比与鳥柵、後藤信康の墓

岩手県奥州市江刺稲瀬正源寺台にある 比与鳥柵

現在正源寺のある場所にあった。
寺の手前に説明看板と石碑がある。
看板の城図から、寺域と背後の墓地域が城跡だった様だが、遺構らしさは少ない。
寺域が兵部館、最上段が俵岩城と書かれている。

前九年の頃の城跡で、城主は安部則任。
また、墓地最上段に後藤信康の墓がある。

後藤信康墓の石碑。山門前。

正源寺。
左手から墓地へ上がる事が出来る。

背後の墓地域。
ここらも城域。

後藤氏墓所。

後藤信康の墓
湯目重弘の子で、後藤信家の養子。肥前守。
後藤氏は藤原利仁の末裔、後藤信末頃に伊達氏に属したという。
信康の代には伊達輝宗・政宗に仕えて軍功あり、重用された
慶長六年よりの仙台城普請では総奉行を務めた。

しかし慶長十年、改易される。葛西大崎一揆の際の軍法違反の為とも。
慶長十六年に赦され、江刺郡三照、および不動堂村に知行地を得た。
子の近元が不動堂要害へ入り、不動堂後藤氏として代々続く事になる。

信康は慶長十九年八月八日没。
覚定院殿月州源心居士


隣にある後藤氏墓碑
右:後藤兵衛行康の墓
・・齋皈菴悟道居士
天保九年五月十一月六日。
七十三。

左:後藤昌康後妻の墓
延壽院花屋明縁大師
天保五年四月八日。
四十一。

岩谷堂城

岩手県奥州市江刺岩谷堂舘にある岩谷堂城

岩谷堂要害
館山史跡公園になっており、夢乃橋を渡ったところに広い駐車場やトイレも設置されている。
駐車場側には城の案内看板も建つ。
駐車場のすぐ上に主郭があり、二重の土塁で守られている。
主郭部は奥州藤原を祀る二清院と八幡になっており、南西方向に曲輪が延びている。
その堀や曲輪の先に広い運動場のような場所があり、そこが二の丸があって書院等があった。


築城時期は諸説。鎌倉時代に千葉胤道が入ったとも、現地には奥州藤原氏の館地の石碑もある。
その後は岩谷堂城江刺氏の城として使用され、奥南落穂集にて葛西信詮の子江刺信満の名前が伝わる。
以降、江刺氏は主家の葛西氏と何度も争う等したが、
戦国時代の天正十八年江刺重恒の代に、豊臣秀吉により葛西氏が改易。
江刺氏は葛西氏と共に滅亡してしまった。

江刺氏が去った後、木村伊勢守吉清領となり、岩谷堂城へは溝口外記が入った。
しかし葛西大崎一揆によって外記は戦死。

天正十九年以降、北目氏、桑折説政長、母帯越中、古田重直、増田将監宗繁、藤田但馬宗和等の名前が出る。
寛永二十年からは、古内義重・義如。

万治二年、岩城氏(岩谷堂伊達氏)が岩谷堂要害に入り、以降は仙台藩領岩城氏の支配で明治まで続いている。

主郭周りの二重の土塁

主郭

北側の虎口らしき箇所

二清院
藤原経清・藤原清衡を祀る。
両名の顕彰の為、平成十一年三月に建立された。

神社

主郭西下の藤原氏御館跡の碑

主郭西下の曲輪

西方面の堀切

西方面、広さのある曲輪

二の丸
グラウンド。

現存裏門
興性寺の山門として残る薬医門

光明寺、岩谷堂岩城氏墓所

岩手県奥州市江刺南町にある光明寺

大蔵山光明寺
曹洞宗。
本尊は延命地蔵菩薩。

応永三年の創建で、かつては江刺氏の菩提寺だったという。
江戸時代に入った万治二年、岩木宗規が岩谷堂要害に入ると、以降岩城氏の菩提寺になった。
境内背後に岩城氏歴代の墓所がある。

岩城氏は名前の通り、磐城郡の岩城氏出身。宗家はのち亀田藩主。
この系統の祖は岩城政隆で、岩城常隆の子。
祖父・岩城親隆が伊達輝宗の兄だった縁を以て、慶長十二年に伊達政宗へ召しだされた。
慶長十五年には伊達姓を許されて、この系統は岩谷堂伊達氏を称する。

