カテゴリー: 細川氏

国弘城

香川県さぬき市寒川町石田西にある国弘城

34.262248, 134.199369の田畑になっている場所。
遺構は消滅している。
奥に建物があって、側に石碑がある様だが、藪化しており近づけない。

応永年間、細川弘氏が築いたという。
戦国時代には細川矩弘が居り、織田信長に属した。
矩弘の次は細川国弘で、豊臣秀吉に仕えたと云う。

埋もれた石碑。

雨滝城

香川県さぬき市大川町富田中にある雨滝城

34.283998, 134.235596に登山口。
手前には若干のスペースと休憩所もある。
大部分が藪化。それでも登っていくと若干の曲輪らしい箇所や石垣も残っている。

城主は安富氏。
細か氏に属して讃岐に根付き、
雨滝築城は長禄年間の安富盛長の代という。
戦国時代の安富盛方の代、篠原長房の娘を娶り三好氏と結び、元亀元年に寒川氏が三好長治へ引田城・虎丸城を引き渡した際、盛方は虎丸城へ移った。
代わって雨滝城へは家老の六車宗湛が入った。

天正十一年、長宗我部氏が雨滝城を攻めた。安富盛定は降らず仙石秀久を頼って逃れた。
城を守っていた六車宗湛は長宗我部軍に降り、豊臣秀吉の四国攻めの後に廃城になったと云う。

登山口。
看板あり。

途中側面に石垣

途中の曲輪群

主郭
一度整備された様だが、雑草で藪化しつつある。
最奥に説明看板もある。

宇佐神社(長尾)

香川県さぬき市長尾名にある宇佐神社

亀鶴公園の一部にある神社。
公園に広い駐車場があるので参拝が容易。

祭神は名前の通りの八幡セット。
看板曰く、さぬき十五社三番、長尾郷総鎮守。

承平六年、宇佐八幡より勧請。
南北朝期、細川繁氏が正平六年に社殿を造営という。
繁氏は近くにある池内城でも名前が出てくる。
正平十九年、細川頼之が隣に八幡池を築造。寺社領用水として使用された。
この池は公園にある池である宮池との事。

明治四年、郷社。
明治四十年、神饌幣帛料供進社になった。

社殿
高台になっている。

宮池。
頼之築造との事。
中央の島は亀鶴古墳群との事。

池内城

香川県さぬき市長尾名にある池内城

近くの亀鶴公園から歩いて行ける。
34.250213, 134.178333に登山口。
長尾衝上断層に付近から道がある。
山上は墓地等のある広い平坦地になっており、周囲には高台や堀切がある。

築城は細川繁氏、のち寒川常隣が入り里城として使用した。

長尾衝上断層
県指定天然記念物。
昭和三十五年に発見された。
白亜紀後期の花崗岩・新生代第三期の流紋岩と、シルト僧・礫層の間という。

登り口

登り口進んだ先。
石段がある

山上の曲輪
一部墓地になっている。

端にある高台

周囲には堀切もある。

低い平坦地

石田城

香川県さぬき市寒川町石田東にある石田城

小十九間城とも。
現在光明寺になっている辺りにあった。
曲輪は二段に別れていたという。

天正年間、城主に安富元綱が居り
天正十一年に長宗我部氏によって攻め落とされた。
側の石田神社が細川頼之や寒川氏が関わっているそうで、石田城もその関係する所か。

光明寺

奥に細川林谷・義平の墓
気になるところだが調べ損ねた。

養宜館

兵庫県南あわじ市八木養宜にある養宜館

御土居、大土居とも呼ばれる。
中八木集会所のある場所に石碑や看板。
方形の館で、北東側・東側に土塁が残っている。

淡路における守護所。淡路細川氏の拠点。
鎌倉時代には守護の館だったとも。
承久の乱で守護の佐々木経高が宮方に属した為、乱後に軍功で長沼宗政が淡路守護になる。以降鎌倉時代は長沼氏が代々守護を務めた。

建武三年、足利尊氏が九州へ落ちる際、四国へ細川氏を遣わして地盤固めをさせる。
淡路へは細川師氏(公頼の子、和氏らの弟)を遣わし、暦応三年に宮方を破り養宜館へ入った。
以降、淡路細川氏が代々守護を務めた。

康安元年、細川清氏が南朝方へ離反すると、淡路二代・細川氏春も共に離反したが、清氏の戦死を以て北朝方に帰順した。

室町時代には明徳の乱、応永の乱、応仁の乱等に参加、
戦国時代に入った七代・細川尚春代の永正十四年、淡路へ三好之長が攻め込む。
永正十六年に尚春は討たれてしまい、淡路細川氏は滅亡。
尚春の子に彦四郎がおり、翌永正十七年の三好之長敗北後の処刑を強請したと云う。
しかし、淡路へは復帰できず養宜館も廃された。

