祥雲寺、一関藩田村氏墓所

岩手県一関市台町にある祥雲寺

大慈山。
臨済宗妙心寺派。

一関藩田村氏の菩提寺。
開山は大機禅応、
伊達忠宗側室の房姫開基。
寛文九年、田村氏の岩沼時代からの創建、
天和二年、田村建顕が一関に移封されるにあたり寺も移転したという。

国道沿いの参道入口に境内図がある。
寺域には一関藩田村氏墓所、浅野長矩供養塔、建部清菴の墓などがあるため、
先ずは境内図を確認するのが吉、道を挟んでいる為注意。

本堂
境内は背後の山も含めて登った高い場所にある。

豊谷寺墓碑
瑞雲山豊谷寺は寛永十八年建立の伊達宗勝の菩提寺。
宗勝改易後、衰退し明治になって廃寺になった。
のち祥雲寺が墓石を引き取ったという。

土地堂
古い堂だったが廃れていたところ、落雷や熊被害を以て、
平成二十三年の坂上田村麻呂千二百回忌に改修・近江田村神社から勧請が決まる。
のち平成二十五年に勧請。

保性院殿廟
岩手県指定文化財。
伊達政宗の側室。伊達宗勝の母。
寛文九年に建てられたが、豊谷寺が廃寺になったため、ここへ移された。
内部には桃山風の壁画等があるらしい。

経蔵
市指定文化財。
看板曰く天明八年開基で文政十一年に完成。
薩雲の額は諏訪温泉寺願王和尚の揮毫という。

長谷観音堂
田村宗良母の房姫を葬った場所に千手観音を祀ったものという。

一関藩田村氏墓所
田村氏が一関藩主になって以降、代々の墓所。
一か所の墳墓にまとめらている。
墳墓の左右や下段には僅かながら一族の墓石も残る。

田村崇顕の墓
田村氏三十八代。
一関藩十一代。
角館要害の石川義光の子。田村邦栄の養子。

邦栄が戊辰戦争敗戦後に跡を継いだが、すぐに版籍奉還で藩体制が終わる。
大正十一年没。
墓石は自然石。墳墓下段の右手にある。

浅野長矩の供養塔
内匠頭。
赤穂藩浅野氏三代。浅野長友の子。
元禄十四年、吉良上野介義央へ刃傷におよび切腹。
切腹対応を一関藩主田村建顕が担当し、その縁で供養塔がある。

建部清菴の墓
一関藩の医者。
一関の過ぎたるもの、として時の太鼓と建部清菴と呼ばれる。
先祖は近江出身。諱は由正。代々清菴を称し、この人は二代目。
父である建部清菴元水は堀直矩に仕えたが家中を追われ、元禄十四年に田村建顕の知遇を得て一関に移ったという。

二代の由正清菴はオランダ医学を修め、寛延元年に跡を継いだ。
宝暦五年には飢饉に備えて「民間備荒録」を著した。
天明二年没。
済世軒諦道清菴居士の墓碑側面に「諱由正」の文字。

建部清菴家墓所
代々清菴を称した。

願成寺、一関藩伊達氏墓所

岩手県一関市釣山にある願成寺

白馬山。曹洞宗。

至徳二年、梅栄元香による開山。
開基は新山城主竹内興田盛輔。
寺には平安期作の木造薬師如来座像もあって県指定文化財になっている。

現在一関藩伊達氏の菩提寺になっている。
本堂左辺りに伊達宗勝らの墓所がある。
また、「願成寺ゆかりの先人散策図」という看板があり、境内の著名人墓図がある。
位置はこれでも確認できる。
なお、看板によると平和の日時計供養塔あたりに、竹内興田盛輔の墓もあるそうだが訪れた当時見落とした

三力士の墓
九代横綱・秀ノ山雷五郎、一力長五郎、男山三五郎の墓
境内入ってすぐ左に見える。

本堂

一関藩伊達氏墓所。
伊達宗勝・宗興・。保性院の墓三基と、
左右に一族の五輪塔が並ぶ。

なおここ以外にもそれぞれ墓があり、
宗勝は別項に書いたが、流刑先の土佐にある兼山神社途中。
宗興は福岡の安国寺、
宗興の妻子らは伊予吉田の大乗寺。

伊達宗勝の墓
前兵部大夫従位下
東岳院殿峯山紹雄大居士
伊達政宗の九男。万治三年に一関藩主になったが、伊達騒動で改易され土佐へ。

伊達宗興の墓
宗勝の子。
慈徳院殿忠山實考大居士
伊達宗勝の子。

保性院の墓
保性院殿快巖妙竒尼大姉
伊達政宗の側室。宗勝の生母。

一族の墓
新設の五輪塔。子女らの墓。

一関陣屋

岩手県一関市城内にある一関陣屋

一関城前にある公園や裁判所のある場所にあった。
また、駐車場となりにあるやぐらの広場8.927778, 141.131778に陣屋図看板もある。
陣屋の看板絵図からは周囲に堀が巡らされ、居館や隅に二層の建物、役所部分には三層の櫓のような物もある。


