移転に伴い吉川広家が月山富田から岩国へ移っていこう使用された墓所。
十七代・広家~三十代・元光までの墓がある。

墓域は平地にある墓域と、山側の墓域に分かれる。
平地側はほぼすべての墓に被葬者の石碑があるので安心。
平地側から山側へ入った墓域には広家・経幹の墓がある。
さらに北東側(平地側墓地から入って右方面)へ道をたどっていくと山側墓地に出ることができ、経永・経建・元光の墓所がある。

山側墓域。
実相寺墓所とも云う?

十七代・吉川広家の墓
吉川元春の三男。先代の元長は長兄。次兄は阿川毛利初代の毛利元氏。
幼名を才寿丸。長らく経言と名乗っていた。

 永禄四年に誕生し、元亀三年に吉川氏一族の宮庄氏の後を相続した。だが、続いて小笠原長雄の養子になる事になったが、毛利輝元によって破談にされた。所領も百五十貫と少なかった。
 元亀元年、尼子勝久との戦いで初陣を果たし、天正三年に夜襲で因幡私部城にて一番乗りを果たした。また、のちに備中忍山城も夜襲で落とした。天正十年に毛利・羽柴の和睦が成立すると人質に選ばれ、小早川秀包と共に大阪に赴いて秀吉に謁見。蔵人に任ぜられのち帰国を許された。帰国後は毛利輝元より隠岐国を与えられた。

天正十五年、父の元春と兄である元長が死去した。この時元長は家督を広家にと遺言していたため、家督を相続し、箱崎に在陣していた秀吉にも拝謁して、戦いが終わると輝元と共に安芸へ戻った。この時、名前を経言から広家に改めた。
 広家が領地に戻って一月後、島津残党が再び活動し始めた為、九州へ出陣した。毛利吉成と共に岩石城、城井谷城等を落として豊前を平定、続く天正十六年、肥後方面に進んで戦い小早川隆景と共に肥後を平定する。しかし、残党が再び現れたため隆景と共に再出動して残党討伐にあたった。六月には戦いが終わって領地に戻ったが、翌月には輝元・隆景と共に大阪の秀吉を訪ねた。この時聚楽第で饗応され広家は太刀・豊臣性を賜り、従五位下侍従に任ぜられる。この時毛利輝元も従四位上、小早川隆景も従五位下に任ぜられており毛利・吉川・小早川の厚遇ぶりが伺える。さらに再び参内した際に隆景と共に従四位下に昇進した。
 その後、暫く京都に滞在し聚楽第における歌会にも参加した。のち九月に京都を出発して陸路で帰国。広家が帰国すると宇喜多秀家の娘との縁談話が起こり、広家はいったん辞退したが、輝元・隆景に勧められて受諾した。天正十六年において日野山城内において婚儀が行われ、石芸備の諸将のほかに、前田利家、上杉景勝、細川、佐武、島津、大友からも祝賀の使いが届いた。そして夫人の新居として吉川館の側に松本屋敷を築いて住まわせたのだが、夫人は天正十九年に早死にしてしまった。のちに万徳院に葬られている。

 天正十八年、秀吉が北条氏政を倒すべく全国の諸将に参陣を促した際には広家も出陣し、尾張星崎城に在陣して後方の守備を固めた。のち小田原城が開城すると領地に戻った。
 天正十九年、毛利輝元が秀吉から百二十万石の朱印状を得ると広家も度重なる軍功を賞せられて伯耆国汗入・会見・日野、出雲国能義・意宇・島根、隠岐国、石見の一部、安芸の領地を合わせて十四万国の大名になった。この時輝元より新しい本拠地を月山富田城にするよう命ぜられた。よって広家は富田城に入場し、のちに岩国に移封となるまでの本拠として使用。

 文禄元年、天下を手にした秀吉はが朝鮮を侵略すると言い出し、諸大名へ出兵を命じた。広家は輝元と共に出陣して第七軍に属して富田から名古屋城に進み、渡海して釜山に上陸を果たした。四月においては後方の守備を担当し、六月まで聞慶を守る。六月中旬には醴泉において戦った。のちに北進して前線の守衛を行った後、京城の西大門外において陣を敷いていた。
 文禄二年、李如理率いる明の軍勢が襲来し、小早川軍と衝突する。広家もこの戦いに参戦して、毛利秀包と共に碧蹄館において激戦となった。この戦いで明の軍勢を退けて六千ほどの首級を挙げたらしい。続いて京城西の幸洲山城攻めに加わり、講和によって一旦京城から釜山へ退いたが、慶尚道南部の晋州城攻めに参加、続いて釜山のあたりに城を築いて在陣していたが、文禄三年九月になって秀吉が撤兵を命じたため、広家も帰国した。

 慶長二年、秀吉は再び挑戦への出兵を行った。この戦いに広家も招集され、再び釜山に上陸した。加藤清正らと共に全洲まで進み、宇喜多秀家に属して石城まで進軍したのち、忠清・全羅において戦った。十二月になると蔚山城に入った浅野幸長が明軍に包囲・攻撃され始めた。加藤清正が援軍として蔚山城に入ったが、兵糧も乏しく苦戦した。そこで、毛利秀元や黒田長政らは蔚山城を助けるべく蔚山南あたりまで進軍した。広家も毛利秀元の元へ参陣して、高地より敵を観察する。敵の動揺した事を確認するや直ちに的中に突撃を仕掛け、家臣たちと共に五百の敵を討ち取った。これを知った黒田長政や藤堂高虎も戦いに参加して明の軍勢を破ることに成功した。
 この時の軍功を賞するため、のちに加藤清正が広家の陣を訪ねてきた。清正は広家が使っている蒲の頭が遠くからだとわかりにくいので、清正の持っている婆々羅の馬印を使ってはどうかと提案し、広家も了解して馬印を拝領し赤色に変えて使用した。
 のちに慶長三年に秀吉が死去したため、戦いを中止して撤退した。