養宜館の碑
昭和二年六月、蜂須賀正昭

大きく残る土塁

細川氏春歌碑

細川澄賢の墓

徳島県板野郡藍住町勝瑞西勝地にある細川澄賢の墓

福地寺の境内、本堂左側辺りにあり。
塀に囲まれた小さな五輪塔。

澄賢は細川政賢の子。細川典厩家。
両細川の乱における影響を受けており、政賢・澄賢は澄元に属し、高国は尹賢を立てた。

景徳山福地寺
文治年間、景徳上人による創建

徳島城

徳島県徳島市徳島町城内にある徳島城

渭山城とも。
公園および観光地化しており、簡単に回ることができる。
南側には鷲の門から堀があるほか、御殿部分が資料館・庭園になっている。
山城部分は主郭の一段南下に天守を構え、曲輪は北西にのびる

至徳元年、細川頼之が此処の景観を気に入り、渭津と称して此処に城を築き三島外記に守らせたと云う。
三島外記は細川頼之から信頼厚い家臣であり、頼之の死に及び殉死した。
その後も城は維持されたらしく、永禄年間には森氏が置かれた。
天正年間には森飛騨守高次の管轄になり番兵を置いていたが、高次は天正七年における岩倉・脇の両城寝返りによって戦死。
天正十年、長宗我部氏の阿波侵攻により土佐方の吉田孫左衛門康俊が入った。

天正十三年、豊臣秀吉による四国攻めが行われ、阿波における土佐方は追われ、代わって蜂須賀家正が阿波へ入った。
当初は一宮城を拠点としていたが、徳島城を修築し拠点を移した。修築にあたっては林道感や武市信昆が担当した。

明治に入って他と同じく廃城となったが、鷲の門そのまま遺されていた。
昭和二十年、空襲によって鷲の門も焼失。のち平成元年に復元。

鷲の門

下乗橋
御殿部分へ進む虎口。
奥には桝形、左右に太鼓櫓と月見櫓。
名前は籠から降りて渡った為と云う。

明治二年に花崗岩製になり、明治四十一年に水平の橋に改修された。

桝形内部

表御殿
現在は博物館になっているが、外見も御殿風。

表御殿庭園
国指定名勝。上田宗箇の作と云う。

数奇屋橋
旗櫓下にあった門からの橋。
門は不明門と称し、有事以外開かない場所だった。

山城部分への道。
階段などしっかり整備。

天守跡
曲輪は東二の丸と称す。
天守は三重櫓だった。

主郭下石垣

本丸部分
中央に管理のための御留守番所が置かれていた。
東部には鐘が置かれ、火事の際に危急を知らせるために鳴らしたと云う。

西虎口

西二の丸

帳櫓跡
各所に同様の櫓跡と石碑有

西三の丸
何かしらの敷地になっている。

西虎口

井上城、土居庸吉・昌秀の墓

徳島県吉野川市山川町井上にある井上城

34.042387, 134.223684に看板。川田城とも。
現在田畑となっているが、ここら一帯は一段高くなっており、館城があったと云う。

宝徳三年、細川常有が築城したと云う。
常有の数代前の頼長が和泉岸和田に居たため、泉屋形とも呼ばれたと云う。
常有から数えて四代・元常の代に京都へ移った為、代官として谷馬之助が入ったが、細川氏に背いたため土居綱真に命じて討伐させた。代わって代官には丹治常直が入った。
のち機内で三好氏が勢力を持つと、細川元常は此処へ戻り死去したと云う。

永禄年間、細川氏が衰退し三好氏が勢力を持つと土肥氏は丹治常直を殺害し三好氏に属した。

その後、天正七年に脇城での戦闘で土肥秀実が戦死。
天正十年、長宗我部氏に攻められて井上城は落城した。

土肥紀伊守庸吉と土肥右衛門尉昌秀の墓

・土肥庸吉(左)
天正三・・・三月・・・日
・・院殿・・・諦岳・・宥大居士
土肥紀伊守源朝臣庸吉

看板曰く、丹治常直を殺したのが庸吉と云う。

・土肥昌秀(右)
慶長十二・・・年八月十四日
慶恭?院殿晴雲空觀居士
前日土肥右衛門尉源昌秀

側にある墓碑
・左
延宝五丁巳五月九日没
知覺院心花妙・・禅定尼
杉原・・・室

・右
本覚院・・・
俗名杉原・・・・

細川真之の墓(細川神社)

徳島県小松島市坂野町目佐にある細川真之の墓

複数存在する細川真之の墓の一つ。
現在細川神社という小さな社となっている。
細川真之は阿波細川氏の最後の当主。

天正十年、戦いに敗れ茨ヶ岡城において自害した後、
中角六郎左衛門が真之の首を守り、此処へ逃れて祀った首塚と云う。

鳥居は平成四年製。
横に由緒石碑あり。