洞玄寺、厚狭毛利氏墓所

山口県山陽小野田市郡西下津にある宝珠山洞玄寺。
厚狭毛利氏菩提寺。
六三五年、舒明天皇七年の創建と云う。元は新善光寺、長光寺。
江戸初期に毛利元宜によって再興され、毛利元康の法名から寺号をとって洞玄寺と改称。

厚狭毛利氏は毛利元就の五男・元秋の系統の分家。毛利元秋は月山富田城攻略後、城番になり死去。子も早世したため、弟で毛利元就八男の末次元康が元秋の跡を継ぐ。

関ケ原の戦い時には、京極高次の大津城攻めを行い勝利するも、毛利本体が関ケ原本戦で敗北。のち毛利氏が防長移転となった際、厚狭一万五百石へ移された。元康は領地入りする前に大阪で死去。代わって家督を継いだ元宣が厚狭に入り拠点を構えた。
萩にも屋敷があり、長屋が現存している。なお、太平洋戦争に十四代・一彦が戦死した事で厚狭毛利氏は断絶した。

山門
明和七年、六代・毛利元連によって建立された。
平成十六年改築。

今川了俊歌碑
九州でひたすら耳にする今川了俊は、九州への道中を「道ゆきぶり」に記録している。
建徳二年十月八日、この寺で宿泊し歌を詠んだ。

千林尼の墓
ボランティアの先駆者と云われる方。
幕末期に各地へ石畳や木橋を造った。

毛利元連の石字経王塔
七代・毛利就盈室の芳菊院が元連七回忌の安永九年に供養塔として建立した石塔。

厚狭毛利氏墓所
二代・元康から十四台・一彦までの塁代墓所がある。なお、初代元秋は月山富田にある。二代・元康は死去した大阪天徳寺にもあるようだ。

厚狭毛利二代・毛利元康の墓
末次元康。毛利元就八男。兄元秋の家督を継ぐ。
大津城攻めで勝利するも、毛利本隊の敗北で厚狭移封。大阪で没。

厚狭毛利三代・毛利元宣の墓
元康が厚狭入り前に死去したため家督を継ぐ。

厚狭毛利四代・毛利元勝の墓

厚狭毛利五代・毛利就久の墓
右田毛利からの養子。

厚狭毛利六代・毛利元連の墓
境内の石字経王塔は元連の供養塔。

厚狭毛利七代・毛利就盈の墓
徳山毛利広豊の子。元連の養子。

厚狭毛利八代・毛利就宣の墓
右田毛利からの養子。

厚狭毛利九代・毛利房晃の墓

厚狭毛利十代・毛利元美の墓

厚狭毛利十一代・毛利親忠の墓
徹之祐。
養徳院殿桂齊浄薫大居士。明治十一年十月二十日没。

厚狭毛利十二代・毛利英之輔の墓
浄信院殿翠天秀英大居士。

厚狭毛利十三代・毛利四一の墓
大正十年四月十八日没。
天徳院殿心源一乗大居士

厚狭毛利十四代・毛利一彦の墓
太平洋戦争で戦死。弟の宣男も戦死したため、厚狭毛利氏は断絶した。

毛利勅子の墓
徳山毛利広鎮の娘。福原越後妹。
毛利元美室。明治六年に日本で三番目の女学校を設立。
明治十二年二月二日没。

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