カテゴリー: 大分県

平田城

大分県中津市耶馬溪町大字平田にある平田城
白米城とも。

公園化しており、33.473458, 131.146619に駐車場がある。
北台と南台からなる二か所の高所で構成されているようだが、北台域は立ち入り禁止。
南台の忠霊塔のある城域には曲輪側面に石垣もあり。

建久年間に野仲重房が築城と云う。
野中氏は豊前宇都宮の一族。天正年間には平田掃部介を城番に置いたと云う。
天正十六年、野仲氏が黒田氏入国に抵抗したため、長岩城が攻撃され滅亡。
平田城は残党に備えて維持され、栗山備後守利安の城となった。
なお、栗山大善はこの城で出生したと云う。

駐車場

南東側曲輪

立留の景
二百五十年前ごろに岩山が崩れて現在の景観になったと云う。

南台忠霊塔のある曲輪。

南台側面の石垣

南台・北台の間
藪をよく見ると平坦地になっている。

後藤又兵衛の墓(耶馬溪)

大分県中津市耶馬溪町大字金吉にある後藤又兵衛の墓

33.374199, 131.124786に入口。
後藤又兵衛は全国各所に伝説がありそれぞれ墓がある。
此処もその一つで、大坂の陣で敗北後に此処で隠棲したと云う。
のち豊臣家断絶を知り自害。
墓が建てられていたが荒廃したため、宝暦十三年に伊福茂助が新墓碑を建立した。

道沿いに大きな看板

墓碑

隣にある古い五輪塔群。

星隈城

大分県日田市友田にある星隈城

星隈公園となっており、
33.325911, 130.905830に駐車場あり。山上には神社がある。

慶長六年、小川光氏が日田へ封ぜられると新城として月隈城の築城を開始した。
完成には三年を有しており、その間仮城として星隈城を使用していた。
仮城には複数説があるそうだが、此処も候補の一つと云う。

駐車場

山の上。
神社あり。

地形は城跡らしさはある。

日隈城

大分県日田市中ノ島町にある日隈城

現在は亀山公園となっており、北側に公園駐車場がある。
主郭には神社。他遺構として桝形虎口の石垣が残る。

文禄三年、玖珠・日田両郡へ代官として入った宮木豊盛が築城した。
文禄四年に毛利高政領となり、慶長元年より城の改修が行われた。この時、五層六階天守や各所に櫓が設けられた。

慶長五年、関が原の戦いの頃になると毛利高政は西軍に属す。是に対して東軍方の黒田如水が栗山利安に日田攻めを行わせた。
日隈城には城代毛利隼人佐が篭城していたが開場に応じて東軍方へ降った

桝形虎口
石垣も残る。
訪れた当時早朝のため明るい写真が不可だった。

主郭
奥には日隈神社
後醍醐天皇・楠正成・春日大明神を祀った神社。
天正以前に春日大明神が祀られていたが、城代毛利隼人佐により田島若八幡へ合祀と云う。
のち、安政三年に再度鎮座。
後醍醐・楠は永昌寺内にあった物を命じの神仏分離令により此処へ移し社殿建立。
大正九年に後醍醐・楠・春日の三柱を合祀

なお、他に松方正義を祀る松方神社が大正十三年に建てられたらしいが、
大戦終結後にGHQにより解体。社殿は別の神社へ移されたと云う。

主郭周囲の曲輪

佐伯惟真の墓

大分県佐伯市稲垣の龍護寺にある佐伯惟真の墓。
32.955401, 131.869001。栂牟礼城佐伯氏十三代。
境内入ってすぐ左にある。

すぐ近くの栂牟礼城佐伯氏。惟教の子。
佐伯惟教が大友宗麟と対立し、敵対する西園寺氏に身を寄せた際、惟真も共に行動。
伊予時代は野村に居た。
のち大友氏へ惟教と共に復帰、天正六年耳川における戦闘で惟教・惟真共に戦死した。

