カテゴリー: 天正の陣と諸将関係

藤田山城守芳雄の墓

愛媛県新居浜市郷にある藤田山城守芳雄の墓
33.956452, 133.304232だいたいこの辺り。岡崎公園から歩いて行く。
元々此処には岡崎城主藤田氏の菩提寺である上徳寺があった。現在は薬師堂が建っている。
此処へ芳雄の墓があるというのだが少々ややこしくなっている。

西條誌には後世山の下薬師堂へ石塔を建つとある。
中世城館分布報告書等では此処の宝篋印塔が藤田山城守芳雄の墓とあるが、宝篋印塔自体は銘無しの建立年不明だが鎌倉様式である為、鎌倉期のものと云われている。
西條誌では形式までは指定しておらず、宝篋印塔側に藤田氏と書かれた小さな墓石があり、もしかすると此方なのかもしれない。
なお、側にある五輪塔は大禅定尼とあるので少なくとも芳雄では無い。

ちなみに芳雄は天正の陣で戦死した。子の大隅守忠俊は生き延び慈眼寺に墓がある

宝篋印塔。
新居浜市指定文化財になっている。
一般に藤田芳雄の墓と云われている方。

藤田氏とある古墓
こっちなのかもしれない。「藤田氏大」まで読めるが最後の一文字が読みにくい。もしかすると最後の文字は「神」?

薬師堂

金子氏墓所

愛媛県新居浜市西の土居町にある金子氏墓所
33.950264, 133.276676にある。道沿いに入口。
公園として整備されているようだ。

金子城北麓の福寿谷は元々金子氏の菩提寺のあった場所と云われている。
此処にある十五基の五輪塔群が金子氏累代の墓という。
凝灰岩・砂岩・花崗岩のもので、時代も様々。

中央にある梵字付きのもの。
鎌倉時代っぽさがある。

慈眼寺、天正陣関係の墓

愛媛県新居浜市西の土居町にある正法山慈眼寺。
金子氏の菩提寺。
元々この場所には金子氏の館があり、菩提寺は北麓に置かれていた。
天正の陣で寺も城も焼失。

金子城で戦っていた金子対馬守元春は脱出して大雄寺で自害を試みたが、宗虎和尚に止められて出家。宗虎の紹介で陸奥磐城の長源寺卓眼和尚へ師事。
のち新居へ戻り、金子氏の館址へ慈眼寺を建立した。

境内

金子氏関係の墓所
奥二つは輿三郎兼則(延宝四年没)、四郎左衛門兼之(天和二年没)
他は被葬者不明だが真鍋六人衆関係と云われている。

大五輪塔
左は被葬者不明。右は金子村初代庄屋になった真鍋久右衛門忠俊(永徳院一等了心居士・明暦二年没)

位牌堂
清良厳庵主・北屋敷輿市右衛門忠親 元禄十三年
本光覚心大姉 元禄八年
永徳院一等了心居士 真鍋久右衛門忠俊 明暦二年
安清春泰大姉 野田権三郎母 寛永十一年
真鍋六人衆の位牌

金子元宅の墓、真鍋六人衆の墓、
中央が金子備後守元宅の墓
他は真鍋六人衆の墓
真鍋佐渡守家綱
真鍋左京佐兼考
真鍋勘解由行綱
真鍋越後介政綱
真鍋孫太郎兼綱
真鍋孫九朗亮綱
全員高尾城で戦死。金子元宅の母が真鍋氏の出身。
なお、別項に書いたが金子元宅の墓は野々市・花の木さんにもあり、此処を含め全部で三か所になる。

金子元宅の供養碑

片岡光綱・花房新兵衛の供養塔
両名とも土佐からの援軍。両名とも戦死した。
なお、片岡光綱は土佐にも墓がある。

金子対馬守元春の供養塔
元宅の弟。天正の陣で金子城を守ったが落城し、戦後は僧となって慈眼寺を建てた。

藤田大隅守忠俊の墓
岡崎城主藤田山城守芳雄の子。
芳雄は天正の陣で戦死したが、藤田忠俊は生き残り備後三原へ逃れた。後帰国して子孫は庄屋を務めると云う。
大智院殿仁鎧義勇大居士。

金子城

愛媛県新居浜市西の土居町にある金子城
金子氏の城であり、天正の陣の激戦地。
現在は滝の宮公園になっているため山頂域も容易に登ることが出来る。
城の遺構時代は公園化に伴い往時の姿は判りにくくなっている。

築城は金子宅世の代と云われている。
金子氏は武蔵国入間郡金子郷に居た武家で伊予へ移り住んだ。
鎌倉時代ごろから居たとされ、弘安年間には地頭に金子頼広、暦応元年には細川氏に与して戦った金子康弘が居る。
なお、温故禄には越智玉男の館址とも云うが信憑性は低そうだ。

