カテゴリー: 山口県

仙鳥館

山口県岩国市横山にある仙鳥館。
34.173340, 132.178108の辺りにある。市指定文化財。
仙鳥御屋形とも云う。

元禄十一年、吉川広逵の代に居館として建てられた。二歳だった広逵は母と此処へ移り住んだという。
後は一族の子女教育の場となり、明和五年から書院が改築された。
現在の建物が弘化三年の物と云う。

内部は見学できないが、門の所に説明看板がある。

養老館(岩国藩校)

山口県岩国市横山にあった養老館
岩国市教育センターの辺りにあった。
34.172109, 132.177819に新しく看板が親設されたようだ。

岩国では広嘉の代から人材教育の考えはあり、経永の代の宝暦四年に横山講堂、経礼の代の文化九年に錦見講堂が出来た。

これらは塾的な施設であった為、文化元年と天保四年に経礼へ藩校設置の意見書が提出された。しかし経礼の代では既設講堂の老朽化対処もあって先延ばしとなった。

経幹の代になると弘化二年に講堂改築に取り組んだが土地が狭く増築できないという問題が出てきた。是を機に萩の明倫館等を習い学校設置が決まり、弘化四年に講堂を廃して養老館を開校した。
就学年齢は十三歳から二十歳まで。のちの学制改革で四十歳まで就学が可能になった。
十八歳になると文武の試験が行われ、不合格者は再試験が行われる。二十歳に至るまで落第を続けると嫡廃される。
のち、入学前の八歳から十三歳の者も教育が行われるようになり、素読所が設置された。

慶応二年一月二十八日夜、火災によって養老館が焼失。廃校となる。
一応素読寮は残ったそうだ。

明治十三年、育英館跡に岩国中学校が設立。
明治十六年に徴古館の場所に移り、明治三十四年吉香公園隅の場所へ移転。
明治三十五年には岩国高等女学校も置かれ、昭和二十四年岩国西高校。昭和二十五年に岩国高校、昭和四十三年に現岩国高校地へ移転。

吉香公園の隅34.169912, 132.176846に岩国高等学校記念館が建てられており、大正五年に女学校時代の建物を使用して建てられたという。

目加田家住宅

山口県岩国市横山にある目加田家住宅
国指定重要文化財。

目加田家は近江愛知郡に居たが、天正年間に吉川元春に召し抱えられた。
岩国移転時にも吉川広家に従い移り住んだ。

江戸時代中期にはすでに現在地に屋敷を構えている。中級武士の武家屋敷として昭和四十九年に重文指定。

側には白蛇展示館がある。

岩国土居

山口県岩国市横山にある
吉川氏江戸時代の居所。

関ケ原の戦いが終わったのち、毛利氏の防長移転に合わせて関連武家も古巣から移転を始めた。当時の当主吉川広家は出雲に居たが、周防岩国へ移る事となった。
岩国での新しい居城として岩国城と麓に館として土居を築城した。

土居は最初に広家母の慈光院が住む上の土居から建てられた。次いで当主の居所や政治の役所が造られていった。
正門は土橋が設けられ、元禄四年に彦根藩の使者来訪に合わせて釣橋に変え、のち元に戻した。なお、正門奥は枡形虎口。
ほか、正面上口側に畳櫓、下口側に南櫓、白山門側に物見櫓が設けられていた。
のち、一国一城令で山頂の岩国城の廃城が決定。広家は存続願を出したが毛利輝元に拒否された。のち、麓の土居部分が残り明治まで使用された。

現在は吉香神社と公園地になっており、堀が残る。隅には櫓を模した錦雲閣が明治十八年に建てられた。

吉香神社
岩国御土居内にある。
吉川氏歴代を祀った神社。
社殿は享保十三年に白山神社内にあったものを明治十八年に移築したもの。
本殿・拝殿・神門・鳥居が国指定重要文化財になっている。

