善応寺、河野通盛の墓

愛媛県松山市善応寺甲にある好成山善応寺。
河野氏の菩提寺。本尊は釈迦如来。

元々は河野氏居館である河野郷土居館のあった場所。
建武二年、元弘の乱に鎌倉方として戦っていた河野通盛が鎌倉の建長寺南山士雲を頼って生き延び、帰郷後河野氏の館を寺院に変えた。
京都の東福寺を擬して建てられており、敷地は善応寺の地名全域にわたりかなり広い。寺には旧境内範囲の地図もある。
敷地には七堂伽藍、十三の塔頭があった(通玄寺、萬松院、千手院、養寿院、大崇院、宗玄寺、林少院、萬年寺、一心庵、見寿庵、明智庵、霊雲庵、少室庵)

天正十三年の小早川隆景との戦いによる戦火によって寺は焼失。大伽藍は悉く失われてしまった。
しかし江戸時代中期に黙翁士徹によって徳川吉宗の厚遇を受けて、塔頭明智庵のあった場所に善応寺を再建した。

河野氏に関わり深い寺であり、寺に保存されている河野氏ゆかりの文書が善応寺文書として貴重な史料となっている。
ほか、河野通盛の妻が善応寺に送った袈裟が寺宝として残る。

釈迦三尊像
河野通盛が善応寺造営した当時のもの。

河野通盛の墓
境内の目立つ場所にある。
河野通有の七男。兄たちを差し置き通有から跡継ぎに選ばれた。
鎌倉討幕時、通治と名乗っていた通盛は六波羅探題軍として戦い、陶山次郎と共に善戦している。六波羅陥落後は鎌倉の建長寺へ逃げ、足利尊氏に帰順した。
南北朝時代は北朝方に属し戦っているが、伊予では南朝方に属した一族が多く、同族間での戦いもあった。
貞治二年に子の通朝へ家督を譲ったが、細川頼之が伊予へ襲来し通朝が戦死。さらに二十日後に通盛も死去。細川の伊予侵攻は頼之の細川清氏潰しに加担しなかった為とか、または細川が四国統一を目論んだ為とも云われている。

なお、通盛の母である安古道忍(通有室)の墓が塔頭の萬松寺跡にあるようだが、畑や藪化しておりもはや探せる状態では無い。

河野氏発祥の地碑

河野氏歴代供養塔
天正十三年の焼失が無ければ室町戦国期の当主の墓もしっかりと残っていたのだろうか。

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