なお、惟真の子・惟照は伊予野村へ残留しており、先祖尾形氏かた取って尾形惟照を称している。惟照は西園寺十五将・野村殿宇都宮氏に属し、乗綱が出家してしまうとその後釜として白木城を守った。長宗我部氏とも戦い、近世は庄屋として野村へ残り度々登場してくる。

羽明山龍護寺
佐伯氏菩提寺。
佐伯藩毛利氏祈願所だったそうだ。

大友氏時の墓(吉祥寺跡)

大分県別府市別府にある大友氏時の墓
33.273523, 131.481490だいたいこの辺だったと思う。

此処は元々吉祥寺という寺院があった。
康永元年に大友氏時が創建した寺院。
此処の宝篋印塔に「文和四乙年 大友氏時之塔 二月廿一日」とあり大友氏時の墓と云われている。死去する応安元年よりだいぶ前になる。逆修塔とか?

開山塔
別府市指定史跡。
昌華祐公和尚墓。貞和三年。

吉弘統幸陣所

大分県別府市観海寺にある吉弘統幸陣所
33.282159, 131.478612この辺りにあり、公園になっている。

慶長五年の石垣原の戦いで、大友義統方だった吉弘統幸の陣所跡。
義統の挙兵に際し駆けつけ、二十数騎を討ち取ったと云うが、最後は戦死した。

現在は皇太子殿下行啓記念碑(大正天皇)の碑が建っている。

大應寺、大友氏時の墓

大分県由布市庄内町庄内原にある清源山大應寺。
33.185935, 131.396914此処にある。臨済宗妙心寺派。
延暦二十三年、国司誉田百合若麻呂の建立。伝教大師最澄の開基。
かつては七堂伽藍もあったそうだ。
建武三年、足利尊氏が滞在中に失火で焼失。暦応元年に大友氏時によって再建され菩提寺となった。
大友宗麟の代に戦火で焼失。寛永十一年、府内藩日根野吉明の時に再建されるが再度焼失。
元禄三年に植田荘光吉村吉祥寺の洞林禅師により再建される。

大友氏時の墓
大友氏八代当主。
本堂裏の辺りにある。
大應寺の無縫塔として由布市指定有形文化財になっている。
なお、氏時の墓は別府市にもある。

玖珠城

大分県玖珠郡玖珠町山田にある玖珠城。
耶馬日田彦山国定公園にあるかなり目立つ伐株山の上にあった。
伐株山城・高勝寺之城とも云う。
元々は大木で切株になったと云う伝説があるそうだ。
山頂まで車で上がることが出来、駐車場もある。だが、公園利用者は多く車が止められない場合がある。
山頂域に土塁で囲まれた区画が残る。

元々山上には高勝寺という寺院があった。
建武三年、南朝方であった小田氏や大友貞順、高勝寺の僧らが玖珠城に籠り、一色頼行・大友氏康ら北朝方の攻撃を受けた。三月から十二月まで籠城したが落城した。
のち応安六年には小田氏が籠城、永正十四年には朽網親満が一時籠城。
天正十四年、島津襲来時に中嶋氏や魚返氏らが籠城し、内応者が出てしまい落城した。以降は使用されなかった。

山頂の曲輪群

4土塁の区画

寺院の名残か石仏が散見。

5土塁区画

土塁

6土塁の区画

7土塁の区画

南端

眺めは素晴らしい。

自性寺、奥平氏墓所

大分県中津市新魚町にある自性寺
中津藩奥平氏の菩提寺。
元は応平氏が新城時代に建てた万松寺と云う寺院で転封に合わせて移り代わり、中津へ来た際に此処へ移転する。延享二年より自性寺。
書院は大雅堂と呼ばれる。

織部灯篭
古田織部と親交のあった細川忠興がガラシャの供養に長福寺に建てた物が現在地に移転したと云う。

奥平氏墓所門。
扉に家紋。

中津藩奥平氏墓所
奥平昌猷が最奥にあり、一族の墓碑が並ぶ。
墓の周囲の玉垣は町人の寄進と言う。

奥平昌猷の墓
中津奥平七代。
中津で死去・葬式をおこなった当主は昌猷のみという。