吉香神社門

旧吉川邸厩門

錦帯橋

山口県岩国市岩国の錦帯橋。
吉川広嘉の代に掛けられた橋。

 広家の代から居所となっていた岩国は山の奥地にあり、要害ではあるが当初交通の便は悪く、城下へ大きな錦側を渡る必要があった。広家の代は川を渡るための橋と渡し船が設けられていたが、河の増水の加減によって渡ることが出来ない場合が多かった。
橋も強度は悪く、程なくして無くなってしまう。次の広正の代でもこの問題に取り組んでおり、新たに橋を架けたが、たった二年で洪水によって流された。錦川はたびたび洪水を起こす厄介な川であり、川幅は二百メートルもあって流木も流れてくる。通常の橋では強度がたりず、岩国領では苦戦を強いられていた。

 広嘉の代になって再び橋を掛ける試みが行われた。通常の橋では過去の失敗と同じになってしまうため、広嘉は家臣の中から創意工夫の長けた人々を選んで企画に取り入れた。
火薬を用いて矢を四・五十本打ち出す鉄砲・水上歩行ができる浮香などを発明し、錦帯橋の模型を試作した小河内玄可、細工人で普請棟梁の経験もある児玉六郎左衛門、その弟で兄と共に橋の研究や錦帯橋設計に携わった児玉苦労右衛門、錦帯橋創建の相談役であった真田正臣らがいる。

広嘉自身も橋の研究にうちこみ、広嘉の参勤交代や長崎へ児玉九郎右衛門を長崎へ派遣して情報収集を行っている。そのなかで、甲斐猿橋・長崎の眼鏡橋などからアーチ状の形にヒントを得ることが出来た。しかし、これらの事例はいずれも川幅が狭い場所にかかっている橋であり、錦川のような長距離をアーチ状での架け橋は難しかった。また、広嘉自身病気にかかっていることが多く、計画は難航した。

 寛文四年、広嘉が病の為、長崎に居る独立性易という者に診てもらう事になった。独立性易は元々中国の杭州仁和の出身であり、承応二年に日本を訪れた所拘留されて長崎にとどまっていた。博学で、医術の知識も持っていた。独立性易が岩国に呼ばれ、広嘉と対面した際に独立性易の故郷である杭州西湖の話が話題に上った。
この時広嘉は独立性易が西湖について書かれた西湖遊覧志という書物に興味を持ち、わざわざ長崎から取り寄せた。この書に書かれている西湖の図に島伝いに架かる橋をみて橋の架け方の構想をひらめき、机を叩いて喜んだという。

ちなみに病気については、五回も独立性易が岩国に訪れて治療を行ったが思うように治らず、寛文五年に広正の隠居で家督を相続するも、政務は家臣たちにまかせ、巡検使の接待や水路開発も重臣たちに依頼していた。

 構想を得た広嘉は延宝元年から工事に取り掛かる。アーチ状の橋を架けるため川の中に橋脚を設けることになり、抵抗を最小限に抑えるべく、水流方向に尖った紡錘型の橋脚を、生松を亀甲形に組んだ枠に敷き、河床二メートルのところからくみ上げて、内部には割石・要石を詰めた。更に橋脚無いに五本の隔石を組み込みアーチ跳ね返し始点として五列の拱肋を渡し、梁で五本を束ねて、後詰木・平均木をつけて敷板を並べた。これによってようやく錦帯橋が完成した。
 しかし、翌年の延宝二年、錦帯橋は流出してしまう。橋脚の固定部分が原因であったらしく、湯浅七右衛門・米村茂右衛門が近江の戸波駿河の元へ派遣され、石垣の築造を学んだ後、延宝四年に帰国し、翌年に敷石を設けて、さらに翌年の延宝六年には周辺の河床に捨石を施し、錦帯橋は再建された。
以降、代々橋を維持していき、昭和二十五年に至るまで橋は流出することなく使用された。広嘉以降の代にも橋の研究は続けられており、強度実験による補修や、腐食対策が行われており、長く橋が維持される要因となった。