 慶長五年、上杉景勝が徳川家康を非難して討伐の兵を挙げた。当初毛利輝元は広家と安国寺恵瓊を派遣して家康救援に向かわせていたが、その道中で実は家康討伐の軍であり、輝元も乗り気であると知らされる。広家はこれには反対しており、広島城へ使者を送って意見を求めると、毛利重臣たちも広家に同意した。そこで、輝元が大阪城へ入城する事を阻止しようとして、まず椙杜元縁を広島に遣わして、宍戸元続に家康征伐の話がある事、毛利輝元を広島にとどめておく事を伝える書状を送る準備をしていた。しかし、輝元は大阪にはいってしまったので、失敗した。結局徳川方の伏見城攻撃にも参加することになり、近江瀬田の築城にも加わった。

 だが広家は家康に味方したいという考えを捨てておらず、福原貞俊と相談して黒田長政に輝元の大阪入りは豊臣秀頼を守るためで、徳川に敵意は無い旨を伝達しておいた。さらに使者の一人である藤岡市蔵を黒田長政の元に残しておいた。
 こうした広家の動きがしだいに西軍内部で怪しまれ始めており、長束正家と安国寺恵瓊は徳川の城である阿濃津城攻めを命じた。広家は立場上断るわけにもいかず、城攻めに参加してしまい、西軍からの疑いは晴れたが、広家が内通しようとしていた黒田長政が大いに驚いた。そこで黒田長政は藤岡市蔵に家康に対して弁明するよう書状をしたためて広家に送った。広家もこれを聞いてその旨を三浦伝右衛門を使者として黒田の元へ遣わし、黒田も福島正則と相談して三浦伝右衛門を家康に引き合わせた。家康もこれを了解して、広家・福原貞俊・井伊直政・本田忠勝の連署で起請文を作成し、毛利の本領安堵が取り決められ、毛利氏は戦いには参戦しない事になった。

 九月十五日に石田三成と徳川家康が関ヶ原で対陣しての戦いが始まると、広家は一応西軍として関ヶ原東の山麓に陣を構えた。結局石田方の出動要請にも応じず、山上に布陣する毛利秀元や安国寺恵瓊を動かさないように努めた。のちに黒田・福島から人質を出すよう依頼があったので、福原左近と栗屋十郎兵衛を人質として送った。
 しかし、毛利輝元が大阪城から木津邸に移ったのち、家康は寝返りの証拠が出たとして所領を没収すると言い出し、結局毛利氏は防長二か国に減封されてしまった。輝元はこれを機会に隠居して家督を毛利秀就に譲ってしまう。
 広家は毛利氏の存続させる事には成功したが、所領の大半、故郷である安芸も失ったことで、内部からの批判を浴びる事になった。この弁明として、西軍には勝ち目がなく、たとえ家康を討ち取ったとしても良いように使われるだけ、そもそも輝元と家康は義兄弟の契りを結んでいるので、戦う意味がない。また今回の事はかつて備中高松で小早川隆景が豊臣秀吉と和睦した時と一緒であり、所領を減らされたが、以後豊臣から厚遇されているのである。と述べている。

 関ヶ原の戦いが終わったのち、広家は江戸、京都、岩国をあわただしく行ったり来たりして、普請や城下町整備を行った。

 毛利氏が防長二か国に減らされた為、当然吉川氏の所領を移さなければ成らなかった。広家は出雲から岩国への移封をせざるを得なくなった。広家はいったん家臣たちを本拠である出雲へ集めて、いったん解散を命じ、希望者のみを岩国へつれて行くこととした。まず桂但馬を先発させて城下町の整備を行わせ、のち吉川一族の人々が入封を始めた。その後、広家も遅れて岩国に入り城下町の整備に加わった。しかし、すぐに広家は京都に向かった。
 慶長七年には黒田如水危篤のため、伏見へ見舞いに行った後、伏見城の石垣普請を命じられたため、祖父九右衛門らを派遣して担当させた。翌慶長八年には徳川家康の将軍宣下の祝いを行い、熱海の湯桶を拝領して一旦帰国、のち萩へ入った毛利輝元に謁したのち、また京都へ上って家康に拝謁し、ようやく帰国した。
 しかし慶長十一年、今度は江戸城の普請要請によって江戸に向かった、普請が着工したのち徳川秀忠から刀筒を拝領、のち脇差、鞍置馬、呉服などを賜った。

 慶長十三年、居城である岩国城が完成。しかし、駿府、篠山などの各城の普請、伊豆仕置石普請慶長十九年には江戸城の石垣修築を命じられたので、家臣を派遣してその対応に追われた。
 室木に新開作を築いて開拓を始めつつ、家中の決まりである御家中諸法度を整備していたころ、中央では大阪の陣が発生していた。広家は留守中の法度を定めたのち兵を率いて大阪に到着する。この時、実は毛利氏家臣だった内藤元盛が佐野道可と変名を用いて大阪城に入場していた事が判明。広家は事態の収拾を依頼され、徳川と豊臣が和睦した際に、宍戸道可の切腹が行われた。また、広家はこの和睦を機会に隠居したいと願い出ていた所、元和元年に再び大阪の夏の陣が勃発。しばらく隠居は延期になって豊臣秀頼の自害によって戦いは終った。

