山野城

大分県竹田市直入町大字長湯にある山野城

33.089461, 131.322401の辺りから城へ入る事ができる。
道路の真横がすぐ城域。若干のスペースもあり。
土塁を越えると広い曲輪があり、そこを中心に整備されている。
整備された箇所意外は藪化しているが、城域は更に広い様だ。

建久七年、古庄重能が大友能直に従って朽網氏を称し山野城を築いたと云う。
朽網鑑康の代には城を改修。一万田堀・両志賀堀・入田堀・田北堀などの名が残る。
天正十四年、島津氏によって山野城が攻撃を受けた。城は鑑康が病床の為、朽網鎮則が守った。
朽網勢はよく戦い島津軍の攻撃を退けていたが、途中鑑康が死去。
天正十五年一月五日、城方は支えきれず和議に応じて開城。
朽網鎮則は城を出たが、のち大友義統が島津氏に降った者の誅罰を初め、徳丸筑後守に追われて自害した。

その後、山野城には斎藤道暦が入ったとも云う。

道路沿いの土塁上。

土塁が窪んだ様になっているヵ所。

土塁下の広い曲輪

道路沿いに横堀らしきヵ所

北西側の高所に広い曲輪あり。
ただし藪がひどい。

北西の曲輪下段。

南東側方面に延びる曲輪

南東側堀切

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