島根県江津市有福温泉町本明にある本明城
34.933010, 132.211810の辺りに登山口。駐車場あり。
福屋氏の城。音明城とも。
福屋氏は益田兼高三男の兼広を祖とし、福屋城を本拠とした。
南北朝時代には南朝方に属して上野頼兼と戦い落城した事もある。
大永二年には尼子経久に攻められた。
その後福屋氏は毛利氏に従っていたが、永禄元年に小笠原長雄が毛利氏に降った際、所領として福屋氏領から割かれたために毛利氏から離反。
永禄四年、福屋隆兼は尼子方の湯惟宗・牛尾久清と通じて、吉川経安の守る不言城を攻めかかった。吉川元春がこの報せを受けて直ちに救援すべく宍戸隆家と熊谷信直を連れて出撃、また毛利元就も兵を率いて駆け付けた。
これを知った福屋隆兼は福光城攻めを取りやめて川上松山城に退いた。元春は福屋氏の城である中ノ城を攻めて抜き、逃げた城主神主康之を追って矢上城・日和を攻略した。元就は矢上城に、元春は日和へ在人する。また、元就は福屋氏における名将重富兼雄を、敵に内通している噂を流して福屋隆兼に殺害させた。
永禄五年、雪解けのち川上に本陣を移し、九州攻めに出ていた小早川隆景・毛利隆元が戻ると、毛利・吉川・小早川一万の大軍が福屋隆任の籠る川上松山城を攻めた。川上松山城はその日に瞬く間に落城し福屋隆任を討ち取った。隆任の首を隆兼に送り付けたのち、元春が先陣として福屋隆兼の籠る本明城に迫った。隆兼はかなわないと見るや城を脱出し尼子氏を頼ったが拒否された為、逃げ延びて松永久秀に保護された。のち本明城は降伏し、三ツ子城で抵抗を続けていた福屋氏の残党も悉く討たれた。
登山口
途中の鳥居
堀切
主郭