カテゴリー: 山口県

益田氏墓所(須佐)

山口県萩市須佐にある益田氏墓所。
34.620810, 131.598290に入口。看板もある。
二十代・元祥の代に益田から須佐へ移って以降の塁代墓所になった場所。
二十五代・就恒、二十六代・就賢の二人は紹考寺にある。
二十四代・久之丞は判らなかった。
三十一代・房清は見落としたが此処にあるようだ。。
なお、大寧寺にも須佐時代の益田氏墓所がある。

二十代・益田元祥の墓
毛利氏に従って毛利関係の主要な戦いの多くに参加。上月・羽衣石城・備中高松・島津攻め・小田原征伐・朝鮮出兵と加わり、関ケ原の時は伊勢で安濃津城を落とした。
防長移転時にも従って古巣石見益田を離れて須佐へ移り、須佐益田館を築いた。さらに主君毛利氏の財政立て直しにも携わる。
寛永十七年没。

二十一代・益田元堯の墓
益田広兼の子。元祥の孫。
元祥の跡を嫡子広兼が継ぐはずが、文禄四年に疱瘡で病死した。
よって孫である元堯が家督を継ぐ。
元和五年の福島正紀改易および正勝移封に検分役で立ち合い。
寛永十五年には島原の乱が勃発し出陣。
万治元年死去。

二十二代・益田就宜の墓
家督前から弓鉄砲惣将となった。
延宝元年没。

二十三代・益田兼長の墓
就宜の四男。兄は早世し家督を継ぐ。
しかし延宝八年兼長も十四歳で早世。なお、兼長の跡を継いだ久之丞も貞享元年早世。

二十七代・益田元道の墓
毛利家では家老を務める
元道の代に毛利氏が藩校明倫館を開校。是を見習って須佐へ領校・育英館を開校した。
寛保二年没

二十八代・益田広堯の墓
益田就高の子。当初繁澤貞雄の養子になり勘解由利充を称したが元道が願い出て養子となり家督を継ぐ。
銃惣将。家老。
明和二年没。

二十九代・益田就祥の墓
書画・連歌・陶芸に長じていた。安永九年には毛利重就から黒楽茶碗を拝領。
文化元年没

三十代・益田就恭
文化元年没。

三十一代・益田房清も此処にあるが見落とした。
吉敷毛利就兼の三男。益田氏へ養子入りする。
文政九年没。

三十二代・益田元宣の墓
右田毛利就任の五男。
村田清風と共に藩の財政立て直しを行う。
嘉永二年没

三十三代・益田親施の墓
益田右衛門介の名前の方が知られている。
嘉永二年三月十三日、後を継ぐはずだった兄の親興が急死、さらに父元宣が閏四月に死んだため家督を継ぐ。
元治元年の禁門の変で戦うが敗れ、その責を負って自害した。

三十四代・益田親祥
吉敷毛利房謙の九男
親施が死んだ事で養子として継ぐ。
明治十二年、親施の実子である精祥へ家督を譲る
明治十九年没

三十五代・益田精祥
親施の子。親祥から家督を譲られる。
明治三十三年、親施・親祥の功績が認められ男爵となった。
大正六年没

三十六代・益田兼施
昭和五十五年没。

おとうのはな宝篋印塔
墓所向かいにある宝篋印塔。
鎌倉時代のもの。

冷泉氏館

山口県岩国市周東町祖生にある冷泉氏館
34.064840, 132.131512だいたいこの辺りに入口の標柱。

冷泉隆豊の館のあった場所と云う。
隆豊は大内氏家臣。大寧寺で大内義隆が襲われた際に戦死。
最後は経蔵で奮戦し、自害して臓物を投げつけた。
墓は大寧寺の大内義隆主従墓域にある。

各地に城関係の地名が残る。
平地の高台にある平山城形式になっており、頂部には神社や古墓がある。

西側の長く凹んだ場所。
堀や馬場だったりするのだろうか?