 戦いが終わったのち、江戸幕府は元和元年に一国一城令を発布した。大名達の力を抑制するための法令であり、毛利氏は指月城を残して廃城とした。広家は周防は岩国城のみであるので、存続させたいと願い出たのだが、長府毛利氏の串崎城が破却された事を考慮されて、輝元から拒否された。そのため、完成して数年ではあったが、岩国城は破却された。のち、城麓にある居館部分を本拠として用いた。
 元和二年、ようやく正式な広家の隠居がかない、家督を子の広正に譲った。広正は暫く萩での仕事があったため、広家は岩国に残って城下整備を続けた。この間家老五人制を定めるほか、幕府から江戸屋敷の手伝い普請をやらされた。
 元和九年には通津の隠居所がついに完成したので、広家は岩国から移り住む。寛永二年、毛利輝元の危篤を聞いて見舞いにいったが輝元は死去。その後領地に戻ってくると広家も体調が悪化して、そのまま隠居所である通津の館において六十五歳で死去。 

十八代・吉川広正の墓(右)
吉川広家の子。幼名を長熊。
 慶長六年に生まれ、慶長十六年に元服して広正と名乗る。慶長十九年に広家が大阪の陣に出陣すると、若年ながら留守居役を務めて、続く慶長二十年、大阪夏の陣においては自らも出陣しようとしたが、大阪城が途中で落城したため断念、徳川家康に拝謁してから岩国に帰った。
 元和二年には広家隠居によって家督を相続し、毛利輝元の娘との婚礼を行った。元和三年には上洛して伏見城で徳川秀忠に拝謁して、吉川氏の所領は三万七千石として定められ、美濃守となった。
 元和五年、お隣の広島に入封した福島正則が、広島城の修築を無断で行ったとして信濃へ飛ばされる事になった。しかし、家臣たちが容易に応じなかったため、幕府から毛利・吉川に出動命令が来る。毛利秀就は長府の毛利秀元と広正を連れて広島へ向けて出陣した。広正が五日市まで進んだ頃に広島城は開城したため、戦いは中止となり、そのまま京都まで進んで秀忠に挨拶したのち岩国に戻った。

元和九年に徳川家光が上洛する事になったので、広正も上洛し拝謁する、続いて寛永二年に毛利輝元が死去したので、葬儀に参列するが、直後に隠居の広家が死去してしまった。
 寛永三年、萩藩の政策で防長の検地が行われた。岩国においても検地が実施され調査の結果吉川氏の石高は六万石と定まった。寛永五年、大阪の手伝い普請をやらされ、寛永六年には参勤交代のため江戸に赴き徳川家光・秀忠に拝謁した。寛永十年に岩国に巡検使がきたので、もてなした。寛永十一年には徳川家光の上洛に合わせて広正も上洛した。この時、長府藩・徳山藩主より領地の朱印状をもらってはどうかと提案されたが、広正は断った。そこで萩藩主毛利秀就が代わりに広正に六万石を分知している旨を申請した。この年、領内においては朝鮮通信使が来日し、岩国を訪れたので、接待を実施した。

寛永十四年、島原の大名である松倉氏の圧政によって天草時貞らキリシタンが挙兵。原城を本拠として令洲近郷を襲い始めた。広正は子の広嘉を出陣させる予定であったが、準備をしていたら島原の乱は鎮圧されていた。また、この戦いで島原における民が減ったため、岩国から二名の移住者を募って派遣した。
 
その後、慶安二年と慶安四年に江戸参府を行い将軍に拝謁。寛永二十年、明暦元年に朝鮮通信使が来たのでもてなし、承応元年には巡検使がきたのでこちらも饗応している。明暦三年には明暦の大火が発生し、諸大名は将軍に献上品を送ることになっていたのだが、暫く停止するとして、岩国の呉服献上も暫く停止した。
 万治元年、毛利氏当主の毛利綱広が初めて国入りをするために江戸からやってきたので、広正は岩国において綱広をもてなした。

寛文元年に隠居するための中津屋敷が完成。ここで暫く政務をとっていたものの、後に正式に隠居を願い出て寛文五年に広嘉に家督を譲った。この翌年の寛文六年に六十五歳で死去した。

十九代・吉川広嘉の墓
吉川広正の子。幼名長松丸。広純とも。
 元和元年に産まれ、寛永三年に祖父広家と厳島参拝のちに江戸へ人質に出た。寛永十一年に元服し、十七年からは広正に代わって政務を行うようになった。こののち、広正の代理を務めるようになり正保四年に萩藩への銀三百貫の貸付を行い、ついでに有馬温泉、伊勢、吉野、高野山旅行にも出かけた。

 慶安四年頃から病にかかってしまい、闘病生活を行う。承応元年に療養のために京都へ滞在し、大徳寺龍光院の翠厳宗珉と親交を深める。この間、広正の名代として江戸に赴くことになり、二度将軍に拝謁したのち京都に戻ってから帰国した。万治元年にも広正名代を務め江戸へ向かった際には病は回復に向かっていたが、再び病をぶり返し、帰国途中の京都で滞在し、有馬温泉で湯治の後に帰国。この頃、広嘉と名乗り始め、家督相続の話も出ていたのだが、容体が回復しないので、暫く広正が政務を見ることになった。のち寛文五年に広嘉が家督相続。

