霊仙山城

愛媛県今治市旦にある霊仙山城。
登山口は円久寺にある。
河野十八将の中川氏の城。境内から登山口があり割と簡単に登れる。
中川氏は元々松山の藤原村に居た武家だったが、河野氏の命で霊仙山城へ移った。

城主で最も知られるのは中川山城守親武。
後の史料である伊予温故禄等で親武は天正十年、来島通総に攻められて戦死したと云われているが、天正九年に中川親武の肖像画への僊叟老師による賛に、親武は天正五年十二月七日に没しているとあるので、戦死説は誤りであると指摘されている。

親武の死後は中川常陸介豊住(豊任とも)が跡を継いだ。朝倉村誌によると豊住は来島通総と通じており、天正十三年の小早川隆景の襲来時には戦わずして開城した。その後、豊住は大坂夏の陣で戦死したという。

また、此処の面白い話に、伯耆国羽衣石城の南条元続の子である南条兼保が客将として中川氏の元へ居た。
羽衣石城が落城の折、元続は長子兼保を堀川主水・垣内佐内に守らせて城を脱出させ天正四年に中川親武の客将となった。翌年に親武が死去し、後を継いだ豊住は仇敵毛利氏と通じる来島氏と意を同じくしたため、兼保らは親武の死去を理由として帰農する事を選んだ。その後は朝倉で土地を開墾するなどして法橋堰・垣内堰の地名を残している。
のち慶長十八年三月十五日朝倉新屋敷で死去。法名は西性院月慶法橋入道。墓が満願寺にあるらしいのだが見つからなかった。

円久寺
中川氏の菩提寺。元々中川氏が居た藤原村にあった寺院で、天正元年に此処へ建てられた。本尊は薬師如来。ほか中川親武を祀った山城堂がある。

登山口

何となく堀切っぽい所。

山頂域の曲輪は木が刈られて見晴らしが良くなっていた。

長い主郭。

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