一関藩庁。
万治三年、伊達宗勝が三万石で分知され、一関で大名になった。
寛文十一年、伊達騒動によって宗勝は改易される。宗勝は土佐へ流罪。

次いで入ったのは田村氏。
元は三春の大名だったが、天正十八年の田村宗顕の代に奥州仕置きで改易されていた。
のち伊達政宗室の愛姫の遺言によって、伊達忠宗の子である宗良が田村氏を称し再興。
愛姫は田村清顕の娘のため血も引いている。

当初は万治三年に岩沼藩として大名へ復帰。
天和二年、宗良の跡を継いだ田村建顕の代に一関藩へ移封になった。
建顕の代には浅野長矩逆上による刃傷事件が起こり、長矩の切腹対応を担当した。

戊辰戦争時の田村邦栄の代には同盟軍側に付き戦うも敗戦。
それにともない崇顕が跡を継ぎ、明治に廃藩。

時の太鼓櫓跡
裏門辺りにある。
貞享三年、田村建顕が此処に太鼓櫓設置を許可された。
やぐらの広場として、説明板や小さな模擬太鼓櫓が置かれている。

西側隅の土塁。

公園の庭園

旧沼田家住宅
一関市有形文化財。
一関藩家老沼田家の屋敷
一関藩の現存武家屋敷。

現存の城門。
毛越寺の山門になっている。

一関城

岩手県一関市釣山にある一関城

一関にある釣山公園になっている場所。
車の場合は北麓の陣屋部分に駐車場がある。
山頂部に広い主郭がある。周囲の曲輪もあるが公園や畑化している。

麓の八幡の看板曰く、
古くは坂上田村麻呂が陣を敷いた場所とも。前九年の際にも源頼義・義家が入ったと云う。

城郭体系では城主は天正年間に小野寺伊賀。
ほか興田氏、高崎氏が居たとも。
江戸時代に一関藩として田村氏が城麓あたりに陣屋を置いて以後も、月見の宴等で使用したと云う。

全体が公園化されているため道は綺麗に舗装。

城跡の名残りであろう小さな曲輪

清菴野草園
昭和六十年に整備。
一関藩医の建部清菴が飢饉を見かねて著した、民間備荒録と備考草木図の植物を植えているという。

藩主井戸
一関藩時代、藩主田村氏が月見の宴にここの水を使用したと云う。
その後湧水量が減少したものの、大正年間に修復。
昭和六十二年に復元され維持される。

庭園化した曲輪

畑化した曲輪

おさん稲荷
元禄四年、宇迦御魂を祀ったもの。
名前は、一関に太郎稲荷、次郎稲荷があり、ここが三番目だったためという。
お産と商売繁盛で参拝される

主郭部
千畳敷と称した山頂曲輪

田村神社
田村氏の先祖坂上田村麻呂を祀る、山頂の神社。
元は東京の田村氏の屋敷にあったという。
大正期に田村氏が一関に戻り、社殿をここへ遷座した。

愛姫桜
伊達政宗室の愛姫は田村氏の出身。
奥州仕置きで改易された田村氏だったが、愛姫の遺言で一関藩として大名に復帰。
この縁で田村氏の旧本拠三春町と、藩政時代の藩庁地だった一関市が指名都市提携。
提携三十年記念として三春から愛姫と命名した桜が送られた。

伽羅御所

岩手県西磐井郡平泉町平泉伽羅楽にある伽羅御所

38.990694, 141.118278に説明看板。
さらに西38.990895, 141.117138に標柱
訪れた際には平泉の世界遺産指定を受けて、発掘調査と整備中だった。

奥州藤原氏の居館地。
藤原秀衡が無量光院の東に新しく構えた居館。
秀衡の死後は泰衡が入ったが、文治五年の奥州合戦後は焼失したと云う。

発掘調査中。

柳之御所

岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所にある柳之御所

平泉館とも。
道の駅平泉近くに入口がある。
国史跡指定され、中央の建物跡、付属建物跡、庭園が公園整備されている。
建物跡にはそれぞれ説明看板も設置された。

奥州藤原氏の館。
藤原清衡が豊田館より本拠を移転させた。遺構、基衡・秀衡・泰衡に至るまで、
奥州藤原氏の中心地として使用。
南側には伽羅之御所、西には無量光院、北西には中尊寺と、藤原氏主要史跡が此処を中心に固まっている。

