光林寺と寺林城、河野・稗貫墓所

岩手県花巻市石鳥谷町中寺林にある光林寺

時宗。
林長山光林寺。
河野氏と稗貫氏に大きく関わる場所。

創建は弘安三年。
開基は河野通重。
河野通信の長子である得能通俊の子。
また、開山は通重の子で河野通次。
稗貫郡と河野氏の縁は、承久の乱で敗れた河野通信が流されて来た事に始まる。
河野氏は幕府軍に属した河野通久が継承し首の皮一枚繋いだが、通信ら一族は帰郷叶わず此処へ根付いた。

弘化二年、河野通次は稗貫郡葛岡郷の地頭で、
大番役中に同じ河野氏出身で時宗開祖の一遍と会い帰依。
通次は順道と改め、一遍の弟子になった。

弘化三年、一遍が祖父の河野通信供養で、稗貫郡へ来訪。
河野通重・通次の寺林城へ入り、通重と妻も入信し、此処へ光林寺が建立された。

また、此処は寺林城であり、平野部の中央に位置している。
その為か以後兵火に巻き込まれて何度か焼失している。
応永九年、永正八年、天正十八年の九戸政実。
九戸の後は浅野長吉が目代として浅野六兵衛を置いたという。
寺の周囲には堀が残っており、山門入口辺りも虎口状になっている。

また、境内には寺林河野氏と、一族から養子に入った稗貫氏の墓もある。

入口の冠木門

虎口状のL字
冠木門の先、左右を土塁で固めてる。

慶長天皇腰掛石・手撫松
L字の途中にある。
天授年間、北畠顕能を頼って長慶天皇が訪れた際に立ち寄ったという。
この時、和歌を詠んだが九戸政実の乱の時に焼失した。

山門
石段手前に河野氏の紋である折敷に三文字も。

本堂

境内北側
城であった名残か堀と土塁が残っている。
要地にあるため防御機能は維持されたものか。

稗貫利行の墓
稗貫氏六代。
河野通次の子で稗貫氏へ養子に入った。
延光院殿稗貫長阿俊行居士
延慶二年九月十七日没。

岸田伯耆守忠氏の墓
筒井氏、のち豊臣氏に仕えた大名だったが、
関ケ原で西軍に属して改易。
南部利直預けになり此処へ葬られた。

五輪塔だが空風が大きく、各パーツが同サイズの芋虫状になっている。

寺林河野氏の墓所
町指定文化財。
綺麗な覆い屋が設けられている。
個々の内訳の石碑も追加で建立された。

河野通次の墓
河野通重の子。稗貫俊行の父。
光林寺開山。順道。
正応三年十二月九日没。

河野通重の墓
得能通俊の子。河野通信の孫。
得能通秀は兄弟という事になる。
大法院殿寺林珠阿彩円大居士
永仁三年八月二十一日没。

通重室の墓
弘安八年二十一日没。
五輪塔。形は岸田伯耆に似ている。

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