愛媛県新居浜市西の土居町にある金子城
金子氏の城であり、天正の陣の激戦地。
現在は滝の宮公園になっているため山頂域も容易に登ることが出来る。
城の遺構時代は公園化に伴い往時の姿は判りにくくなっている。
築城は金子宅世の代と云われている。
金子氏は武蔵国入間郡金子郷に居た武家で伊予へ移り住んだ。
鎌倉時代ごろから居たとされ、弘安年間には地頭に金子頼広、暦応元年には細川氏に与して戦った金子康弘が居る。
なお、温故禄には越智玉男の館址とも云うが信憑性は低そうだ。
のち金子氏は宇摩・新居郡の旗頭である伊予石川氏の麾下になっており、藤田氏・松木氏と共に新居の郡衆と呼ばれた。
天文二十年頃には石化氏内で派閥争いが始まっており、三好氏を後ろ盾とする金子元成の石川党・河野氏を後ろ盾とする石川源大夫の河野党が争い、源大夫の暗殺によって石川党金子氏が実験を握るようになる。
これによって石川氏は三好氏に接近し、弘治二年には石川通清が三好長慶の娘を娶り、金子元宅も石川通昌の娘を娶る。しかし、元亀三年の織田・三好の連合軍による伊予攻めでの大敗で石川氏は河野氏の軍門に降っている。
のち、長曽我部氏が伊予へ侵攻を始めると、石川氏・金子氏は人質を出して長曽我部方に通じている。
天正年間頃から、金子元宅は桑村郡・周布郡への進出も行うようになった。
金子氏と桑村の鷺森城主である桑原泰国は不和となり、戦いに及んだ。この戦いは金子勢が城を包囲したものの、来島通総や毛利氏から高橋右京進らが援軍に来たため敗退。
同年、高橋美濃守らと共に桑村郡の櫛部氏象ヶ森城を攻撃。天正七年に再度攻め込み落城させ、天正八年に櫛部兼氏・兼久の近田城を攻めて自害に追い込んでいる。
天正十三年、豊臣秀吉命により小早川隆景が伊予へ大軍で攻めてきた。これに対して時新居・宇摩郡の武士たちは集まって評定を開いた。この時金子元宅は徹底抗戦を主張し場の参道を得た。
石川氏の当主虎竹は八歳と幼少であるため、金子元宅が総大将となって氷見の高尾城を本陣とし、野々市原等で戦ったが戦死。
金子城は元宅弟の金子対馬守元春が守り、土佐から片岡光綱らの援軍もあったが最後は落城した。
金子城周囲にも関係史跡が残っており、
東麓の慈眼寺のある場所に館があった。金子氏墓所や天正の陣で戦死した真鍋氏や岡崎忠俊の墓がある。
北麓にも金子氏墓所があり鎌倉時代頃以降の五輪塔が転がっている。
金子城滝宮口古戦場
公園の近くに石碑
主郭
山腹に見えた窪み。
遠目に堀切に見えたが柵の外で確認は難しかった。
武者象
33.950138, 133.278764
金子城福寿谷古戦場
激戦となり血だまりの池があったと云われる。
33.950103, 133.276741この辺、北麓の金子氏墓所近く。