寛文四年、病を独立性易に診て貰った際、杭州西湖の橋の事を聞き、岩国への新橋架構想を思い立つ。延宝元年に完成したが、翌年に流出。その後試行錯誤の結果、延宝六年に掛け直された橋が正和二十五年まで使用された。

延宝七年になると毛利綱広からの推挙で官位の内諾を得たので、萩に赴いて米一万石を送ったが、この年の八月に萩で体調を崩して五十九歳で死去した。

二十代・吉川広紀の墓
吉川広嘉の子。幼名長熊。内蔵助。初めは広猶。
 万治元年に生まれ、延宝三年に広嘉と共に江戸へ赴き、毛利綱広と対面して広猶と名乗る。続けて徳川家綱に謁見して翌年に帰国した。延宝七年には広嘉が死去したため、家督相続申請を行い、翌年に幕府からの許可が下りたので、当主となった。徳川綱吉および毛利広綱に対して家督相続の礼と挨拶を行った後、広嘉の時に出ていた官位推挙の話を進めようとしたが、萩藩内で毛利綱広が家督を降ろされる事態があったため、後回しにされた。この件は元禄六年にも伺いを立てたが、毛利吉就の死去にともなって再び延期されている。

広紀の代には毛利氏との家格騒動が起こった。
 幕府が三河記を編纂するため、幕府は史料集めとして諸侯に史料の提出を求めた。吉川広紀も資料を提出したのだが、本藩である毛利氏の書き添えに松平長門守家来・私一族家老の者とあり、吉川氏を毛利氏の家臣扱いした表現を用いた。これが元となって騒動となり、書き添えの訂正が行われた。
また、元禄八年に萩藩において萩蔵の普請を行う際に大綱が必要となり、吉川氏岩国の役人が貸す事になった。萩藩の役人が受け取りに行くと、吉川側の役人は一本銀二分の利用料を求めてきた。さらに石や土が必要なので取れる場所を訪ねたところ、わざと遠い場所を示して困らせるといった事件も起こった。

元禄九年、広紀は毛利吉広国入りの祝賀のため萩を訪れたが、頭痛がおこりそのまま萩において三十九歳で死去した

二十一代・吉川広逵の墓
吉川広紀の三男。幼名勝之助。
元禄八年に生まれたが、元禄九年に広紀が死去したので二歳で家督を継ぐことになった。当然政務などは出来ないので祖母の広嘉夫人である天長院が後見した。しかし翌年に天長院が死去したため、母である広紀夫人の蓮徳院が後見を務める。
 元禄八年に生まれたが、元禄九年に広紀が死去したので二歳で家督を継ぐことになった。当然政務などは出来ないので祖母の広嘉夫人である天長院が後見した。しかし翌年に天長院が死去したため、母である広紀夫人の蓮徳院が後見を務める。

広逵の代にも毛利氏との関係がこじれる事件が起きた。
 吉川氏は広正の代に毛利輝元が自分の娘を両家和睦のためとして、広正に娶らせた。この広正の室は常に萩に居住し続け、子供たちもそこで育っていった。そして広正は定期的に萩へ参勤して萩藩政を執り行わされていたのである。このやり方は徳川幕府の参勤交代制とまったく同義のものであり、毛利氏に吉川氏は陪臣であるという認識を与えてしまった。以降代々、妻子を萩へ送り萩参勤を行ってきたが、広逵の代になると少し事情が変わってくる。広逵が家督を相続したのが二歳の時であり、萩の政治を執り行う事が不可能であったのだ。
 この頃、広逵の後見を行っていた蓮徳院はこれを機に萩毛利氏に対して広逵の官位叙任を萩毛利氏に対して申請した。しかし、この申請を萩藩側はつっぱねてしまった。そこで蓮徳院は母であった大奥の老女となっていた高瀬を頼って幕府に働きかけ、老中の秋元但馬守を動かした。宝永五年に秋元但馬守より毛利吉元へ広逵任官の話を持ち掛けた。しかし、毛利吉元はこれに怒って、吉川は毛利の家臣であり、主家を飛ばして幕府に申請した事に腹を立ててしまった。よってこの申請は吉元によって却下された。また、吉川氏の江戸参府は毛利氏に伺いをたててからの実施であったため、関係がこじれた関係で参府がすんなりと行かなくなった。宝永七年には蓮徳院が再び萩藩に頼んだが拒否され、この年の十月に萩から志道玄蕃が派遣され、吉川氏は毛利氏の家臣である旨を伝達してきた。この件で両者の関係はさらに悪化。

 正徳四年にも再び蓮徳院が毛利吉元へ談判しに萩へ行ったのだが拒否され断念した。その翌年の正徳五年二月に、広逵は江戸参府を行い徳川家継に謁見したのだが、六月十九日に病死してしまった。二十一歳の早死にであった。

二十二代・吉川経永の墓
吉川広逵の子。左京。幼名を亀次郎といった。
墓は山側奥の墓所。墓は新しく建て直されており、他の一族も名前が刻まれている。

 正徳四年産まれであり、正徳五年に広逵が死去したため、二歳で家督を継ぐ。兄弟がいなかった為、経永が死去してしまうと吉川氏は断絶になる。そのため萩藩は従来通り、萩で養育をと言ってきたが、吉川側はこれを拒否して萩へは赴かなかった。しかし、断絶の危機には変わりないので、徳山藩の毛利元次から毛利三次郎(毛利広豊)を経永と兄弟とするよう働きかけがあった。だが吉川側はこれを断ってしまい、徳山藩が一旦取り潰される騒動もあって沙汰止みになった。

