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信成堂

岩手県遠野市東舘町にある信成堂

現在家庭裁判所になっている場所。
鍋倉城北麓、遠野博物館前。
入口付近に石碑が建っている。

盛岡藩遠野領の郷校。
嘉永五年、田口圭一郎・工藤謹之祐・江田大之進が遠野南部済賢へ進言し、
嘉永六年、運営費五百石で創設された。
由来は「信以成之」。

訪れて始めて知った為、由緒は詳しく知らず。
石碑には江刺県庁舎ともある。
左手には武田忠一郎の顕彰碑も

石碑

千葉家住宅

岩手県遠野市綾織町上綾織にある千葉家住宅

国指定重要文化財。

天保年間に主屋が建てられ、大正年間までに現在の建物がそろったと云う。
主屋はL字型の南部曲り家形式のもの。遠野など旧盛岡領に多かった。
付属の建物としては、土蔵、大工小屋、納屋。その他稲荷社や石蔵、庭園もあった。
大河ドラマ花の乱でも使用されとの事。

高台にあって麓に広い駐車場が設けられている。
トイレもあって長距離運転の休憩所にもなっているが、
訪れた平成三十年時には修理作業中だった。

駐車場

看板によるかつての姿

橋野鉄鉱山

岩手県釜石市橋野町にある橋野鉄鉱山

世界遺産。国指定史跡。
釜石から遠野に抜ける途中にあり、ガイダンス施設や広い駐車場もある。

安政四年に大島高任が洋式高炉の建設に成功した事を受け、
安政五年、盛岡藩が橋野へ仮高炉を設置した。
のち一番・二番高炉が置かれ、仮高炉は三番高炉として稼働。
明治になっても使用され、従業員千名、牛百五十頭、馬五十頭、年生産量二十五万貫だったと云う。

明治四年、密造発覚のため一番・二番高炉が停止。
明治二十七年、栗橋分工場の操業開始によって廃止。以降は採石場として使われる。

昭和三十二年、国指定史跡。
平成二十六年、明治二本の産業革命遺産として世界遺産指定された。

高炉入口

大門跡
石垣が残る

側面に道が通っており、石垣も残っている

一番高炉
安政七年、田鎖仲・源治により寛政。
明治元年から銭座を置いたが翌年明治政府が禁止。
それでも継続していたため、明治四年に江刺県より廃止させられた。

二番高炉
一番高炉と同時期の建設で、同理由で廃止。

種砕水車場跡
穴のある石が残っている。

鍛冶長屋跡

御日払所
鉱山事務所。
安政五年に設置という。
明治二十七年の廃止後、別の建物が立ったそうだが、
昭和二十年に移設。
残る石垣の一部は二番高炉の石垣の転用で、二番高炉廃止の明治四年以降に組まれたものという。

倉庫跡

三番高炉
大島高任が安政五年に設置したもの。
当初は仮高炉としていたが、のち三番高炉として稼働。
明治四年に一番と二番が停止後も使われ、明治二十七年に廃止。

日本最古熔鉱炉記念碑
揮毫は永野重雄

測量碑と星座石

岩手県釜石市唐丹町大曽根にある測量碑と星座石

釜石市指定文化財
39.209333, 141.885472の辺りに登り口がある。
登ってすぐの所に碑があり、石碑もある。

享和元年九月二十四日、伊能忠敬が測量に訪れ北緯三十九度十二分と測量
文化十一年、天文学者葛西昌丕がこの事績を石碑として残した。
さらに葛西昌丕が死去後の天保七年、門弟が業績を称えた遺愛の碑も建立された。

星座石
碑の建立と共に建立された星座名が刻まれた石

登り口

奇跡の一本松等震災以降

岩手県陸前高田市気仙町にある震災遺構

道の駅高田松原を中心に、震災の遺構が保存されている。
何れも道や駐車場・説明看板が整備され見学が容易になっている。
平成二十三年、東日本大震災の津波によって陸前高田も被害を受けた。
市街地含め大部分が失われたが、一部残った建物が史跡保存された。
これにより地震の脅威が後世に於いて、目に見える形で知る事が出来るようになった。

道の駅高田松原
ここも震災で被害を受けたが、新しくリニューアルされた。
震災以降を回る拠点にできる。

奇跡の一本松
道の駅の南西側、道がついている。
アカマツとクロマツ交配種のアイグロマツ。樹齢百七十三年。
この辺りには七万本の松原が江戸時代より植えられていた。
東日本大震災にて松原が壊滅したが、この一本のみが倒れずに残った。
翌年の平成二十四年に枯死したが、芯棒を入れて保存された。

