三星城、後藤勝基の墓

岡山県美作市入田にある三星城

東麓の35.012800, 134.146725に入口。
車で行けるかわからなかったので歩いて向かったが、進んだ先に置けそうな場所はあった。
麓部分は居館地であり曲輪がいつかと後藤勝基の墓がある。
さらに奥へ登っていくと土塁のある北側の曲輪を経て山頂域の曲輪へ出る。
山頂の主郭は狭く、東西に伸びる曲輪の方が主要地?
なお東西曲輪へは時間切れで行けなかったが、途中に井戸がある。

美作後藤氏の城
応保年間、渡辺長寛が居館として築いた。
次の長信の代に梶原景時の乱で死去、此処では坂手監物勝が自害。
その後南北朝時代に入った延元四年、後藤氏が地頭として三星城へ入った。

康安元年、南朝に転じた山名時氏に攻め落とされたが、山名潰しの明徳の乱後に後藤氏が復帰という。

明応七年、後藤勝国が立石氏の美和山城を攻撃したが敗れ戦死。
次いで文亀二年に子の後藤勝政が美和山城を落とし美作における勢力を拡大。
のち、赤松氏の守護代浦上村宗に属し、大永年間に敵対する浦上村国の金室城を攻めたという。

後藤勝基の代、尼子氏が勢力を拡大し是に属したが、
永禄の頃に浦上宗景に付いて尼子から離反、林野城の川副久盛らと戦う。
永禄八年、尼子が毛利に攻められ美作から撤退、代わって毛利軍が三星城を攻めたが防衛。

天正三年、浦上宗景が宇喜多直家に追われると、勝基は美作国人と共に抵抗。
天正七年、花房・延原ら宇喜多軍により三星城が攻められ落城。後藤勝基は自害し美作後藤氏は滅亡した。

登山口。
側に看板あり。

車で行けそうな所の終点。

三星稲荷神社
城への道途中に分岐。
後藤氏時代からあったそうで、修理されつつ現在まで残る。

居館地。
奥に忠魂碑。

後藤勝基の墓
五輪塔。銘は風化で読めず、大居士のみ判った。
美作における有力国人。
居館地忠魂碑となりにある。

北側曲輪
登っていくと此処へ出る。
土塁と標柱がある。

登った先の東西分岐。
ここから主郭へも行ける。

主郭部分。
狭い山頂。登る道は急斜のため注意。

岩井戸。
東曲輪へ向かう途中にある。

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