荏原城

愛媛県松山市恵原町にある荏原城
33.766308, 132.812754に入口。
平岡氏の城。河野十八将。棚居城・会原城とも。
取り囲む土塁と堀が残っている。四隅には櫓があったようで石垣もわずかに残る。

初見は忽那一族軍忠次第の中で建武二年十二月二十九日から二月二日に至るまで会原城で戦いが行われている。さらにこの期間中、土居系図で建武三年二月に会原城合戦で土居通世が軍功を挙げている。
その後平岡氏が在城するようになる。室町時代頃には居たようだ。
天文二十三年に北の和田通興などの河野氏への謀叛に対して対応したりと河野氏の重臣として活動している。

ほか、伊予土岐氏や久万高原の大野氏とも争っている。荏原や久万等は鎌倉時代から土岐氏と関り深く、文明四年時点では荏原・久万の地頭職を土岐氏が持っている。さらに土岐成頼が大野九郎次郎に荏原と久万の件で書状を送っており、実地支配を久万に居る大野氏への協力得ているような感じがある。だがこの場所に居座っているのが平岡氏である為に対立したのだろうか。天文二十二年には花山城で大野氏と戦闘になっている。
大野氏との関係は少し本を立ち読みしただけでそこまで調べては無いが、きちんと調べればこの辺の答えは書いてあるのだと思う。

その他、河野氏に従って三好・宇都宮との戦いでも名前が見える。
天正十三年時には平岡通倚が居り、小早川隆景の伊予攻めでは湯築城二の丸を守っていたが河野氏降伏と共に荏原城も開城した。
慶長五年、関ケ原の混乱の隙に河野氏旧臣や毛利氏が伊予奪還の為松前城を攻めた際、平岡直房が荏原城に拠って拠点として使用されたが最後は鎮圧され撤退した。
なお、浄瑠璃寺に平岡通倚の墓がある。

土塁

内側。

櫓台

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