カテゴリー: 高知県

桑名好庵の墓、長澤理慶・理成の墓

高知県高知市西久万にある桑名好庵や長澤理慶の墓

西久万の山中に古い墓地があり、いずれもその中にある。
墓地へは西宮神社から道がある。社殿左に山へ続く道があり、進んでいけば墓地が見える。
山上まで進めば桑名古庵墓の案内看板がある。

また、桑名古庵墓の西二段下に長澤氏墓所があり、長澤理慶や理成の墓がある。
藪化しつつあるも、桑名古庵墓の南側からだと行きやすい。

西宮神社

社殿

社殿左に妙見大明神。
この左に墓所への道。

上っていけば案内看板

桑名古庵の墓
五百蔵左馬進藤次の子。紀州出身
父が大阪の陣で戦死し、高松でキリシタンになったが、親戚の野中親考に指摘された為キリスト教を棄てた。
のち高知で医者をやっていたが、寛永二十年にキリシタンであるとして投獄された。
母・兄・弟は獄死、自身も元禄に年に死去した。
墓には土葬と明記してあり、火葬であるキリシタンでは無いと弁明のためという。

隣には一族の墓二基、
娘のてう(天和三年六月十五日没)
桑名休養娘の久(貞享五年十月二十五日没)
いずれ墓碑に土葬と刻まれる。

長澤氏墓所
桑名古庵墓所西二段下。

長澤理慶の墓
元は足利義昭に仕えていたと云う。
のち、京で医師となっていたが、子の理成が山内一豊に仕えた縁で高知に移った。
のち側医二百石。
慶長十六年九月十八日没。
墓は倒れてしまっており、正面の戒名も枯葉が積り見えなくなっているが、
側面の没年はかなりハッキリと読み取れる。

長澤理成の墓
石祠五輪塔のとなり、理慶の子。藤左衛門
天正年間、長浜で山内一豊に仕えた。
のち千石を食み伏見城や丹波篠山城普請にも関わったと云う。
慶安に年三月二十五日没。

墓碑は読み取りにくくなっていたが、西光院殿の戒名で判別。

谷干城の墓

高知県高知市西久万にある谷干城の墓

33.574244, 133.524444に入り口あり、すこし手前に谷干城墓の看板も右手にある。
先にある階段を上れば「谷干城先生邸址」の碑がある。廃墟と化した屋敷もある。
進んでいけば谷氏の墓所へ出ることができる。

谷干城の墓
土佐藩士。のち子爵。
谷万七景井の子。号を隈山。
武市瑞山とも交流し、致道館教授、小目付を勤めた。
戊辰戦争時は大軍監、西南戦争では熊本城を守った。
軍から離れたのちは学習院長、華族女学校長、農商大臣、貴族院議員と歴任し、
明治十七年に子爵となって華族入りした。
明治四十四年五月十三日没。

谷氏墓所
谷泰山の家系らしく、それ故か墓碑は小ぶりの石。
大きくしないという言いつけをまもっての事か。

谷乙猪の墓
谷干城の養子。
戊辰戦争時は迅衝隊士。従五位。

入口付近看板

階段登った先の邸碑

妙福寺・片岡光綱の墓

高知県高岡郡越知町片岡にある後城山前川院妙福寺。
真言宗。乗台寺末寺。本尊は千手観音、不動明王

開基年は不明で天正四年以前と云う。
片岡氏の祈念寺となったが、明治四年の廃仏毀釈で廃寺。
昭和四十四年、寺が復興された。

33.573538, 133.285211にあり。
道は狭いが境内は広く、来るまでも上がることが出来る。

片岡光綱の墓
片岡氏十四代。すぐ背後の片岡城主。
高岡郡・吾川郡の北部における大豪族。
元亀二年長宗我部氏に降ったのち、天正十三年に天正の陣に於いて金子城へ援軍に赴き戦死。
金子城麓の慈眼寺にも供養塔がある。

片岡城

高知県高岡郡越知町片岡にある片岡城

33.573649, 133.284323から城への道あり。
登っていくと曲輪を数段経て主郭へ至る。
主郭には神社が建っており、道中に石垣・石段がある。主郭背後には大きな堀切。

城主は片岡氏。
高岡郡・吾川郡北部一万三千石の大豪族。
片岡氏は期限が複数説あるが、鎌倉期に近藤経繁を祖とすると云う。
経繁は吾川山庄の別府氏の元に居り、別府氏へ背いた矢野氏を討って土着、故郷上野国片岡郷より片岡氏を称した。