 享保元年、蓮徳院が死去し、経永の母である正理院が後見人の地位を継いだ。
 この頃、吉川側では毛利離れを進めようと、そもそもの吉川氏の通字である経の字を復活させようと考えた。広家から五代にわたって広の字を用いてきたが、この字は大江広元からとっているようで、毛利氏との関係性が強い。興経の時から使われなくなっていた経の字を復活させることで、毛利氏への依存を薄めて独自性を強めようとした。
 これは曾祖母である大奥の高瀬より申請され、享保四年に経の字を用いることが決まり、経永と改めた。

 享保八年、江戸参府を行うため毛利氏へ伺いを立て、ようやく萩へ赴いた。毛利吉元が参勤するので三田尻まで移ってようやく許可をもらった。五月に江戸へ向かい、徳川吉宗に謁見し、十一月まで江戸に滞在した。

 経永は幼少で家督相続する事になったため、政務は母や家臣たちが専ら見ていた。享保元年には岩国で一揆が発生。農民の要求である税の改正を飲むことになった。しかし享保三年に吉川側はこれを撤回。当然農民は再び立ち上がり、今度は萩へ訴えに行った。萩・岩国間で協議して裁定がでたものの、農民はこれを不服として拒否して、萩の蔵入り百姓になる事を要求し始めた。これを機会に萩藩は岩国の政治に直接かかわろうと動いたため、享保四年にこれを拒否した。
 享保十六年に経永は元服したことで会議に参加するようになったが、元文元年に吉川外記による藩費着服が発覚。十数年に及んで藩の財政を食いつぶしてしまった事で岩国は財政難に陥った。また、吉川氏の家格改善運動による出費も合わさって更に疲弊していった。
 元文四年からは経永が自ら政治を取り仕切るようになり、訴訟箱設置や節倹令を実施して領内の改革を進めていった。
 
 延享三年に徳川家重が将軍になると祝賀のため、江戸参府を行い、宝暦二年には毛利重就が国入りしたのでそちらの祝賀にも出席。宝暦十年には徳川家治が将軍職を継いだので、宝暦十一年に挨拶のため江戸参府を実施。
 明和元年、上関で朝鮮通信使の接待を行っていたが、三月ごろから体調を崩してしまう。そして十月に入って五十一歳で死去してしまった。経永には子が四人いたが、すべて早世してしまっていた。そこで、吉川氏そもそもの血統である藤原氏の血をまぜるべく、公家の堤代長の子である万寿丸を唯太郎と名乗らせて養子にしようと動いたのだが、唯太郎の早世でこの話はなかった事になった。結局のところ宝暦九年に再び徳山藩毛利氏からの養子話が出て、毛利豊房が経永の養子に選ばれる事になった。

二十三代・吉川経倫の墓(右)
徳山藩主毛利広豊の子。吉川経永の養子。つねともと読む。はじめ吉五郎、毛利豊房と名乗っていた。ほか永貞。監物。
毛利からの養子だが、一応先祖には吉川国経がいるでの血筋と云えば血筋。

 延享三年に生まれて宝暦七年に経永の義弟として岩国の仙鳥屋形にやって来た。名を毛利氏から吉川永貞と改め、明和元年に経倫と改めた。しかし、この年に経永が死去したため家督を相続。萩の毛利氏にも挨拶に行ったが、毛利氏当主の毛利重就は聡明であり、経倫に対しての配慮もあったので、険悪にはならなかった。明和三年には江戸へ参府して徳川家治に謁見。のち帰国したが、木曽川普請を命じられたため吉川内記に命じて担当させた。
 明和五年には横山寺谷口に藩士の教育機関として講堂を設置、明応八年には一柳末栄の娘と婚儀を行い、越智一族の血を入れた。

 経倫の代も先代から続く財政難が続くだけでなく、安永七年に幕府から日光霊屋と本坊の修理を命ぜられ宮庄主水を派遣。また、家格昇格で奔走した香川又左衛門が是正を求めて暇乞いを行い、天明元年には長く政治を助けていた正理院が死去するなど、不幸な出来事が重なった。
 天明六年には四年前に毛利の家督を継いだ毛利治親に謁見。また同年に幕府から関東の河川堤防修復工事の手伝い普請を命ぜられ、金を供出させられた。寛政元年には徳川家斉の将軍就任における挨拶を行う。
寛政四年に文武両道を奨励し、この年の九月から隠居を考えており幕府へ申請を出し、十月に承認が下りたので、家督を子の経忠に譲った。
のち、寛政五年に隠居館である昌明館が完成したので移り住む。現在岩国吉川資料館。
享和三年に同所において五十八歳で死去。

二十四代・吉川経忠の墓(左)
経倫の子。菊川金璽、和三郎、倫序、経通とも名乗る。
 明和三年に側室の子として生まれ、天明三年には経倫の嫡子と認められて吉川氏を名乗り始める。寛政二年には経倫の名代として萩に挨拶に赴く。寛政四年に経倫が隠居したので家督を相続し、その機会に経忠と名乗った。寛政六年に徳川家斉に謁見し、寛政八年に毛利斉房の国入り祝賀に参加した。

