カテゴリー: 宇都宮氏関係

大楽寺

愛媛県宇和島市吉田町河内にある大楽寺

金仙山。
本尊は阿弥陀如来。
ムササビ寺として有名だそうで、境内に野生のムササビが現れる。
また、十四世行権和尚が発明和尚とも呼ばれ、海外でも知られたという。

訪れた際、門が崩れてしまっており境内へは入れなくなっていた。

寺の由緒は豊前宇都宮氏に関わる。
天正十五年、豊前の大名宇都宮鎮房は豊臣秀吉から伊予への国替えを命ぜられ、反対して黒田氏らと対立。
この戦いで黒田方を破り和睦したものの、その後鎮房は中津で、子の朝房は肥後で謀殺された。

この時、鎮房は子の次男・堂房を伊予へ逃していた。
堂房は現在の八幡浜に居た宇都宮房綱を頼ったものの既に戦死していたため、房綱の姉婿菊池武国を頼った。
そこへ父や兄らの死を知り、天正十九年出家して大楽寺を建立した。
また、前身には大楽院という寺があったとも。

楼門
吉田町史曰く、天保十二年十世実応の時のものというが、
ぼろぼろに崩れてしまっている。

三島神社(宇和岡山)

愛媛県西予市宇和町岡山にある三島神社

多田にあるため池北の33.424101, 132.503784に参道。
ただし道は狭く、車で入口へは近づけない。
また、少し離れているが、33.423028, 132.503417の池南西側に説明看板が建っている。

天平三年、大三島の大山積神社より勧請。
天平年間に越智河野氏によって勧請した三島神社はいくつかあり、ここもその類?

鎌倉時代正嘉年間、山中からの出火で焼失したが、
東多田殿宇都宮氏の初代・宇都宮永綱が嘉元年間に下向以降、社殿を再建した。
天正十五年、戸田勝隆が南予に入った際、他の寺社と共にここももれなく被害にあった。
社殿は焼失、神田は没収という。
宇都宮宣綱は勝隆の暴政に徹底交戦して抗ったためか。

のち江戸時代に入った寛永十三年に再建された。

また、背後の山には有森城がある。
城主は永井勝三郎。分布調査報告書では遺構は失われているらしい。
社殿付近の斜面は緩いので、登ろうと思えば登れそうだった。
なお池近くの説明看板には永井勝三郎は天平当時の城主とあるが、時期的に難しく天正の頃の話なのではとも思う。

説明看板
この付近に若干のスペースがある。
ここから急いで参拝するほかない。

看板の少し先に無縫塔

鳥居。
明治二十二年銘。

社殿
石段を登った先。
全体的に新しい。
三島神社の額も平成二年に奉納との事。

となりにある小さい社殿。
中には小さな人型の石造物が集められている。

福楽寺

愛媛県西予市宇和町河内にある福楽寺

塔満山
天台宗。本尊は十一面観音。

康保二年、伊延の高森城主・高盛(大窪)五郎四郎、
大窪山の十一面観音の霊夢によって、安一和尚として出家。
山頂へ祠堂を置き、伝教大師堂、観音堂、山王社、山上下に十二坊を置いたという。
かなり大規模な寺院であった様だが、
長宗我部氏との戦いで天正年間に焼け、豊臣期の戸田勝隆によって此処ももれなく寺領を没収された

また、東多田殿宇都宮氏の十五代・宇都宮宣綱が、毎年正月三日に大窪山へ登り、花雪の勝負という祭事が行われていた。

昭和二十七年、山にあったものを現在地へ移転された。

山門内上に鐘。

本堂
丸内に竪三引きの紋がある。
宇和島藩の伊達氏との関係?