政隆の跡を継いだ国隆が元和元年に死去後、無嗣断絶しかけた為、伊達忠宗の七男・宗規が養子として継ぎ、岩谷堂へ入り続いている。

宝塔

岩城氏墓所。
境内左手から回り込むと道があり、説明石碑がある。
以下当主の墓

初代・岩城宗規の墓
伊達氏十八代・伊達忠宗の七男。岩城国隆の養子。
墓は覆屋付。
花木院殿春巖聯芳大居士
貞享二年二月十日没。

二代・岩城村隆の墓
紹隆院殿傑心崇英大居士
享保十余年八月二十七日没

三代・岩城村望の墓
威光院殿徳明禅雄大居士
明和二年三月二日没
子の岩城隆恭は岩城宗家の亀田藩六代を継いでいる。

四代・岩城村富の墓
寶珠院殿哲明俊光大居士
寛政四年十月二十六日没

五代・岩城村将の墓
淳徳院殿覺聰明霊大居士
寛政七年二月十七日没。

六代・岩城宗隆の墓
浄蕙院殿清崇徳雄大居士
文政七年正月二十六日没

七代・岩城宗嵩の墓
自性院殿天菴眞公大居士
安政六年七月三日

八代・岩城義隆の墓
覚光院殿圓雄良照大居士
文久二年八月二十日没

九代・岩城邦規の墓
義恭院殿賢應良功大居士
明治九年正月二日没。

十代・岩城基隆の墓

浮牛城

岩手県北上市口内町松坂にある浮牛城

浮牛要害。
39.297783, 141.203998に登り口。駐車場は無いので注意。

主郭を中心に周囲を一段低い曲輪が取り巻く。
南の平地に二の丸を置き、かつては堀で囲んでいた。北東側には堀切もあるという。
その他、周囲には小路の地名が城下町の名残りを残す。


元は前九年で知られる安部貞任が築城し、牛三頭を生き埋めにして鎮護としたという。
中世には江刺氏氏一族の口内氏の城になったという。
天正年間には江刺兵庫頭重恒が修築し、口内帯刀が入った。
天正十八年、葛西氏が滅んだ後は伊達氏領になる。
南部氏との領境のため、江戸時代に入っても要害として維持され、何度か城主が入る。

元禄八年、中島利成が二千五百二十四石で入ったのち城主は代わらず。

登り口

主郭周囲を取り巻く曲輪

主郭部

武彦神社跡
中島氏の祖・中島宗意を祀ったもの。
元は不動堂が経っていたそうだが、移転させて館神社として設置した。
石碑は以後の由緒が読みにくかったが、武彦神社と称したのは明治十一年という。
社殿は破損の為浅間神社へ遷宮。

水が溜まっている場所。
石垣が組まれており井戸跡か。

二の丸
標柱のみ建つ。

橋野鉄鉱山

岩手県釜石市橋野町にある橋野鉄鉱山

世界遺産。国指定史跡。
釜石から遠野に抜ける途中にあり、ガイダンス施設や広い駐車場もある。

安政四年に大島高任が洋式高炉の建設に成功した事を受け、
安政五年、盛岡藩が橋野へ仮高炉を設置した。
のち一番・二番高炉が置かれ、仮高炉は三番高炉として稼働。
明治になっても使用され、従業員千名、牛百五十頭、馬五十頭、年生産量二十五万貫だったと云う。

明治四年、密造発覚のため一番・二番高炉が停止。
明治二十七年、栗橋分工場の操業開始によって廃止。以降は採石場として使われる。

昭和三十二年、国指定史跡。
平成二十六年、明治二本の産業革命遺産として世界遺産指定された。

高炉入口

大門跡
石垣が残る

側面に道が通っており、石垣も残っている

一番高炉
安政七年、田鎖仲・源治により寛政。
明治元年から銭座を置いたが翌年明治政府が禁止。
それでも継続していたため、明治四年に江刺県より廃止させられた。

二番高炉
一番高炉と同時期の建設で、同理由で廃止。

種砕水車場跡
穴のある石が残っている。

鍛冶長屋跡

御日払所
鉱山事務所。
安政五年に設置という。
明治二十七年の廃止後、別の建物が立ったそうだが、
昭和二十年に移設。
残る石垣の一部は二番高炉の石垣の転用で、二番高炉廃止の明治四年以降に組まれたものという。