塀跡
板塀。

厩跡
掘建柱建物

付属建物
中心建物の側にある。

廊下状建物

園地
中央に中島を設けた庭園。
金鶏山は背景に取り込んでいる。

中心建物
東西二か所の大型の建物
柳之御所における中心施設。

井戸跡
底からはかわらけや木製品、陶磁器、印章が出土

倉庫風建物
高床。

汚物廃棄穴
排便後の汚物を落とすための籌木が発見された。

大型建物
北側。

周囲の堀跡
内と外の日本の堀が発見された。
それぞれ時期が異なるという。
一部が復元されている。

無量光院

岩手県西磐井郡平泉町平泉花立にある無量光院

本尊は阿弥陀如来。
藤原秀衡建立の寺院。京の平等院を元にしたと云う。
かつては広い池があり、島部分に平等院に似た建物が建っていた。

訪れた当時は発掘調査中だったが、島部分には礎石が見え、
島周囲は窪みになっており池が判るようになっていた。
なお、現在の写真を見ると池に水が張られた様だ。

車の場合、駐車場らしき場所はあったが、調査の関係車両が多く別の所へ駐車。
周囲には駐車場無しの史跡があるため、徒歩の方が都合が良いかもしれない。

礎石群

調査作業中の中島

池跡の窪み。

高館義経堂

岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所にある高館義経堂

源義経の居館地。半眼館・衣河館とも。
文治五年の奥州合戦の際、此処に居た所を藤原泰衡が襲撃させ義経は自害した。
天和三年、仙台藩時代に伊達綱村が義兄堂を建立し、甲冑の義経像が祀られる。
元禄二年、松尾芭蕉が此処を訪れ、「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだと云う。

中尊寺から南東へ向かった場所。
離れに駐車場もある。営業時間があるため訪れるタイミングは注意。
境内には義経の供養塔もある。

義経堂

頼三樹三郎の碑。
弘化三年に訪れた際に詠んだ碑。
山陽の子で安政六年に大獄で没。

源義経の供養塔
宝篋印塔。
昭和六十一年、八百年忌の際に建立されたもの。

中尊寺

岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関にある中尊寺

天台宗。関山。

嘉祥三年、慈覚大師円仁の創建。
前九年・後三年の後、藤原清衡が長治二年より整備。
文治五年の奥州合戦後も存続はしていた。
建武四年に焼失してしまうが、江戸時代にはいって再興された。

平泉の主要観光地のため、参道入口等に広い駐車所がある。
ただし有料で営業時間があるので注意。
境内は奥までほぼ一本の道が貫き、諸堂が左右に散見。
それぞれ説明看板もある。

八幡堂
天喜五年、源頼義が前九年の戦勝祈願。
廃仏毀釈で八幡堂になったという。

弁慶堂
文政九年再建。
本尊勝軍地蔵菩薩。
弁慶や義経象もあるという。

薬師堂
藤原清衡が別地に建立。現地へは明暦三年に建立。

近くに本堂があるのだが当時寄り忘れた。

梵鐘
岩手県指定文化財
康永二年のもの。金色堂別当頼栄の発願。
藤原氏滅亡後の歴史が銘にある。

金色堂。
奥州藤原氏墓所。
天治元年の上棟。
奥州藤原氏の墓所になり、藤原清衡・基衡・秀衡の前身ミイラ状の遺体、
藤原泰衡の首が納められていた。
正応元年には覆堂が建てられ、昭和三十八年に現在の覆屋になった。

経蔵
重文。創建時の古材で建立。
保安三年棟札。
保存は騎師文殊菩薩
重文四眷属象、国宝の堂内具・紺紙金字一切経などがあったという。

金色堂覆堂
重文。
正応元年、金色堂修復の際のものという。
昭和三十八年、現在の堂が建てられたため移築。

白山神社
嘉祥三年、慈覚大師円仁が加賀より勧請
嘉永二年に焼失。

能舞台
国指定重文。
天正十九年、豊臣秀次・伊達政宗観覧。
嘉永六年、伊達慶邦が再建。

武蔵坊弁慶の墓

岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関にある武蔵坊弁慶の墓

38.998167, 141.108556
中尊寺へ向かう途中、南東側の道の間にある。
文治五年、高館の源義経が襲撃された際に武蔵坊弁慶が戦死。
その没後はここに葬られたという。

背後に墳や五輪。