島根県飯石郡飯南町八神にある那須与一宗隆の墓。
35.107436, 132.706690にある。
下野那須氏二代。終盤に父と同じ資隆を称す。
京都で死に、京・下野那須に墓が建てられた。
しかし各地には那須与一伝説が残り、安芸・出雲・阿波・播磨・備前など全国十数か所の墓がある。
飯南町にも与一伝説があり墓が残る。
過去に回った史跡の管理ノート用、あくまで自分用。全国気が向いたものから。
カテゴリー: 那須七騎
島根県飯石郡飯南町八神にある那須与一宗隆の墓。
35.107436, 132.706690にある。
下野那須氏二代。終盤に父と同じ資隆を称す。
京都で死に、京・下野那須に墓が建てられた。
しかし各地には那須与一伝説が残り、安芸・出雲・阿波・播磨・備前など全国十数か所の墓がある。
飯南町にも与一伝説があり墓が残る。
佐賀県唐津市鎮西町名護屋にある那須資晴陣。
だいたい33.526299, 129.858298の辺りにある。
名護屋城下における那須資晴の陣所。
小田原征伐の時に秀吉を警戒して改易されるも、別に消えてなくなったわけでは無く所々で活動が見られる。五千石を賜るなど徐々に持ち直してきており、文禄の役の時にも二百五十騎で此処へ在陣した。那須氏は子の資景の時に大名へも復帰している。
現在はほぼ畑となっている。
大関晴増らも名護屋城下に在陣したようで、資晴と一緒に此処にいたのだろうか?