曲輪
一度畑になっていそうな感じがある。

主郭
神社あり。

主郭の古い墓群

主郭奥。

沼城

山口県周南市須々万奥肝要にある沼城
遠徳山城とも云う。城主は山崎興盛が伝わる。
周囲を沼で取り囲んだ城。背後の山に沼城石碑があり、平成五年に新設された沼城主山崎興盛の墓がある。負山道正大居士。
なお、興盛の墓は沼城北にもある。

弘治二年、毛利の防長攻略に対して大内方の山崎興盛らは沼代に籠城。毛利隆元や小早川隆景が数度攻めたが沼に悩まされ失敗。
弘治三年二月、今度は毛利元就が沼代攻めを開始。竹編を沼へ投じて敷き城へ攻撃を行った。これに城中は狼狽し、江良賢宣や宮川伊豆守らが降伏。城主山崎興盛も降伏して親子で自害した。

現在麓には慈光山保福寺がある。
明治六年に保禅寺・福聚寺が合併した寺院。沼代主山崎興盛の菩提寺となっている。
保禅寺は当初林慶庵称した。元文二年時には飛竜八幡宮の坊社だった。
福聚寺は寛永年間に開かれたっ寺院と云う。

山崎興盛の墓

山口県周南市須々万奥にある山崎興盛の墓
34.125839, 131.865315この辺りにある。
沼城主。伊豆守。

弘治三年、興盛は沼代に籠城し毛利元就と戦ったが敗北。
子と共に沼代で自害した。

墓石銘は前山崎伊豆守貞山正居士。
なお、近くの沼代のある保福寺にも平成五年に新設された墓がある。

玄済寺、吉敷毛利氏墓所ほか

山口県山口市吉敷佐畑にある黄龍山玄済寺。
曹洞宗。本尊は釈迦如来。
吉敷毛利氏菩提寺。

元は毛利秀包が豊浦郡豊北町に建てた神社だったが、寛永二年に毛利元包が吉敷へ移封となり寺も現在地に移った。

吉敷毛利氏は毛利元就の十一男・秀包を初代とする分家。
秀包みは小早川隆景の養子になっていたが、隆景が秀秋を養子にした為に廃嫡。
のち久留米の大名になったが、関ケ原の敗戦後防長移転によって豊浦郡へ移転。秀包みは入る途上に死去し、元鎮が跡を継ぎ入った。
三代・元包の代に吉敷へ領地替えとなり、代々の居所とした。
境内には吉敷毛利氏墓所や、福原広俊墓、大内義興位牌堂がある。

毘沙門堂
大内義興位牌が納められている。
堂は昭和三十一年に建立され、大内義興菩提寺で廃寺になっていた凌雲寺の仏像が移された。毘沙門天像は平安時代の物一体・鎌倉時代二体、吉祥天像は平安時代の物一体。
凌雲寺殿三品兼七州太守傑叟義秀大禅定門神儀。内部見学可。

福原広俊の墓
福原氏十三代当主。代々毛利氏を支えた重臣
十四代以降は萩の徳隣寺にある。
毘沙門堂近くにある。

吉敷毛利氏墓所
初代・秀包、二代・元鎮は下関市豊田町に墓がある。此処にある物は供養塔。
三代・元包~十七代・忠三の墓所がある。このうち五代・広包、六代・元直、七代・就将、十代・包詮の墓は円満寺跡にあると云う。
なお、十四代・親直は西南戦争で戦死しており、寺外の高台にある。

初代・毛利秀包の供養塔
毛利元就の十一男。元は沼田小早川隆景養子。
久留米の大名だったが関ケ原の後は豊浦郡へ移転。領地入り前の帰国中に死去。
下関市豊北町の西楽寺に墓がある。

二代・毛利元鎮の供養塔
秀包の子。秀包が領地入りできなかったので、元鎮が入った。
下関市豊田町の見滝寺奥に墓がある。

三代・毛利元包の墓
寛永二年に家督を継ぎ、吉敷に移転した。

四代・毛利就直の墓

八代・毛利就兼の墓

九代・毛利房直の墓
右田毛利氏からの養子。

十一代・毛利房裕の墓
阿川毛利氏からの養子。

十二代・毛利房謙の墓
厚狭毛利氏からの養子。

十三代・十五代・毛利元一
幕末期の当主。別名毛利元潔
明治四年三月五日に親直に家督を譲るが、親直が吉敷毛利氏から分家したため明治七年に十五代として復帰。
明治十七年、山本信一の子・重輔に家督を譲り隠居。明治二十二年死去。

十四代・毛利親直の墓
明治四年に元一の隠居で家督を継ぐが、明治七年に吉敷毛利氏から分家して上野五郎と称す。
明治十年五月十八日、西南戦争で戦死した。
境内出た所の西南戦争戦死者墓

十六代・毛利重輔の墓
山本信一の子で毛利元一の養子。
明治十七年十二月三十一日に家督を継ぐ。
日本鉄道会社社長。
重輔の代に男爵となり華族入りする。
のち明治三十四年七月十三日、鉄道事故で死んだ。
右は共に死んだ助三郎の墓

