仏通寺

広島県三原市高坂町にある御許山仏通寺。
臨済宗。仏通寺派本山。

応永四年、小早川春平が愚中周及を迎えて建立した寺院。
春平が応永九年、愚中周及が応永十六年に死去しており、完全な完成は小早川則平や愚中周及の弟子たちの代と云う。
寺の建立に当たっては宗家と対立していた庶家も参加しており、小早川一族の統括を計ったもの。

開山である愚中周及は夢窓疎石の弟子。しかし五山叢林に満足できず、暦応二年から観応二年にかけて元国へ留学。そこで即休契了を師と仰ぐ。
帰国後は文和二年に南禅寺に入ったが、最初の師である夢窓疎石の宗風を嗣がず、元での師である即休契了の法嗣としたため、夢窓疎石の門徒から追放され、五山叢林と決別。
その後は山林で修業を十年程行い、丹波の金山宗泰に招かれ天寧寺へ入る。
此処で名声を高め、弟子も増えた所で、小早川春平より仏通寺開山として招かれた。


仏通寺時代の応永十四年には足利義持より法語を求められたが、五山叢林から追放されたため、二度と京へは入りたくないとして、伏見までは来たが、逆に足利義持を伏見まで出向かせた。
愚中周及の死去後も弟子たちにより五山叢林への対抗意識は続けられており、自門のみで運営にあたるようになる。
応永三十四年には五山叢林に出頭した者は住持へは請けさせず、違反者は排除するとして五山叢林からの明確な独立を宣言した。

その後は独自に発展を遂げていき、門葉も十数派に及ぶ。
最盛期には塔頭八十八、末寺三千と云う大寺院となる。嘉吉元年には足利義勝、文安元年には足利義政から御教書も出ており幕府からも認知されていた。

愚中周及の直弟子らが死去すると衰退期に入る。
文安四年には一笑禅慶により檀那の干渉排除を取り決めた。小早川氏ですら口出しが出来なくなる。
だが門弟の死去が相次いだ事や、同派の丹波天寧寺との行き来が必要である事によりうやむやとなりあまり守られなかったようだ。しばらく後の寛正四年には仏通寺規式に小早川煕平が署名している。


小早川隆景の代には寺の復興が進められ、永禄三年には山堺改めが行われた。その後も自身何度も参詣、三原城時代も修復を行っている。

江戸・明治初期には衰退して荒廃してしまったが、近代に入り盛り返し明治三十八年には臨済宗仏通寺派として独立し本山となった。

合暉院地蔵堂
重文。
合暉院は応永十三年に松巌尼が創設した塔頭。地蔵堂はその仏殿として応永十八年に建立された。
須弥壇には同じく重文の木造地蔵菩薩坐像。

開山堂
中には重文の木造仏通禅師像・大通禅師像。
さらに禅師像の左には重文の宝篋印塔。これは小早川春平の夫人である松巌尼の墓と云う。

仏通寺多宝塔
国有形文化財。
昭和二年の建立。

仏通寺のイヌマキ
広島県天然記念物。
愚中周及が植えた物と云う。

山門前の橋

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