のち金子氏は宇摩・新居郡の旗頭である伊予石川氏の麾下になっており、藤田氏・松木氏と共に新居の郡衆と呼ばれた。
天文二十年頃には石化氏内で派閥争いが始まっており、三好氏を後ろ盾とする金子元成の石川党・河野氏を後ろ盾とする石川源大夫の河野党が争い、源大夫の暗殺によって石川党金子氏が実験を握るようになる。
これによって石川氏は三好氏に接近し、弘治二年には石川通清が三好長慶の娘を娶り、金子元宅も石川通昌の娘を娶る。しかし、元亀三年の織田・三好の連合軍による伊予攻めでの大敗で石川氏は河野氏の軍門に降っている。
のち、長曽我部氏が伊予へ侵攻を始めると、石川氏・金子氏は人質を出して長曽我部方に通じている。

天正年間頃から、金子元宅は桑村郡・周布郡への進出も行うようになった。
金子氏と桑村の鷺森城主である桑原泰国は不和となり、戦いに及んだ。この戦いは金子勢が城を包囲したものの、来島通総や毛利氏から高橋右京進らが援軍に来たため敗退。
同年、高橋美濃守らと共に桑村郡の櫛部氏象ヶ森城を攻撃。天正七年に再度攻め込み落城させ、天正八年に櫛部兼氏・兼久の近田城を攻めて自害に追い込んでいる。

天正十三年、豊臣秀吉命により小早川隆景が伊予へ大軍で攻めてきた。これに対して時新居・宇摩郡の武士たちは集まって評定を開いた。この時金子元宅は徹底抗戦を主張し場の参道を得た。
石川氏の当主虎竹は八歳と幼少であるため、金子元宅が総大将となって氷見の高尾城を本陣とし、野々市原等で戦ったが戦死。
金子城は元宅弟の金子対馬守元春が守り、土佐から片岡光綱らの援軍もあったが最後は落城した。

金子城周囲にも関係史跡が残っており、
東麓の慈眼寺のある場所に館があった。金子氏墓所や天正の陣で戦死した真鍋氏や岡崎忠俊の墓がある。
北麓にも金子氏墓所があり鎌倉時代頃以降の五輪塔が転がっている。

金子城滝宮口古戦場
公園の近くに石碑

主郭

山腹に見えた窪み。
遠目に堀切に見えたが柵の外で確認は難しかった。

武者象
33.950138, 133.278764

金子城福寿谷古戦場
激戦となり血だまりの池があったと云われる。
33.950103, 133.276741この辺、北麓の金子氏墓所近く。

名古城

愛媛県新居浜市磯浦町にある名古城
磯浦町の辺りにあったと云うが、遺構は無さそうだ。
分布調査報告書からだいたいニトリ等のある辺りだと思っている。

天正の陣において小早川隆景に攻められて落城したと云う。

御代島城

愛媛県新居浜市惣開町にある御代島城。
33.978309, 133.257036にある山。かつては島だった。
住友の敷地になっている為に登ることは不可であるが、目立つ山なので遠くからでも確認できる。

城主は加藤民部正。清太夫とも。水軍の長。
天正十三年、小早川隆景が御代島城を攻めたが事前に防備を固めており城攻めに失敗している。しかし最後には落城し、のち加藤民部正も戦死したと云う。

遠景

野津子城

愛媛県西条市飯岡にある野津子城
33.915820, 133.244693に登口がある。

城主は工藤兵部光信で、天正十三年、天正の陣において戦死したと云う。
小松邑誌では甲冑が保国寺にあるそうだ。
また、伊予温故禄では兵部祐重の名もある。

主郭には祠が二つ並んでいる。

登り口

飯積神社

愛媛県西条市下島山甲の飯積神社
33.927441, 133.210067この辺りにある。
神功皇后ゆかりの地。

仲哀天皇・神功皇后は此処の神木である檪で笏を作り、鎮魂祭を行ったと云う。
天正十三年、天正の陣において社殿を焼失したと云う。

神社前に西条藩高札場跡が有る。

社殿

江渕城

愛媛県西条市朔日市にある江渕城
現在善導寺のある場所。
城主は塩出若狭守が知られる。

天正十三年、天正の陣で落城。なお、塩出若狭守の位牌が宝蓮寺にある。
遺構は残っていないが、少し高い舟形だったという。

なお、善導寺は終南山善導寺と云い、一柳氏が伊勢神戸から伊予西条へ移った際に共に移転し、江渕城跡へ建てられたと云う。諸堂は一柳氏の建立と云う。
本尊は阿弥陀如来。

狭間城

愛媛県西条市大町にある狭間城
現在の伊予西条駅にある場所。
城主は徳永朱里亮。垣上城、波在間城とも云う。

天正十三年、徳永氏は東予方として天正の陣に参戦。小早川隆景の攻撃によって狭間城は落城した。

城の遺構は無し。最近になって城跡の標柱が建てられたそうだ。