岐阜県海津市平田町今尾にある常永寺の今尾藩主竹腰氏の墓所。
竹腰正信が今尾三万石で今尾城(今尾陣屋)に入った。
江戸時代を通し尾張藩の家老であるため大名ではなかったが、慶応四年に犬山藩などと共に大名へ昇格。
墓地内部にあり、竹腰家と書かれた石碑あり。正面に竹腰正美の墓、右手に歴代の石碑あり。
過去に回った史跡の管理ノート用、あくまで自分用。全国気が向いたものから。
カテゴリー: 岐阜県
岐阜県海津市平田町今尾にある常永寺の今尾藩主竹腰氏の墓所。
竹腰正信が今尾三万石で今尾城(今尾陣屋)に入った。
江戸時代を通し尾張藩の家老であるため大名ではなかったが、慶応四年に犬山藩などと共に大名へ昇格。
墓地内部にあり、竹腰家と書かれた石碑あり。正面に竹腰正美の墓、右手に歴代の石碑あり。
宝暦治水の黒田唯右衛門の墓。薩摩藩士。
島津重年の代、幕府から治水の手伝い普請を命ぜられた。度重なる幕府からの嫌がらせや屈辱的仕打ちによって多くの自殺者と借金を出した。死者八十五名のうち五十二名が切腹で黒田唯右衛門もその一人。
当時の薩摩藩は借金を抱えていた状態であったが、大阪の商家から三十万両、そのた増税によって捻出した四十万両でなんとか乗り切った。
桑名では治水を完遂させた彼らは英雄として扱われており、呼び方も義士、犠牲者の墓もたいそう大切にされていた。
しかし、次の島津氏の当主は重豪。今回の借金を十余倍の五百万両まで増やすという恐ろしい時代が待ち受けている。
島津氏関係の供養塔。
平田靱負ら宝暦治水の関係者犠牲者たち。当時の当主・島津重年。
島津義弘・島津豊久・長寿院盛敦といった関ケ原関係者。
美濃の高須城。近世からは高須陣屋。
氏家重国が康暦元年に地頭となって気づいた。のち大永二年に大橋源左衛門重一が再築城。関ケ原の時には当時の城主高木盛兼は西軍方に属して攻撃を受け落城。
戦功により徳永寿昌が慶長六年に入ったが、工事停滞と争訴などで寛永五年に徐封。寛永十七年に小笠原が入ったが水害や年貢取り立てに難航し、元禄四年に越前勝山へ。元禄十三年に松平義行が入って定着。
高須松平時代は尾張藩の支藩。宗家へ当主を何度か送り込んでおり、支藩としての機能を十分に果たしている。それゆえ、松平容保や定敬らの出身地として会津や桑名でもそれなりに名前を聞く。
堀跡と主水橋。
大半が学校や住宅地になるなか、ここだけが旧状をとどめる。
近くの海津市歴史民俗資料館の上には復元の御殿がのっかっている。
当然見学もできるので、ぜひみるべきもの。
美濃の行基寺。
天平年間に行基によって開基。行基の没地とも。
近世において高須松平家の菩提寺となる。
高須松平家の墓所もあるらしいが、入ることはできず。また、内部には庭園もあり拝観可能らしいが、到着が早すぎたため断念。
楼門。
かなり高い場所にあり、平野を眺めることが出来る。
ちょうど車等が無かったため、駅から走って来たが少々大変。
大垣の円通寺にある戸田氏の墓所。
寛永十二年に氏鉄が尼崎より大垣へ移った際に寺院もここへ移転された。
氏正と氏共の墓は東京にあったが、昭和三十八年にここへ移されたとの事。
戸田氏鉄
氏信。
氏西。
氏定
氏長
氏英
氏教
氏庸
氏正
氏彬
氏共
美濃の大垣城。
天守や櫓が再建され資料館としてあり、大部分は公園や都市部になった。
築城は複数の説あり。天文四年に宮川安定とか、明応九年に竹腰尚綱とか。
竹腰氏は大垣城を織田信秀に取られたが、斎藤道三によって回復し、再入城。
尚光が戦死すると、氏家直元が入り城を拡張。
のち池田輝政、加藤光泰と入り一柳尚末のときに天正地震で被害あり。羽柴、伊藤祐盛ときて天守を創建する。
関ケ原の時には西軍方の城となり戦闘あり。近世には戸田氏鉄が入る。
昭和二十年に空襲で現存天守が消失してしまった。
櫓と櫓門、
戸田氏鉄像
斎藤利永が加納城を築城した際に、守護として勧請。創建はさらに古いともいう。
慶長六年に加納城が再築城されるおり、神社が城域に入るので、現在地に移転される。
加納めぐりの際にに立ち寄り。
中山道の宿場町。加納城の城下町。
ところどころに目印があったので、加納城目当てのついでに廻る。
加納宿本陣。和宮の宿となり歌碑がある。
脇本陣。
西問屋。
美濃の加納城。
主郭が公園になっており、石垣の多くが残る。訪問当時、案内板もあって回りやすくなっている。
土岐氏が革手城に居た時、文安二年に斎藤利永が革手城守衛の為に築いた。康正二年に土岐成頼が入り、応仁の乱の頃には斎藤妙椿。船田合戦等を経て天文七年、利良の時に廃城。
慶長六年に岐阜城を廃して翌年より加納城を築城して再び登場する。奥平氏が入り忠隆の代で断絶すると、大久保、戸田、安藤と変わり永井氏が入る。
ここにあった御三階は岐阜城天守を移してきたものらしい。
大井にある大井城。大井小学校の辺りにあったという。
築城年代不明だが中世に土岐一族の蜂屋氏において、定親の玄孫に井遠江守行秀という者が出てくるので、だいたいその頃という。
土岐成頼が応仁の乱で在京し、文明五年に守護代だった斎藤妙椿が京へ行った留守を狙って小笠原・木曽軍によって萩之島城と共に落とされた。
小笠原撤退後は遠山氏の支配下となるも、武田、織田攻められ都度落城する。
江戸時代には芝居小屋になった。
周辺を内城といい、隅に内城稲荷が建つ。
すぐ近くに和宮泉がある。
本陣林家が使用した良泉。文久元年十月に和宮が恩人に立ち寄った際、水見役がここの水を検水し、和宮に供したという話がある。