黒岩城を本拠としていたが、十四代・片岡光綱の代に片岡城・法厳城を築城し本拠を移転させた。
元亀二年、長宗我部元親に降りその参加となる。

天正十三年、豊臣秀吉の命で小早川隆景らが伊予へ攻め込んだ際、金子元宅率いる東予の国人連合と戦った天正の陣が勃発。
片岡光綱は長宗我部よりの援軍として金子城救援に赴き戦死した。
天正十四年、光綱の子十五代・光政は戸次川の戦いに長宗我部軍として参加し戦死し滅亡した。

登山口。

登った途中の曲輪

竪堀

主郭下段。

虎口らしき箇所

土塁

石段が多く残る。

主郭への石段。

主郭
奥に社殿。

主郭側面の石垣。

堀切。

茶園堂


高知県高岡郡越知町片岡にある茶園堂
33.572188, 133.284333にある。

寺野城十三代・片岡茂光が城下に建立、
領民に旅人へ茶湯の接待を行わる為と云う。また、領民を茶園堂へ集めて盆踊りも行った。
十四代・片岡光綱は新たに片岡城を築城し本城を移転させると、片岡にも茶園堂を建立し、旅人への接待を続けた。
永禄三年、片岡茂光が死去すると供養として、妻理春尼が村の子を集めて読み書きを教え、此処等で盆踊りを開いた。
片岡氏滅亡後も盆踊りは続けられ、江戸初期には野中兼山が援助。
現在も瑞応寺の盆踊りとして続くと云う。

吉良城

高知県高知市春野町弘岡上にある吉良城
吉良峰城とも。

33.510783, 133.455645に地図と入り口への看板あり。
車の場合看板手前にスペースはあるが難しいところ。徒歩が確実。
看板のある麓一帯は土居が谷と称し、吉良氏の館があった場所。
光蓮寺という寺もあったようだが菩提寺か?
城は南北の二つの頂を中心に曲輪を配している。
北の主郭には石垣もあり、さらに北端には三重の堀切あり。

土佐吉良氏の本城。
土佐吉良氏は源希義の子・希望を祖とする。
戦国時代には土佐七雄に数えられ、吉良宣秋の代に最盛期を迎え、吉良条目という法令を定めたとも。
天文九年、本山茂辰は吉良宣直の鮎漁不在の隙を付いて吉良城を攻撃し落城させ、宣直も討ち取った。
宣直死後は本山茂辰が吉良氏を称した。

その後、長宗我部氏と本山氏が争い、永禄六年に本山氏が朝倉城を放棄し撤退すると、吉良城は長宗我部氏が接収した。
この時、長宗我部元親は弟の親貞に吉良宣直の娘を娶らせ、吉良氏を再興させた。
親貞の跡を子の吉良親実が継いだ。
天正十四年、元親の跡継ぎである長宗我部信親の戦死により後継者問題が起こる。
親実は元親へ進言を行っていたが、怒りをかって天正十七年に切腹、土佐吉良氏は滅亡。吉良城も廃城に。

麓の土居地図と入り口案内の看板
従って進んでいけばたどり着く。

登った先の曲輪

南頂の曲輪
大穴あり。

南北中間の堀切
竹で橋が掛けられているがほぼ壊れている。
堀切下を通る道も普通にあるので無理して渡らなくて良い。

主郭
北山頂。

主郭南側土塁。

主郭側面石垣。

北側の連続堀切

菅原高視の墓と邸跡

高知県高知市北高見町にある菅原高視の墓と邸跡

33.546231, 133.536898の道を登っていくと左手に石碑と入り口がある。
菅原高視は菅原道真の子。
昌泰四年、道真を失脚させた昌泰の変によって、
高視も土佐権守として土佐へ左遷され、土佐潮江に住んだ。
この場所が高視の邸跡と云う。

菅原高視の墓
邸跡より少し奥にある。
「高視朝臣標」と掛かれた石柱あり。
また、墓前には「菅原高視朝臣墓所」の新しい墓石も。

野中兼山・吉田東洋の墓

高知県高知市筆山町にある野中兼山・吉田東洋の墓

筆山の墓地内にある。
野中兼山は33.548878, 133.536940の辺りにあり。
南東側のトンネル付近から登るとわかりやすいが来るまでは行けない。
山上の駐車場からならば多少迷路を通るが目指すこともできる。