十七代・毛利忠三の墓
右田毛利親信の次男。鉄道技師。
明治三十四年八月二十一日に家督を継ぎ、大正十二年一月二十七日没。家督は忠男が継いだ。

西南戦争戦死者墓。
親直の墓も此処にある。

小早川能久の墓
毛利秀包の末子。浪人後高松藩に属したそうだが、無嗣断絶。

吉敷毛利氏館

山口県山口市吉敷佐畑にある吉敷毛利氏館
34.167302, 131.426639この辺りに石碑。
現在は山口よしき病院になっている。
此処に吉敷毛利氏館があったという。

吉敷毛利氏は毛利秀包を初代とする分家。側にある玄済寺は吉敷毛利氏菩提寺。

桂就政の墓

山口県宇部市小野にある桂就政の墓
34.117256, 131.331695の墓所にある。
案内看板も建っている。駐車場もあり。

安芸桂氏で江戸時代は小野を領地とし、寛永八年に死去した。
疱瘡で片目を失明していたという。

財満氏館・墓所

山口県宇部市小野にある財満氏館。
34.119678, 131.334645に館の石碑
34.119368, 131.335052に墓所・駐車場。

財満氏は元は安芸財満郷の国人。大内氏に属していた大永元年に財満宗因が毛利元就と戦い戦死。この時宗因は津室弥左衛門に子の忠久を脱出させて生き延びさせた。
防長を毛利元就が支配した際、ここ小野へ財満忠久が入れられた。
その後忠久は毛利氏に従って大友攻めに参加したが、矢玉を受けて戦死。

忠久の跡を就久が継ぎ、善政を敷き領民からも慕われて居たと云う。
就久の代、毛利輝元は杉元宣の妻・周姫(のち二の丸様と云う)を奪い取り、杉元宣を殺害した。周姫は止むを得ず輝元の側室になった。広島城二の丸に居たが、輝元の子を懐妊し輝元正室との折り合いも悪くなってまい、立場を無くしてしまう。
そこで財満就久が周姫を自身の妻と偽って匿った。のち此処で毛利秀就となる松寿丸が誕生。輝元からは腹の子が男子なら殺せと言われていたが、就久は殺さずに四歳まで匿い続けた。
文禄の役から毛利輝元が戻ると、実子・秀就が生きている事が判明。輝元は叔父元清の子・秀元を養子にしていたが、秀就を養子にする事を決めた。
のち財満氏は周姫・秀就を匿っていた事を公言せず近代まで秘匿にしていたという。

毛利秀就先端の地碑

阿武瀬天満宮
財満忠久が建てた神社。
文化三年、桂親保が修築した。

財満氏墓所
財満忠久・就久・元久の墓がある。
かつては近くに菩提寺の大慈院があり、忠久の墓もあったが。昭和年間にゴルフ場が造られ、墓が場内に残ってしまったため、平成二十五年に改装して此処へ移転したという。
中央が財満忠久(仁峯天心居士)
右が財満就久、左が財満元久。

山本市左衛門の碑
財満忠久が小野へ入った際に毛利輝元から目付として送られた方。
秀就誕生の際にも世話を行い、役目を終えて広島帰還を命ぜられるが辞退してこの地にとどまった。

二の丸様の碑
杉元宣の妻・周姫。毛利輝元によって夫を殺され側室にされる。
広島城二の丸に居た為二の丸様と呼ばれた。
のち正室との折り合い悪く、財満就久の館へ入り秀就を産む。毛利氏萩移転後も萩へは入れず、明治になってようやく山口の毛利墓所へ改装された。

南側の看板。
34.119232, 131.334338この辺り。

志賀親次の墓

山口県宇部市小野にある志賀親次の墓
34.140956, 131.331132の辺りに入口。目立つ看板もある。

志賀氏は大友氏の家臣。親次の代に大友氏が改易になった為、主君をかえつつ最後は毛利氏に属した。
以後は宇部へ居たようで、代々の墓所も共に置かれている。

入口
道沿いに大きな看板が出ている。

志道氏墓所

山口県美祢市於福町にある志道氏墓所
34.233165, 131.198057にある。

志道氏は元は毛利一族出身で安芸の国人。毛利元就を支えた志道広良で有名。
毛利氏の防長移転にも従い、志道就保の代に於福へ移り明治まで居た。
この辺は菩提寺・館跡もあったようで説明看板があるのだが、文字が風化して読めそうにない。一応、奥の墓地には無縫塔はあった。

七代・志道就幸の墓

八代・志道就徳の墓

就徳夫人の墓

九代・志道就保の墓

十代・志道広幸の墓

十一代・志道元範の墓

右から
十二代・志道就良
十四代・志道煕良
十三代・志道親良

寺の本堂