赤松広秀の墓(八鹿)

兵庫県養父市八鹿町八鹿にある赤松広秀の墓

35.411008, 134.777977にある。東の道沿いに看板も建っている。
堂の中に「乗林院殿可翁松雲大居士」の墓碑。
狭い宅地の中にある。車の場合は置く場所が周囲一帯に存在しないため注意。
八鹿駅から近いため豊岡から電車を使うのが無難。

赤松広秀は龍野赤松氏。赤松政秀の子。
天正五年に羽柴秀吉に降り龍野城を失うが、天正十三年に但馬竹田城で大名になった。
慶長五年、関ケ原の戦いで西軍に属し田辺城を攻撃したが、敗戦により東軍へ寝返り。
のち鳥取城攻撃で城下へ火を放った事を咎められて切腹。

此処の墓碑については現地に由緒看板が詳しい。
元文元三年、洪水による用水路取水口修繕工事において、大きな石が出てきた為、永源寺の大雄了覚和尚が引き上げた。
この辺りは、赤松広秀の大名時代の治世により農民への恩恵があり、年賀参りの村人に残していたところ、この石で大森の広秀の塚に、墓石と地蔵建立することになったと云う。
(家臣らが大森京街道三叉路に遺髪・旗竿を埋めたものと云う。片腕を埋めたとも。)
元文四年二月に工事をはじめ、元文五年七月ごろに完成との事。

文政七年、墓碑が雨梅雨にさらされた為、内屋舎が建てられた。
この屋社も年月と共に傷んだため、明治十一年に外屋舎が建てられた。
明治三十六年、瓦葺。

なお、広秀の墓は斑鳩寺・法樹寺にもある

墓碑と地蔵。

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