吉田東洋は兼山墓所よりも北の道をひたすら東方面へ進んでいくと、
途中で「吉田東洋の墓」、「東洋先生墓是ヨリ上十五間余」の石碑・看板あり。

野中兼山の墓
野中良明の子。諱は良継。
良明の叔父益継を頼り、益継の子・直継の養子となる。
土佐藩初期の藩政に尽力。
のち失脚し、子らは宿毛で幽閉される。

野中益継の墓
野中伯仙の子。兼山は弟良平の孫。
元和九年十一月六日死去。
裏にあたりに助継(兄弟の遂継子孫)の墓あり。

野中直継の墓
玄蕃。
寛永十三年十一月十八日死去。
益継の子。兼良の養父。

野中婉の墓
兼山の娘。
幽閉中男系が絶え赦免される。
享保十年十二月二十九日没。
儒学・神道・詩文に通じると云う。

野中清七一明生母池氏の墓
清七(兼山の子)や婉の生母。池氏。
宝永元年十月十一日死去。
正運院殿法菴妙輔大姉

吉田東洋墓の入り口

吉田東洋の墓
吉田正清の子。諱は正秋。
山内容堂に抜擢され藩政改革を行った事で有名。
人材育成・登用にも尽力。
文久二年四月八日土佐勤皇党により暗殺される。

左には妻の墓あり、後藤正澄の娘で甥に後藤象二郎。

吉田氏歴代の墓
周辺には代々の墓有、文字もはっきりしているので判別が容易。

土佐山内氏墓所、松下氏墓所、織田信安墓

高知県高知市筆山町にある山内氏墓所等

33.553009, 133.536126のあたりに入り口がある。
向かいには山内氏菩提寺の眞如寺。
山内一豊が慶長十年に死去し筆山へ葬られた。
のち、四代・山内豊昌が先代・忠豊を葬る際に、歴代墓所として整備した。

山内氏墓所。
内部には入る事はできない。
ただし説明看板が建っており
山内一豊~十四代・豊惇、十六代・豊憲、十七代・豊景の墓域となるようだ。
一豊墓は無縫塔。

松下氏墓所。
山内墓所の少し西、筆山へ上がっていく道左手に手すり付きの階段奥にある。

松下氏はかつて豊臣秀吉が最初期に仕えていた。松下之綱の代に大名として出世。
松下重綱・長綱の代に数度転封を繰り返し、最終的に寛永五年に三春藩主となる。
しかし、正保元年に狂気を理由に松下長綱は改易。
妻の実家である土佐山内忠義へ預けられた。のち、寄合として旗本復帰がかなうが長子豊綱が死去したため、次男の長光が跡を継ぐ。
此処には長綱・長綱室・豊綱の墓がある

松下石見守長綱の墓
松下重綱の子。
月照院殿石州太守従五位下圓室宗大居士。
万治元年九月十日、四十八歳で死去。

長綱室の墓
山内忠義次女。
壽光院殿皓譽泰庵長清信女
貞享二年九月三日没。七十五歳。

松下豊綱の墓
長綱長子。
善法院殿覺峯俊正信士
明暦三年死去。

織田信安の墓
山内氏墓所参道途中から右手を見た辺りだったと思う
尾張岩倉城主。伊勢守。田敏信の子。
織田信長と争う。跡継ぎ問題で子の信賢に追放される。
家臣の山内盛豊の子・一豊が土佐の大名へ出世しており、是を頼って土佐へ赴き高岡郡戸波二百石与えられた。

なお、墓側の看板では信安ではなく子の信賢になっている。
旧看板・山内氏墓所入り口の看板では信安であり、正しいのはどっちだ。
とりあえず「土佐の墓」に従って信安のつもりでいる。

眞如寺
向かいにあり。
山内氏菩提寺。

六志士の墓

高知県高岡郡梼原町梼原にある六志士の墓
33.390975, 132.928710に入り口。
茶堂のすぐ西。茶堂を目指して行けば良い。茶堂前にスペースもあり。

吉村寅太郎・那須俊平・那須信吾・前田繁馬・中平龍之助・掛橋和泉の墓。

入り口。

吉村寅太郎・那須信吾の墓
吉村寅太郎は諱が繁郷、庄屋、のち脱藩して文久三年天誅組の変で戦死。
那須信吾は諱重民、俊平養子。吉田東洋暗殺後、天誅組に属して戦死。

那須俊平・前田繁馬の墓
那須俊平は諱重任。脱藩後、松山深蔵忠勇隊に属して禁門の変で戦死。
前田繁馬は天誅組に加わり戦死。

中平龍之助・掛橋和泉の墓
中平龍之助は諱定確、忠勇隊に属して禁門の変で自害
掛橋和泉は諱吉長、志士活動を義母に咎められ、同志か家の間で苦悶し自害。