少し高台に堂

目の前には大きな桜もあって春には目立つ。

了月院

愛媛県八幡浜市日土町にある了月院

東向山了月院。
浄土宗智恩院派
本尊は阿弥陀三尊仏で、八幡浜市指定有形文化財。
中尊に阿弥陀如来、左に勢至菩薩、右に観世音菩薩。
文永六年、大仏師興阿弥陀仏の作で、願主は小野左兵衛尉平能忠。

小野左兵衛尉平能忠は平家一門といい、
安徳天皇や一門を弔うため、本尊を作らせて持仏堂を建立し、小野堂と呼ばれたのが始まり。
のち、兵頭石見守直正の子・喜右衛門が宇都宮房綱に仕えていたが、
萩森城落城後の天正十三年に日土村庄官になり、ここに寺を建立。小野堂にあった阿弥陀三尊を移して本尊とした。
当初は小野左兵衛尉平能忠の名前から、能忠寺と称していた。

明治二十二年、兵頭喜右衛門の法名の了月院殿三誉心覚道牛居士から、了月院と改めた。

寺は高台にあり、側面は石垣で固められている。

山門
入ってすぐはL字になっており、虎口のよう。
石垣と相まって有事の砦の様な見た目。

本堂
浄土宗なので葵紋が。
他は杏葉紋と、軒唐破風に菊の紋らしきもの。

本堂前の兵頭七左エ門銘の碑
兵頭氏所縁故か

長谷寺(八幡浜)

愛媛県八幡浜市高野地にある長谷寺

大貴山長谷寺。
臨済宗妙心寺派
宇都宮房綱の菩提寺。
本尊は十一面観世音菩薩で八幡浜市指定有形文化財に指定。
秘仏で室町子後期の作という。

永禄二年、宇都宮房綱が郁山和尚を開山として創建された。宇和旧記では永禄七年という。
高野地は元々猟師が三人住むばかりの山深い場所だったが、
その一人の新左衛門が矢竹が七夜光り、観世音菩薩が七朝手水を使われているのを発見。
新左衛門は宇都宮房綱にこのことを伝えると、奇端であると喜び長谷寺を創建したという。

また、観世音菩薩は了月院の上にあった庵にあったが、トビガモリ、ホトケヤシキと飛来してここに落ち着いたという寺伝もある。

その後、享和元年・平成六年に再建。

文化財指定の為、境内に説明看板。

寺紋に七曜紋

本堂
右手に文化財の標柱。
両に石灯籠。

永田城

愛媛県大洲市豊茂にある永田城

33.564361, 132.471222にある城跡。

33.563648, 132.471643道路のカーブから古い道がついている。
ただし道の入口は藪化しているので登れるように登るしかない。
道へ進んでしまえば後は楽。

城は山頂部分に広い主郭と北側に一段。
登っていく方面の南側にも小さい曲輪が連なる。

城自体は笠松城の支城。
笠松城はすぐ東向かいにある。

登り口

途中にある風化した堀切?

主郭南下段。

主郭域南端の高台
分布調査報告書の縄張り図では山の神と書かれている。
小さな石祠もある。

主郭。
元は墓地だったらしく、古い墓が散乱している。

主郭側面。
若干の石垣が見える。

主郭北
逆さヒョウタンの様に北側が広い

主郭北下段。

側面石垣

花林城

愛媛県大洲市豊茂にある花林城

33.565694, 132.470861にある山。
東から北側へ回り込む側面に車道が通っており、北側に登り口が付いている。
分布調査報告書の縄張としては、
北側斜面に畝状竪堀を配し、東から四段曲輪が連なり、西端に堀切。
現状は竪堀は不鮮明になっているが、曲輪・堀切は明瞭。