 寛政十二年からは財政改革に着手する。元々吉川氏は毛利の陪臣扱いされている為、通常の大名と違って参府も緩く、妻子も近くの萩に置けた。また、紙の生産も軌道に乗って財政的には良い方だった。しかし、長年の家格昇格の工作活動によって財政を食いつぶし、ついに借金まみれになってしまっていた。しかも紙の生産も徐々に衰え始め、参府や手伝い普請で費用がかさみ、都度財政改革や一時しのぎの政策を行っていたが、錦帯橋補修や日光の修繕によって莫大な追加費用がかさみ、追い打ちの洪水によってどうしようもない状態になっていた。寛政十一年に借金の調査をしたところ一万四百七十六貫目であり予算が組める額ではなくなっていた。
 そこで翌年から宮庄主水と今田中務が改革の担当に選ばれたのだが、借金が多すぎて上手くいかず、辞退した。しかし、宮庄主水は辞退が拒否されてしまったので、借金の銀主たちと交渉を始めた。条件・返済計画をまとめて経忠の承認を得ると、進藤五兵衛を銀主の居る大阪へ派遣して、五年間は元利払いを停止し、その代わり借金千貫につき百五十人扶持を渡すという条件でなんとか取りまとめた。対象外の借金もあったが、新田開発、産業の振興、倹約徹底を実施して財政回復を行った。

享和元年には広島藩との国境である小瀬川で境界論争が起こった。さらには死者が出る事件にまで発展したので、双方が交渉して川に杭を打つことで決着した。
 享和二年には江戸参府して徳川家斉に謁見したのだが、享和三年に麻疹で体調を崩し、そのまま三十八歳で死去した。死んだのは五月であり、九月には父である隠居の経倫も死去している。二代続けての死去によって再び出費がかさみ、寛政十二年から続けている借金の返済計画が崩れてしまった。

二十五代・吉川経賢の墓
吉川経忠の子。勘三郎、忠進。最初は菊川氏を名乗る。聡明な人物であったという。
寛政三年に生まれて、享和三年に経忠が死去したため家督を相続した。文化元年に毛利斉房へ挨拶伺いに萩へ赴き、文化三年には徳川家斉に家督相続の挨拶として参府し、四月に帰国する。しかし、この年に脚気を患ってしまい十二月に十六歳で早死。

二十六代・吉川経礼の墓
吉川経忠の次男。兄に先代の経賢。つねひろと読む。最初は菊川氏を名乗り、幸之助、賢好とも名乗る。
 寛政五年に生まれ、文化三年に兄の経賢が早死した為、弟である経礼が家督を相続した。文化五年に萩で毛利斉房、江戸で徳川家斉・家慶に拝謁。

 文化三年から八年にかけて、麻里布、向今津、尾津天地潟などで開拓事業を行い、文化七年には新港を築いて財政の改革を図った。しかし、財政難の状況は変わることは無かった。よって文化九年に経礼は徹底した倹約令を出した。支出は最小限にとどめ、必要なものを除いて大阪など借銀の利払いを停止する。大阪への扶持渡しも取りやめて送る分の米を備蓄米として蓄える事にした。また、産業奨励を行って錦見町に錦用場を、新港には蠟板場を増設するなど、新事業にも幅を広げた。
 こうした財政改革を積極的に進めるいっぽう、幕府からは普請工事の費用負担を要求してきた。文化九年に関東河川堤防修理費用の七千七百三十八両を負担、文政三年には伊勢美濃の河川堤防修理として七千九百両を納入し支出も多かった。

 文政七年に毛利斉元の国入り祝賀が行われた為萩に赴き、同時に広家の二百回忌であったため、家臣を交えての茶会が開かれた。天保五年からは幕府に対して年始・八朔の献上を行うようになった。天保七年一月に江戸へ参府し、徳川家斉・家慶に拝謁したのち、五月に帰国。だがその後体調を崩して十一月に四十四歳で死去した。またしても子がいないままの死去になった。

二十七代・吉川経章の墓
吉川経忠の三男。兄の経賢・経礼は先々代・先代にあたる。最初は菊川氏を名乗り、幼名を寅五郎、のち尚五郎。賢章とも名乗っていた。
 寛政六年に生まれ、天保七年に兄の経礼が死去。後継ぎもいないままであったので、家督を継ぎ、天保八年には幕府の許可が下りた。この時経章と改名する。また同年に毛利慶親が国入りしたので祝賀に萩に赴き、天保十年にはお礼のための江戸参府を行って徳川家慶・家定に拝謁した。

 しかし、天保十四年、通風を患ってしまい五十歳で死去した。経倫・経忠・経賢・経礼・経章の五代に渡って短い間隔での当主の死去になってしまった。幸いだったのは経章には子の経幹が居た。

二十八代・吉川経幹の墓
吉川経章の子。幼名を亀之助。つねまさと読む。
 天保十四年に父の経章が死去したので家督を継ぐことになり、弘化元年に許可が下りた。
経幹は家督を相続すると、弘化二年に領内の学の向上を目的として、藩校である養老館の建設を開始した。弘化四年には開講校する事ができ、学頭は森脇斗南が就任した。また、この年に江戸参府を行って、徳川家慶・家定に拝謁、帰国ついでに京都の姉の嫁ぎ先である小堀家に寄り道して帰った。嘉永六年になると、浦賀へペリーが艦隊を引き連れて現れた為、幕府は諸大名に海岸警備を命じ、経幹の岩国兵も萩藩と共に警備に加わった。

安政三年、経幹は毛利敬親の招きに応じて萩に赴く。長らく関係が悪化していた毛利吉川であったが、この二人は互いに協力しようと歩み寄り始めた。経幹はこの時毛利氏の別邸である花の江停において茶の接待を受けた。
安政四年には吉川家譜の編纂をしようと資料集めを始め、のち家譜編纂局を設置した。

