カテゴリー: 益田氏

鳶ヶ松城

島根県益田市乙吉町にある鳶ヶ松城

益田市誌曰く、乙吉八幡の上にあって土塁が残っている様で、
社殿の左側、赤い鳥居横から上に登る道がついている。
登ってみると実際にそれらしい土盛と広い平坦地がある。

益田氏四代・兼高が建久三年に上府から益田へ本拠を移した。
翌建久四年には七尾城を築き本城とするのだが、それまでの間に仮城として使用したのが鳶ヶ松城と云う。
なお城跡下の乙吉八幡神社は、石碑曰く七尾城の鎮護として久城八幡より勧請したものと云う。

乙吉八幡宮
本殿近くの鳥居は平成二十三年と新しい

社殿

境内左側の鳥居
この左に道あり。

土塁
長く延びている土盛があり、これがそうか。

山上は広い平坦地になっている。
なお、小丸山古墳側からも道がある様だ。

四ツ山城

島根県益田市美都町朝倉にある四ツ山城

34.684397, 131.924725から車道が通っており、城跡までは車で行ける。
ただし車道終点は広くはないため注意。
この城は四つの山頂からなる城で、一~四の岳からなる。車道終点からは一の岳に先ず行ける。
一の岳が最も規模が大きく、竪堀や堀切もある。
二の岳は曲輪を取り囲んだもの、
三の岳は狭い岩場であり狼煙台の様な印象。
四の岳は三よりは広いほぼ単郭。なお、四岳から別の下山口もある。

四ツ山城は鎌倉時代に益田氏の築城とも、南北朝時代に益田兼弘の築城とも云う。
戦国時代には三隅氏と益田氏の取り合いとなる。
三隅氏が四ツ城を領有すると須懸忠朝が城主に居た。
元亀元年、須懸忠高が城主の時、毛利氏・益田氏の攻撃を受け、忠高は自害して落城した。
この時、城方の加藤氏広と寄せ手の佐々田十郎盛時の一騎打ちが行われたと云う。

車道終点

途中の竪堀

途中の堀切

一の岳二の丸

一の岳主郭
此処からの眺めが良い。
同程度の高さの山が多いため、広範囲見渡せる。

井戸
一の岳を降りたところに分岐あり。
かつては縁石のみ残っていたが、昭和五十二年の発掘で水が再度湧いたと云う。

二の岳下段

二の岳主郭

三の岳
他と比べて広さはない。

四の岳
下山口あり。どこへ通じているかは知らず。

益田氏墓所跡

島根県益田市大谷町にある益田氏墓所跡

益田市誌曰く、益田氏の居館である大谷土居の近くにはかつて益田氏の墓所があった。
越中様墓と呼ばれ、兼高・兼季・兼時・兼弘の四代の墓所が置かれていたと云う。

大谷土居は兼見の代である応安元年に全焼。
よって兼見は三宅土居を築いて居地をいてんさせており、そのためか兼方・兼見の墓は別地で現存。
越中様墓は大谷土居と共に焼けて廃れてしまったものか。

場所は益田市誌に地図があるが、ざっくりした地図の為判りにくい。
それでも大谷土居と大明神丘がはっきりしているおかげで大体の場所はわかる。
間違っているかもしれないが34.670988, 131.875245のあたりだと思っている。

周布氏墓所

島根県浜田市周布町にある周布氏墓所

34.854511, 132.027238にある。
聖徳寺北の墓地内にあり。この寺は周布氏の菩提寺。
周布氏は益田氏の一族であり、益田兼季の子・周布兼定を祖としている。
寺の背後には本拠の鳶巣城があり、境内から登れるらしいが駐車に困り断念。

北の墓地には周布氏のものと云う宝篋印塔・五輪塔がある。

興国山聖徳寺

川中島一騎打ちの碑

島根県安来市広瀬町広瀬にある川中島一騎打ちの碑
35.371325, 133.178247に石碑がある。

毛利氏が尼子氏を攻めた際、永禄八年に益田氏家臣の品川大膳と尼子氏家臣の山中鹿之介が一騎打ちをした場所。
富田川の中州で戦ったが、洪水によって地形が変わり旧状が判らなくなっている。
現在は石碑が残る。