倉庫跡

三番高炉
大島高任が安政五年に設置したもの。
当初は仮高炉としていたが、のち三番高炉として稼働。
明治四年に一番と二番が停止後も使われ、明治二十七年に廃止。

日本最古熔鉱炉記念碑
揮毫は永野重雄

松館城、新沼綱清の墓

岩手県大船渡市日頃市町下宿にある 松館城

39.127000, 141.679417まで車で行く事が出来る。
主郭が神社になっており、道が伸びている。
神社一帯は平坦な場所になっているが、周囲は笹薮。帯曲輪があるらしい。
神社へ向かう途中も削平地でありここも曲輪か。

また、途中には新沼綱清の墓がある。


城主は新沼氏。
千葉氏出身で葛西氏の一族と云う。
初代を新沼綱清。二代綱定が永正年間に戦死。
次いで綱重・綱広と続き天正年間に帰農。

車道終点。

新沼綱清の墓
初代城主。
墓は墳墓であり上に小さな墓石の様な物がある。
銘は無いが「新沼綱清の墳墓」と書かれた看板が建っている。

主郭南側の削平地

主郭手前
虎口の様になっている箇所

主郭
八幡神社が建っている
奉納の名前に新沼氏があり子孫も信奉している。

仙台藩本郷番所

岩手県釜石市唐丹町大曽根にある仙台藩本郷番所

釜石市指定文化財
39.210360, 141.887614にある。
測量碑付近の東へ降りていく道の下にある。
場所がややこしく、一度南へ降り回り込んで北へ進み道路下を通る。
平成二十三年の震災と令和元年の台風で二度石碑と標柱が失われたが、復旧されている。

この北側に仙台藩と南部藩の領境があり、監視のための番所が設置された。
北側には盛岡藩側の平田番所もある。

南部藩平田番所

岩手県釜石市平田町にある南部藩平田番所

釜石市指定文化財
団地内の39.245000, 141.890250にある。
公園の一画に石標柱と石碑・看板がある。周囲の道は狭いので車の場合は注意。
江戸時代における仙台藩と盛岡藩の領境にあった盛岡藩側の番所。

平成二十三年、東日本大震災によって流出。
のち少し動いた現地に石碑が再設置された。

測量碑と星座石

岩手県釜石市唐丹町大曽根にある測量碑と星座石

釜石市指定文化財
39.209333, 141.885472の辺りに登り口がある。
登ってすぐの所に碑があり、石碑もある。

享和元年九月二十四日、伊能忠敬が測量に訪れ北緯三十九度十二分と測量
文化十一年、天文学者葛西昌丕がこの事績を石碑として残した。
さらに葛西昌丕が死去後の天保七年、門弟が業績を称えた遺愛の碑も建立された。

星座石
碑の建立と共に建立された星座名が刻まれた石

登り口

奇跡の一本松等震災以降

岩手県陸前高田市気仙町にある震災遺構

道の駅高田松原を中心に、震災の遺構が保存されている。
何れも道や駐車場・説明看板が整備され見学が容易になっている。
平成二十三年、東日本大震災の津波によって陸前高田も被害を受けた。
市街地含め大部分が失われたが、一部残った建物が史跡保存された。
これにより地震の脅威が後世に於いて、目に見える形で知る事が出来るようになった。

道の駅高田松原
ここも震災で被害を受けたが、新しくリニューアルされた。
震災以降を回る拠点にできる。

奇跡の一本松
道の駅の南西側、道がついている。
アカマツとクロマツ交配種のアイグロマツ。樹齢百七十三年。
この辺りには七万本の松原が江戸時代より植えられていた。
東日本大震災にて松原が壊滅したが、この一本のみが倒れずに残った。
翌年の平成二十四年に枯死したが、芯棒を入れて保存された。

陸前高田ユースホテル
一本松の側。
昭和四十四年竣工の建物。
震災の少し前である一月から休館中だったため当日客は居なかった。
完全に崩落しなかったことで、一本松が残ったと云う。

タピック45
元、道の駅。
現在の道の駅東に隣接している。
震災時には水没したが、上部のみ沈まず、三名が助かったと云う。

高田松原物産館の辺り。
道の駅跡の隣、建物跡。

気仙川水門

気仙中学校
道の駅の西。
建物上に津波到達ラインの看板があり、完全に水没した様子。
津波到達前に非難が完了したことで犠牲者がでなかったと云う。