安政五年からは積極的に他者との交流をふかめるようになり、この年に毛利敬親より藩邸に招かれており書を贈られたほか、水戸の徳川斉昭にも会いに行って書物の交換等を行った。また、再び幕府から海岸警備を命ぜられたが、文久元年には長井雅樂が航海遠略策を持って岩国に説明に訪れた。のち、長井雅樂は藩の方針転換によって切腹させられる。

 文久三年になると毛利氏との関係も大分改善しており、毛利敬親が帰国の際に岩国に立ち寄って、吉川氏を大名として推挙したい旨を伝えにやって来た。その後、毛利定広からの使者が到着し、経幹にも上洛してほしいとの事を依頼したので、麻里布より海路で出発し、京都の天竜寺に入った。この京都滞在中に上洛中の徳川家茂に拝謁して労われていたが、萩藩が五月十日に攘夷決行して、下関で通行中の外国船を砲撃する事件が起こる。幕府はこの事態を問い詰めるべく、経幹に江戸召集の命令を出した。しかし、経幹も幕府の矛盾点を指摘して反論し、御所の警備があるからと断ってしまった。

 七月六日には天竜寺から松林寺に宿所を移転して活動を始めた。この三日後の七月九日、萩藩から重臣の益田右衛門介と根来上総が来訪。毛利敬親が朝廷に大和行幸を進上して実現させる計画を進めていると打ち明けて来た。経幹もこの計画に加わり、益田・根来と共に関白の鷹司氏の屋敷へ訪問。朝廷にこの事を進言した。七月十三日に鷹司停に訪問したところ、大和行幸が決定したので、根来上総にこの事を伝達した。

 しかし八月十八日、突如として三条実美ら毛利氏らの味方だった公家達が参内を停止させられ、毛利・吉川も御所警備を解かれてしまった。経幹は兵六百を率いて鷹司輔煕を問いつめに屋敷へ赴いた。すると清末藩主の毛利元純や三条実美ら公家、彼らが率いて来た兵もおり、経幹の率いる兵も併せて二千六百人が集まっている状態になった。経幹は解任命令を解除してもらうよう鷹司側に相談したが、鷹司輔煕が現れず、結局時代の悪化を恐れて大仏妙法院へ退いた。のち、いったん帰国する事になり、公家七卿と共に伏見街道から兵庫を経由して海から三田尻へ向かって、岩国に戻った。

 九月四日には山口に移っていた毛利敬親に事情を説明に行き、かねてより関係の深かった広島藩浅野氏に取次を頼むよう提案をして岩国に戻った。のち、毛利敬親は毛利系列の長府藩・清末藩・徳島藩、そして岩国の吉川とで会議をしたいと行うことになったが、経幹は病気になってしまったのでこれを辞退。のち、高杉晋作が敬親の書状を持って経幹を訪問してきたが、再び辞退を申し入れた。十一月一日には毛利敬親はなんとか経幹に会議に参加してほしいので、粟屋帯刀を経幹の病気が治るまで岩国に滞在させるべく送り込んできた。そこで、経幹も家老の宮庄主水を向かわせた。従に十二月一日には岩国以外の四藩は再び上洛する事で一致しており、あとは経幹の同意がほしいと言ってきたのだが、経幹はこれには同意はしなかった。

 元治元年五月に経幹の病気が快復したので、山口に向かった。その途中、毛利敬親から三田尻で諸隊調練や軍艦を見てほしいとの話があり途中に三田尻へ寄った。のちに山口に入って毛利氏の上京について反対し続けた。
 しかし、六月五日、池田屋事件が発生し、七月五日に萩藩士が二十人ほど襲撃されたという連絡がもたらされる。これによって萩藩側はすぐに京都へ向かうべく兵を整え、経幹は毛利元徳と共に五番隊に編成され、海路で京都を目指した。しかし、この時岩国では上洛に反対するものが騒動を起こしていたため、出発が遅れてしまった。七月十八日には鞆の浦で他部隊と合流。その翌日には先発していた萩藩兵が会津藩や薩摩藩と蛤御門などで戦闘になり敗北したとの知らせがもたらされる。経幹は倉敷におりまだ京都に到着してはいなかったが、いったん引き返すことになった。

 七月二十三日、朝廷・幕府は長州征伐を命じた。しかし、すぐに討伐の兵を出すのではなく、当初は恭順させようとしており、十一月四日に大島吉之助、吉井幸輔、税所長蔵が岩国の経幹を訪ねて来た。恭順の意を示せば寛大な処置がるとの事を知らされ、経幹は蛤御門の中心だった三家老の処分をするよう萩へ伝達する。その結果、益田右衛門介、福原越後、国司信濃、宍戸馬介、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、中村九郎らが処刑される、
 十二月十二日に経幹は征長軍の本部となっている広島の国泰寺に向かい、のち三家老の首が送られ首実検が行われた。続いて十五日より経幹への尋問が行われ、長州兵上洛の理由などを回答していたが、翌日に持病のため欠席。十九日には聴取も終わって、幕府からの和睦条件が伝えられた。一つは山口城破却、二つ目は毛利敬親の謝罪、五卿の他藩移転の三つであった。五卿の移転先は福岡藩が請け負うことになり、城の破却は幕府の役人が立ち会うことに決まった。
 毛利敬親は和睦の条件をのんで、謝罪文の提出を行い、幕府巡使立ち合いの元で城の破却確認が実施された。五卿の移転が遅れてしまい、督促も来たが、十二月二十八日には経幹が広島に呼ばれ、長州征伐の兵を解くとの事を伝達された。

