河野通信の墓

岩手県北上市稲瀬町水越にある河野通信の墓

ひじり塚として知られている。
39.245226, 141.139319に入口。
タイヤ跡もあり、一応車でも墓前まで進めるようだ。
墓は墳墓タイプのもので、周囲に堀が設けられ、墳墓は大きな木が生えている。
また、鎌倉当時孫にあたる一遍上人が墓参りした際の様子が一遍聖絵にも残っている。

通信は河野通清の子。
玉澄から数えた場合河野氏二十二代。
小千御子より数えた場合越智河野氏四十三代。

通清が奴可西寂により討たれたが、通信と出雲坊宗賢と共に仇を討ち、
源平合戦には水軍を率いて源氏方に付いて戦った。
しかし、承久の乱で宮方に付いた事で陸奥へ流罪になり、
現在の安楽寺にて貞応二年五月十九日六十八歳で死去。
東禅寺殿観光西念大居士。

河野氏は子の一人である通久が幕府方に付いた事で存続。
恩賞として阿波富田を得たが久米石井へ変えて貰い首の皮一枚繋いだ。

通信の墓はその後、
弘安三年に孫の一遍上人が弟子らと訪ねて供養。
その後所在不明になったが、
昭和三十九年にそれらしい墳墓が発見され、昭和四十年の調査で通信の墓と判明した。
なお、愛媛にも東禅寺に供養塔が新設されている。

ひじり塚の看板

タイヤ跡終点。

墳墓。
堀がはっきり残っている。

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