カテゴリー: 岡山県

吉備真備館(箭田)

岡山県倉敷市真備町箭田にある吉備真備館

吉備真備の館地と云う場所の一つ。
34.631693, 133.687762に石碑。
少し北には産湯井戸があり、駐車場もついている。
住宅地の真ん中のためか、その他の遺構は判らず。

産湯井戸
吉備真備が学問に長じた為、ここが整備され石碑も建てられたという。

美作国分寺

岡山県津山市国分寺にある美作国分寺

現在も国分寺はあり、現国分寺の西側の空き地一帯が旧国分寺域。
史跡整備される様で、

天平十三年、聖武天皇の詔により各国に建立される事になった国分寺。
本尊は行基の薬師如来。
承安二年に焼失して以降衰退していったが、元和九年の津山藩主森氏の時に再興。
文政十一年には津山藩主松平氏の時に再建された。

昭和五十七年から五十二年から五十四年にかけて発掘調査を実施し、旧国分寺域が発見された。
現国分寺前の道を挟んで北側に金堂・講堂。
南には金堂からのびる回廊が接続された中門、南門、塔がある。

訪れた平成三十年時点の看板では、今後史跡整備を行っていくとのこと。

金堂・講堂跡

中門・南門

国分寺礎石

現国分寺

境内

中山神社

岡山県津山市一宮にある中山神社

美作国一宮
慶運四年の創建。
延喜式の式内社で名神大社。
弘安九年には一遍上人が参拝し、一遍聖絵に登場する。
戦国時代になると、永正と天文の頃に焼失したと云うが、永禄二年には尼子晴久が社殿を再建した。

以降、戦国江戸期には崇敬あり。神社には尼子晴久・毛利元就・吉川元春らの連署書状、毛利元就書状、浦上宗景判物など五通があり、これを元禄三年に津山藩家老長尾隼人勝明がまとめた物をあ「中山神社戦国武将文書」として市指定重要文化財指定。

中山神社のムクノキ
樹齢五百円と云う。

神門
市指定重要文化財。
元は津山城二の丸の四脚門、
明治七年に現地に移築された。

社殿
本殿が国指定重要文化財。
永禄二年に尼子晴久が再建したもの。

横から

美作国府

岡山県津山市総社にある美作国府

美作における国府
美作国は元備前国の一部だったが、和銅六年に分離した。
国分はこの辺りにあったそうで、近くには総社もある。

現在は国府臺寺の境内に石碑と看板がある。
国府臺寺は、山号を龍起山、真言宗。高野山聖無院末。
明和六年に正観音を祀って正観寺と称していたが、
明治十八年、現地に移転し国府臺寺と改めた。

看板曰く、本堂と庫裏は昭和四十七年再建。

美作総社宮

岡山県津山市総社にある美作総社宮

北側から車でも上がることができたが、通って良い箇所かは微妙な所。

美作国における総社。
看板曰く、神社自体は欽明天皇二十五年、字本館にて大巳貴を祀ったものと云う。
和銅六年に美作国が設置されたのち、国司が社を現地へ移転させた。

のち、国司赴任時の神社参拝簡便化のため、総社が置かれる事になった際には、此処が総社にあてられたと云う、

国府が廃れた後も、総社は維持されていた様で江戸時代には津山藩主から寄進、
明治には県社と云う。

本殿は永禄十二年、毛利元就の造営。
明暦三年、森長継が修理、
昭和七年にも解体修理が行われた。
大正三年には国宝指定で、現在は国指定重要文化財。

宇喜多基家の墓

岡山県玉野市八浜町大崎にある宇喜多基家の墓

34.546069, 133.938291にある。
となりの石碑曰く此処が宇喜多基家の墳墓の地と云う。
神社化しており、社殿内に五輪塔あり。
側には大量の絵馬があり、それなりに信仰されているようだ。

基家は輿太郎と称し、
宇喜多直家の養子、天正十年の八浜合戦で大将として戦ったが戦死した。

社殿内の五輪塔

基家と八浜合戦について刻まれた石碑

八浜城

岡山県玉野市八浜町八浜にある八浜城
両児山城とも

現在墓地や神社のある公園となっている。
34.551404, 133.940157に駐車場。
山頂が東西に別れており、北側は神社域、
南側は墓地・城石碑、城を囲む堀も残っている。

天正十年、毛利軍が麦飯山城へ陣を張り攻めて来た際、宇喜多氏は直家が死んだばかりのため、直家の養子・宇喜多基家が大将として八浜城へ入った
この戦いで基家は戦死したが、七本槍と呼ばれる武将たちの働きで毛利軍の進軍を抑えた。