ちなみに橋の維持費は橋催相という新税を設けて庶民に至るまで徴収し、延宝六年からは橋出米という形で常に徴収された。

泰雲寺、小早川隆景の墓、大内教弘の供養塔等

山口県山口市下小鯖にある泰雲寺

応永十一年に創建された寺院。
のち大内教弘の菩提寺となって現地に移転。大内氏滅亡後は小早川隆景の菩提寺となり、泰雲寺と改めた。
小早川隆景や大内教弘関係の石塔が建つ。

山門

門と回廊

小早川隆景の墓
沼田小早川氏十六代。毛利元就三男。
竹原小早川氏へ養子のち、繁平の妹を娶り沼田・竹原の小早川氏を統合。
沼田小早川氏の全盛期を築く。
墓は四か所あり、此処の泰雲寺、米山寺、宗生寺、大徳寺黄梅院にある。
泰雲寺殿泰雲紹閑大居士。

小早川隆景室の墓
沼田小早川正平の娘。問田の方。
慈光院殿渓永智大姉。

大内教弘の供養塔
大内氏二十八代。
最後は伊予の興居島で死に、墓もそちらにある。(和気比売神社の裏畑跡内)
闢雲寺殿大基教弘大禅定門。

益田七内の墓
問田深野の領主となり、毛利氏守役だったようだが、若君を落馬で死なせてしまった為切腹したと云う。
正通院殿要甫紹玄居士

開山供養塔

紹考寺、益田氏墓所

山口県萩市須佐河原丁にある全峰山紹考寺。
曹洞宗寺院。益田氏菩提寺の一つ。

建仁年間の創建で当初は天台宗延命寺。
天正年間、瑞雲山長福寺。慶長年間、福箕山宗円寺。
元禄年間に現在の寺号になった。

昭和六年に山門以外全焼。昭和十年に再建されるが、昭和二十六年の台風で山門も流失した。

益田氏墓所
二十五代・就恒、二十六代・就賢、および一族の墓所がある。
他の当主らは北にある須佐益田氏墓所の方にある。

二十五代・益田就恒の墓
二十一代・元尭の五男。
兼長・久之丞の早世し、久之丞の死後代役を務めていた就恒が当主に選ばれた。
元禄六年没

二十六代・益田就賢の墓
益田就武の次男で元祥の曾孫。
享保十七年没

江雲□殿□□前□□峰紹考大居士。
紹考の文字が気になる。
手持ちに戒名情報持っていなかったので、もしかするとこっちが正解かも知れない。

育英館

山口県萩市須佐にある育英館
須佐益田氏によって建てられた領校。
現在は育英小学校になっている。
34.616868, 131.600033へ門が残る。

享保年間、二十七・益田元道が品川希明に講義を行わせた。これ以降武士の子弟を中心に教育を受けさせる事が多くなる。
享保二十年、正式に教育を受けさせる場所として元道が育英館を開いた。

文を中心とし文盲を無くす目的だったが、嘉永五年には学制改革が行われ、剣術・遊泳・馬術等の武術も教育に取り入れた。

明治六年に須佐小学校となり教育の場所として現在も続く。

笠松神社

山口県萩市須佐にある笠松神社
益田親施を祀る神社。

元治元年、親施が禁門の変での責を負って自害した。須佐では家臣らが親施を高正大神として祀った。
親施を偲んでか、鳥居に元治三年、灯篭に元治四年と銘があり、慶応をあえて使用していない。

昭和五十七年、初代・国兼以降の歴代当主が合祀。
昭和五十一年に灯篭・昭和五十二年に鳥居が須佐町文化財指定。

益田親施像

益田氏館(須佐)

山口県萩市須佐にある須佐益田氏館。
須佐歴史民俗資料館になっている。

慶長八年、毛利氏に従っていた益田氏が防長移転によって須佐へ移る際、益田の三宅土居を解体。船で運び此処へ移築した。
明治七年に改築され、昭和五十五年に須佐町へ寄贈された。

近代に入って水害で浸水してしまったが復旧。
内部は資料館から見学が可能。

玄関