 しかし、この和睦処理が行われている最中に、高杉晋作が長府で挙兵し、萩藩の軍と戦って勝利、藩の中枢を掌握してしまっていた。そのため慶応元年四月に再び長州征伐が行われる事になり、彦根・高田の軍が先鋒として向かって来る。
 毛利敬親は四藩での会議を開き今後の対応を検討し始める。七月九日には広島藩が戦を避けようと、経幹と徳山藩主が大阪へ出頭するよう伝えてきたが、会議の結果この出頭要請を拒否し、八月七日に吉川采女によって広島藩に伝達された。十二月三日には征長軍が広島に到着したため、経幹も岩国の周辺の防備を固める。
 その後、長州系藩の藩主代理の者たちが広島に赴いて交渉を続けていたが、慶応二年の六月十三日には岩国領広島藩領境の小瀬川を挟んで戦いが勃発する。芸州口、大島口、小倉口、石州口の四か所から大量の幕府軍が進軍を始めたが、萩藩勢力側は各地で敵を撃破し防衛に成功。そうしていると徳川家茂が急死したので、九月二日に停戦が行われた。

この年の十二月十八日、イギリス艦隊が三田尻にやってくる。萩藩の廣澤真臣から経幹に同席が求めら、二十九日には萩藩側で応接し、三十日にはイギリス艦内を案内され、会食の後に記念撮影も行っている。
 慶応三年、かねてより持病を抱えていたが、正月に体調が悪化し、萩藩からは藩医が派遣されてきたが、三月二十日に三十九歳で死去した。

 家督は経健が継いだのだが、経幹の死去は暫く秘匿とされ、慶応四年三月に朝廷から大名として扱われ、四月には駿河守に任官する。十二月に隠居して、翌年にようやく死んだ事にになった。

二十九代・吉川経建の墓
吉川経幹の次男、
山奥側の墓地にある。

安政二年に生まれる。兄が早死にしたので世子となり、慶応二年に経幹が死去したので、家督を相続する。しかし、経幹の死去は暫く隠されていたため、公的に家督を継いだのは明治二年の正月になる。
 慶応四年に戊辰戦争が勃発。経建は宮庄主水らを派遣して戦った。明治二年に戦いが終わると経幹の跡として駿河守・従五位下を任官する。また、戦功によって五千石が与えられた。六月十七日に版籍奉還によって大名ではなくなり、岩国藩知事に就任した。
明治三年、前年に諸隊出身者たちが暴動を起こす事件が発生。各藩知事は集まって協議し、武力鎮圧する事になった。二月九日に武力鎮圧が実行され、経建もこの戦いに援軍に赴いており、三月に岩国に帰ることが出来た。

 明治四年に藩知事制度が廃止、山口県が設置され経健は知事を解任される。のち、旧藩知事は東京に住むことになったので移住する。岩国藩邸は文久三年に幕府に奪われたので毛利停に暫く仮住まいし、神田淡路町に屋敷を構えて移り住んだ。明治十七年には男爵、のち子爵を賜り、明治四十二年に五十五歳で死去した。

三十代・吉川元光の墓
吉川重吉の子。吉川経幹の孫。従三位。
明治二十七年に生まれ、元々分家筋であったが先代の経建に男子が居なかった事で、経健娘の婿養子に入る形で吉川氏宗家の家督を相続する。
 昭和十八年、吉川経義の七百五十年際のおり、経義から経光の四代の墳墓が分散していたため、新たに四代までの墳墓をまとめて合葬し、吉川氏の墳墓として整備した。

岩国城

山口県岩国市横山にある岩国城
横山城とも。吉川氏の城。
観光用に整備されており、ロープウェイで上がることが出来る。または洞泉寺等の前の道を歩いて登ることもできる。

毛利氏防長移転に際し、吉川広家も月山富田城から移転することになった。城地は周防国の玄関口である岩国が選ばれた。
慶長六年八月、吉川広家入国後に松岡安右衛門、祖式九右衛門、二宮兵介、吉田宗右衛門らを奉行として城の普請が始まった。
最初に麓の土居部分が築かれ、続いて背後の横山に山城が築城されていった。着工は慶長八年で二宮佐渡守の鍬初めが行われた。江戸城普請に邪魔されつつも慶長十三年に完成。

しかし元和元年一国一城令で岩国も廃城に決まる。吉川広家は周防は岩国城だけなので問題ないと抵抗したが、長府毛利氏が櫛崎城を廃城にした為、釣り合いを取って結局廃城することになった。

遺構は麓の土居が使用される。
昭和三十七年、鉄筋コンクリートで天守再建。

石垣

堀切

洞泉寺

山口県岩国市横山にある盤目山洞泉寺。
吉川氏菩提寺。

元は安芸時代、九代・吉川経信が宝徳二年に建立した寺院。本尊は釈迦牟尼仏。
岩国移転後は慶長八年に現地に移された。元は洞仙寺だったがこの時洞泉寺に改められる。
また、岩国領曹洞宗における本寺でもあった。

なお安芸に残る洞仙寺跡には吉川墓所があり経信・経幹・国経・元経の墓があるが、被葬者は判らなくなっている。十代之経は正観院が菩提寺なのでこちらには無い。

永興寺

山口県岩国市横山にある永興寺。

延慶二年、大内弘幸が仏国国師を招いて開山、夢窓疎石が創建したと云われる寺院。
広い敷地を有したが、吉川氏が岩国入りすると屋敷の建設の為に解体させられ規模が縮小。

夢窓疎石の作庭した枯山水遺構が残り現在は復元されている。平成十一年に市指定文化財。

庭園。