陸前高田ユースホテル
一本松の側。
昭和四十四年竣工の建物。
震災の少し前である一月から休館中だったため当日客は居なかった。
完全に崩落しなかったことで、一本松が残ったと云う。

タピック45
元、道の駅。
現在の道の駅東に隣接している。
震災時には水没したが、上部のみ沈まず、三名が助かったと云う。

高田松原物産館の辺り。
道の駅跡の隣、建物跡。

気仙川水門

気仙中学校
道の駅の西。
建物上に津波到達ラインの看板があり、完全に水没した様子。
津波到達前に非難が完了したことで犠牲者がでなかったと云う。

槻蔭舎

岩手県二戸市福岡五日町にある槻蔭舎

二戸市指定有形文化財。
呑香稲荷神社への参道麓にある。
呑香稲荷神社神官の小保内孫陸の茶室。

安政五年、萩の小倉謙作・小保内孫陸が会輔社を設立。
万延元年、吉田房五郎が社規を整え、小保内孫陸と岩舘民称を社長とした。
会輔社は私塾であり、槻蔭舎において講義を行った。
明治十一年、会輔社学校と改める。

早い段階での私立学校を設立し、二戸福岡の教育を発展させたとして評価されていると云う。
文化財へは昭和四十四年五月十五日指定。

呑香稲荷神社

慈光寺の一字一石塔

岩手県久慈市大川目町にある摂待氏供養塔

久慈市指定文化財。
享保三年、摂待宗硯によって建立された摂待氏の供養塔。
平成五年に文化財指定。
看板曰く、大川目町で最も古い一字一石塔。
かなりでこぼこしており、銘は読みにくい。

摂待氏は久慈氏の一族。
久慈直治の弟治光の血筋という。九戸の乱で久慈氏が滅んだが摂待氏は生き残っている。

浜町の常夜灯

青森県上北郡野辺地町野辺地にある浜町の常夜灯

町指定史跡。
常夜燈公園になっている。
文政十年、海鮮問屋野村治三郎による建立。
開催商人の橘屋吉五郎によって運ばれたという。
毎年三月から十月にかけて夜間も灯りとして使用された。

野辺地はこの辺りの主要港であり、八戸や蝦夷等に通じる航路もある。
栄えたきっかけは材木によるもので、豊富な桧を此処から運び出していた。
尾去沢鉱山の銅もここから搬出したという。

みちのく丸
北前船。
平成十六年から建造され、翌年完成。
当時の航行実権に成功、大河ドラマ篤姫などでも使用され、平成三十年に現地に。

大間のまぐろ碑

青森県下北郡大間町大間にあるまぐろ碑

大間崎の先端辺りにある目立つ石碑。
まぐろで有名な場所であり、まぐろ関係の食事所、観光駐車場などが整備。
看板も豊富で眺めも良く、観光客も多い。

明治大正に入ってまぐろ漁が盛んになり、一本釣りでも知られる。
現地看板曰く、昭和期には船・漁具の進歩により豊漁が続いたが、
昭和五十年頃からまぐろが釣れなくなり、平成五年ごろ再びまぐろが戻ってきた。
このまぐろ漁は映画化もされたほか、1匹億単位の価格が付いた事もあるという。

本州最北端の地碑

豊国丸戦死者忠霊碑
特務艦。昭和二十年七月にアメリカ艦の攻撃を受けて沈没。
石碑揮毫は内閣総理大臣福田赳夫

津軽海峡
対岸は箱館の辺り。

旧大湊水源地水道施設

青森県むつ市桜木町にある旧大湊水源地水道施設

国指定重要文化財。
北の防人大湊として観光地整備されている。
海望館に展望台や駐車場、周囲には官舎や水槽、
公園を北へ進んでいくと沈澄池堰堤があり、北側駐車場もある。

明治三十五年、海軍の大湊水雷団により設置された観戦補給用の水道施設。
終戦後も昭和五十一年まで使用された。
その後は公園化し、昭和五十九年に市有形文化財。平成五年に県重宝。
国指定は平成二十一年という。

金剛水
官舎付近の湧き水。皇族訪問時にも献上水として扱われたという。

官舎弐番館
大正四年に建てられた。
内部へは入れなかったが和風との事。
外壁は安山岩製

官舎壱番館
大正四年建築。弐番と同様内部は和風との事。
昭和六二年まで使用された。

乙水槽
明治三十八年からの水道拡張工事で建設され、
明治四十三年竣工。分岐送水用。
一度復元修理されたらしく、看板に旧写真もある。

沈澄池堰堤
明治三十八年から築かれ、明治四十二年竣工。
横須賀鎮守府経理部建築科による施行との事。
北の公園部分ある目立つ場所。
現在も水がためられており、看板写真では放水もしている。