駐車場

山は両児山の樹林として郷土記念物指定

北側の山頂
神社あり

・八浜八幡宮
元川の出雲谷にあったが応永三十四年に現地へ遷座。
岡山藩の池田光政生誕を予言したと云い、藩主より崇敬された
社殿は正徳四年池田綱政の代のものだが最近になって修築された様だ。

・快神社
八浜の海岸に流れ着いた材木から音楽が聞こえ、割ると衣冠束帯の老翁が現れた。是を祀ったものがこの神社と云う。
江戸時代には岡山藩主の祈願もあり

南北中間の公園部分

南寄りに石祠

石祠奥に忠魂碑

南山頂
墓地となっており、いずれも僧の墓

南山頂奥

山頂を囲む堀
しっかりと遺構が残る箇所。

亀山城(沼)

岡山県岡山市東区沼にある亀山城
沼城とも。

南側に登口
東に二の丸、離れた西の山に西の丸があるが、本丸周辺以外は畑化しており近づけない。
但し本丸主変は宇喜多氏関連のため看板石碑など豊富。

天文年間、中山信正が築城した城と云う。
永禄二年、中山信正と宇喜多直家は縁戚であったが、直家は浦上宗景より中山謀反の疑いがあるとして、亀山城を攻め信正を討った。
この功により直家は宗景から亀山城を賜った為、それまで居た新庄山城から拠点を移した。

天正元年、直家が岡山城へ移ると弟の春家が入った。
天正十年、羽柴秀吉と毛利氏が戦った際に秀吉が立ち寄り、中国大返しの時にも氾濫のため此処で一時足を止めたと云う。

慶長五年に宇喜多氏が改易され小早川秀秋が岡山へ入ると、亀山城は廃城となり岡山城改修の資材となった。
亀山城天守の中心櫓は岡山城大納戸櫓、城門は家老稲葉匠守頭屋敷へ移築されたと云う。

登り口

本丸
説明看板、石碑などあり。

宇喜多秀家所縁の蘇鉄
秀家が改易となり八丈島へ流罪となった後、屋敷にあった蘇鉄を株分けし生誕地である此処へ移したと云う。

本丸の一段高い櫓台。
神社がある

神社本殿
周囲に溝があるため弁財天?

本丸下には帯曲輪が見える

大賀島寺、宇喜多一族の供養塔

岡山県瀬戸内市邑久町豊原にある大雄山大賀島寺
天台宗。本尊は千手観音

奈良期に報恩大師による創建と云う寺院。
中世、近くの砥石城に居た宇喜多能家により宇喜多氏の菩提寺となった。
本堂は元亀元年に焼失したようだが、慶長元年に再興。のち安永十年に再建されたものが現本堂で市指定重要文化財になっている。
ほか、境内北東側に宇喜多氏関連の墓石群がある。

境内に大きな参道の神社もある。

宇喜多一門供養塔
寺域に残っていた宇喜多氏関連の墓石を此処に集めた物と云う
五輪塔三基、石造笠塔婆一基、
五輪塔は何れも銘無し、石造笠塔婆は何か掘られている感じはあるが判別不可
宇喜多能家関係か

隣に追加の石碑も

砥石城

岡山県瀬戸内市邑久町豊原にある砥石城

34.648476, 134.086272に登山口。
駐車場は無し。一応北側にあるらしいが、個人宅にしか見えないのでやめた。
また、この山から別の山への縦走ルートになっているらしく、少し東にある釣り公園を拠点に登る方も多い様だ。

登山口を登ると北へ延びる曲輪が5~6っか所続き、主郭へ至る。
主郭東側側面と西側側面一部には石垣も残る。

宇喜多氏の城。
築城時期は不明であり、最初に登場するのは三代・宇喜多能家の代から。
大永三年、宇喜多能家が砥石城へ隠居して入ったと云う。

天文三年、砥石城の西にある高取山城の島村豊後守によって夜襲を受けた。この戦いで能家は自害。
子の興家、孫の直家は脱して生き延びた。
能家の死後は浮田大和守が城に入った。

天文十四年ごろから宇喜多直家が砥石城を攻撃。
天文十六年または大永二年に宇喜多直家に奪取され、弟の宇喜多春家が入ったと云う。
その後、直家が岡山城を築くと、春家は亀山城へ移り、砥石城へは宇喜多方の武将が入ったが、のち廃城に。

登山口。
道自体はしっかりしている。城跡までも簡単に登ることができる。

登っていくと先端曲輪へ出る。

曲輪の左側を通って主郭へ。

主郭の一段下。
ここから木が刈られている。

主郭

主郭にある石祠

主郭東側面に石垣

西側面にもわずかに残る