品川大膳の墓

島根県安来市広瀬町広瀬にある品川大膳の墓
35.371539, 133.176844にある。
35.371399, 133.176216此処へ入口。
益田氏の家臣。狼之介とも云う。

永禄八年、益田藤兼が毛利氏に属して富田城攻めの最中、山中鹿之介と富田川の中州で一騎打ちを行い敗れた。

大膳の墓
宝篋印塔

本明城

島根県江津市有福温泉町本明にある本明城
34.933010, 132.211810の辺りに登山口。駐車場あり。
福屋氏の城。音明城とも。
福屋氏は益田兼高三男の兼広を祖とし、福屋城を本拠とした。
南北朝時代には南朝方に属して上野頼兼と戦い落城した事もある。
大永二年には尼子経久に攻められた。

その後福屋氏は毛利氏に従っていたが、永禄元年に小笠原長雄が毛利氏に降った際、所領として福屋氏領から割かれたために毛利氏から離反。
永禄四年、福屋隆兼は尼子方の湯惟宗・牛尾久清と通じて、吉川経安の守る不言城を攻めかかった。吉川元春がこの報せを受けて直ちに救援すべく宍戸隆家と熊谷信直を連れて出撃、また毛利元就も兵を率いて駆け付けた。
これを知った福屋隆兼は福光城攻めを取りやめて川上松山城に退いた。元春は福屋氏の城である中ノ城を攻めて抜き、逃げた城主神主康之を追って矢上城・日和を攻略した。元就は矢上城に、元春は日和へ在人する。また、元就は福屋氏における名将重富兼雄を、敵に内通している噂を流して福屋隆兼に殺害させた。

 永禄五年、雪解けのち川上に本陣を移し、九州攻めに出ていた小早川隆景・毛利隆元が戻ると、毛利・吉川・小早川一万の大軍が福屋隆任の籠る川上松山城を攻めた。川上松山城はその日に瞬く間に落城し福屋隆任を討ち取った。隆任の首を隆兼に送り付けたのち、元春が先陣として福屋隆兼の籠る本明城に迫った。隆兼はかなわないと見るや城を脱出し尼子氏を頼ったが拒否された為、逃げ延びて松永久秀に保護された。のち本明城は降伏し、三ツ子城で抵抗を続けていた福屋氏の残党も悉く討たれた。

登山口

途中の鳥居

堀切

主郭

益田兼見・兼方の墓

島根県益田市東町にある益田兼見・兼方の墓
萬福寺墓地にあり、34.678706, 131.860729に入口。

十代・益田兼方
元弘元年、弟である兼代・兼利を大谷城へ誘い出して殺害し、兼見を七尾城へ入れている。内部の争いでもあったのだろうか。

十一代・益田兼見
南北朝時代、北朝方に属し足利氏から送られて来た守護上野頼兼を助けて石見各地を転戦する。建武三年には三隅兼連に七尾城を攻撃されたが撃退。康暦三年には豊田城、康暦四年には稲積城等を落とした。
足利直冬が石見に来た際には是に従ったがのち北朝へ帰順する。
なお、兼見の代に大谷土居が焼失している。

萬福寺

島根県益田市東町にある清瀧山萬福寺

平安時代の創建と云い元は安福寺。一度津波で荒廃していたが、呑海上人が再興。
応安七年、十一代・益田兼見が現地へ移転し菩提寺とした。
寺に残る庭園は雪舟の作と云われ、国司的史跡名勝となっている。

本堂
益田兼見によって建立され、寺領三十一石を与えられた。

萬福寺庭園。
雪舟の作庭

医光寺、益田宗兼の墓

島根県益田市染羽町にある瀧蔵山医光寺
元は宗観寺塔頭の一つだった。
一時荒廃するも、益田宗兼によって再興されている。
境内には益田宗兼の墓所がある。

本堂

医光寺総門
島根県指定文化財。現存する七尾城の大手門。

医光寺庭園。
国指定史跡・名勝。
雪舟による作庭。

益田宗兼の墓
益田氏十七代。
石見では三隅兼興や尼子経久と争い、
九州や京都では足利義稙・大内義興に従って戦った。
境内左手の墓地内に墓があり、墓域には古墓も転がっている。