城主は宇都宮左近蔵人宣綱。
位置的に笠松城の支城?
宣綱の名前だけ見ると東多田の方が真っ先に出てきたが、離れすぎているため別人だろう。

登り口

竪堀のある辺り。
側面は車道に面している。

東端の曲輪。
ここだけ細長い。

三段目曲輪

二段目曲輪。
三段目とほぼ同様。
最上段が小さいので実質主郭。

最上段。
規模は小さい。櫓台か堀切の付属土塁もどきな印象。

西橋の堀切。
遺構は綺麗に残っている。

池上城

愛媛県大洲市稲積にある池上城

住田城とも。
33.459694, 132.522972辺りから上がる事が出来るが、
ほぼ藪状態なので覚悟がいる。

位置的に伊予宇都宮氏側において、西園寺氏勢力圏に対する最前線。
城は西端に堀切を設け、最高所から東へ細長く曲輪が延びている。
登り口辺りも城域内であり、反対側の墓地域も曲輪内。
最も城らしいのは最上段から一段下がった中段の曲輪。
祠や五輪塔、側面には石垣も残っている。

また、この辺りから上を見上げると陣ヶ森城が見える。
池上城が上から丸見えになっており、かなり危ういのではという立地。
陣が森・鳥坂峠域の争奪も納得。

城主は住田主税。
温故録曰く、子孫は庄屋らしい。

登り口付近。
左右の墓地も曲輪跡

登った斜面
藪漕ぎ。ここも一応曲輪らしいが確かめるどころではない。

中段曲輪の端。
祠が建っている。

祠隣の五輪塔1
地・水が掛けている。

祠隣の五輪塔2
水輪が方形。
火輪の反りが強く江戸期の印象。

中段の曲輪
最も安定した広さのある曲輪

中段曲輪側面の石垣。
石垣下は帯曲輪状になっており、進むと堀切あたりへも出られる。

最上段の曲輪。
主郭と言うよりは櫓台の印象があり、規模も小さい。

最上段曲輪の祠。
中央にさびれた石台と祠。

西橋端の堀切。
規模はそれなりだが、途中で林道化している。

東下の曲輪。
こちらも藪。

法華寺(大洲)

愛媛県大洲市西大洲にある法華寺

槃陀山法華寺
曹洞宗総持寺末孫末。
本尊は釈迦如来。

元々は下野宇都宮にあった天台宗寺院という。
開基は宇都宮朝綱(宗家三代)。開山は慈全。
元徳二年、宇都宮豊房(豊前系出身。伊予宇都宮初代)が伊予国守護になった際、下野から移転してきた。
戦国時代に大洲の伊予宇都宮氏が没落すると廃れていった。

寛永九年、大洲藩主加藤泰興の室・万寿院の遺言により、
城川町龍潭寺の久岳宗闐の開山で、曹洞宗として再興された。
万寿院は福知山藩時代の岡部長盛の娘といい、岡部氏が曹洞宗だった為に寺の宗派を変更された。

宝永三年、本堂を火災で消失したが、
享保十年から十五年がかりで中興学船が再興した。

訪れた当時、参道は工事中の様だった。

矢野若狭守の墓

愛媛県大洲市菅田町大竹にある矢野若狭守の墓

松の城の下、33.489528, 132.579028に入口がある。
目印標柱が建っており、そこから斜めに道が付いている。
登りすぎに注意。無駄に折り返して登ると別の場所へ出る。

矢野若狭守行定。
すぐ上にある松の城主。
大洲領古城記等曰く、元は和泉に居りここへ移ったという。
永禄十年には土佐方の攻撃を受けており、行定の子・行盛はこの時戦死とも。
天正十五年に死去したと云い、ここの墓碑にも同年の銘あり。

入口と目印標柱

※分岐
ここはまっすぐ。

五輪塔。覆屋付。
清泰院若狭守眞岩玄休居士
天正十五年丁亥年十月九日
この五輪塔は文政十三年七月十四日、子孫の矢野行就らにより建立されたもの。

となりの旧墓碑。
五輪塔の前の墓碑らしく、銘も同様の
清泰院若狭守眞岩玄休居士
天正十五年丁亥年十月初九日

もう一つある墓碑。
天梁?道全居士
天正七年巳卯年九月二十八日